第13話

文字数 5,951文字

 二つの携帯のライトは床を照らし、黙って立ち尽くす三人の背中には、妙な緊張感があった。
 駆け寄る足音に、三人が同時に振り向いた。隙間から見えたのは、膝を抱えて柱に寄りかかり、顔をうずめた夏也の姿。その隣に春平、正面に弘貴がしゃがみ込んでいる。怜司が自分の携帯を指差して下へ向け、樹が人差し指を唇に当てた。ライトを下へ、静かに、の合図。
 各々その指示に従いながら三人の後ろで足を止め、紫苑が追いついた。
「夏也姉、大丈夫だから。顔上げてこっち見て」
「夏也姉、大丈夫だよ。落ち着いて、僕たちの声を聞いて」
 弘貴は夏也の顔を覗き込むように、春平は細い背中をさすりながら囁きかける。何度も何度も、ただひたすら大丈夫と繰り返す。
 美琴と同じ過呼吸だろうか。しかしあの時と対応が違うし、荒い呼吸も聞こえない。何があったのか、と思いつつも、張り詰めた空気に口も挟めず、ただ黙って見守るしかなかった。
 やがて、弘貴と春平が痛々しそうに唇を噛んだ。
 読めない状況と緊迫した空気が、逆に感覚を鋭くさせたのだろうか。
「出して……ここから、出して……」
 酷い雨風の音の隙間を縫うように、そう呟く微かな夏也の声だけが耳に飛び込んできた。泣き叫ぶでもなく嘆くでもなく、ただ静かに、(こいねが)うような声。
 ぎゅっと心臓が委縮して、息が詰まった。
 どういう意味だ。
 春平が手を止め、震えた声で呟いた。
「何か……、気を引くようなこと……何でもいいから……」
 自分に言い聞かせるような、それでいて訴えるような声に、誰もが咄嗟に思考を巡らせた。気を引くようなこと。この際状況はどうでもいい。何か、何か夏也の気を引けるようなこと、と走馬灯のように記憶を再生させる。
 あ、と大河の隣で華が閃いたように小さく呟いた。
「大河くん」
 小声で呼びかけられ、耳を寄せる。ぼそぼそと告げられた華の提案に、少し困惑した。そんなことで気が引けるのだろうか。不安な目で顔を合わせると、華は真っ直ぐな目で小さく頷いた。
 夏也の名を呼び続ける弘貴と、硬直する春平の姿を見て、大河は唇を結んだ。駄目だったら次の手を考えるまでだ。でも何を、と考えかけて思い出した。
 大河は携帯を握り締め、大きく息を吸い込んだ。仕事の時とは違い、華の伴奏付きではない。しっかり思い出して音を取らなければ。
 大河はゆっくりと、慎重に言葉を旋律に乗せた。
 三年ほど前に発売されたアルバムに収録されている、オスクリヒトのバラード曲。省吾とどちらが早く覚えられるか競争した中の一曲だ。
 静かというよりは、暗い感じの歌いだし。そこからサビへ向かって少しずつ、透明感のある壮大な曲調へと変わる。何度も何度も、繰り返し聞いたメロディーを思い出しながら、丁寧に言葉と旋律を紡ぐ。
 イメージは、海。
 息もできず、何も聞こえず、指一本さえ動かない。ただゆっくりと、冷たく暗い海の底へと沈んでいく。
 抱えているのは、悲しみや切なさ、儚さや憂い。後悔や苦悩、やり場のない思い。そして絶望。散々傷付いて、疲れ果て、もう立ち上がれないと諦めながらも、未練がましく薄く開いた目に映ったのは、闇の中で万華鏡のようにきらきらと揺れる小さな光。
 焦がれるように手を伸ばしたのは、本能。それでも心のどこかにある。あれが幻だったら、幻覚だったら。光なんかなくて、あるのは何もない闇だったら。
 そんな不安を抱え怯えながらも、心はまだ、求める――。
 歌いながら意識の片隅にあったのは、夏也の声と、弘貴と春平の必死な姿。大切な仲間が助けを求めている。だから救いたい。その一心だった。
 弘貴と春平の声さえ届かないほど心を閉ざしてしまっている夏也に、どうか届きますようにと。
 寮の廊下に響いた大河の歌声は、見事に嵐の音を食らった。刹那的な旋律を奏でる声は儚く、けれど暖かく柔らかい。そして次第に力強さを増し、闇を切り裂くようにどこまでも真っ直ぐ響き渡った。
 樹と怜司と華は静かに耳を澄ませ、他の者たちは目を丸くして大河を見つめている。
 夏也が、ゆっくりと顔を上げた。
 曲の長さは、そう長くない。全体で三分半くらいだ。イントロを省いて、一番とサビだけなら二分ないくらいだろう。
 サビの最後の音が、雪が溶けるように消えた瞬間、ぱっと明かりが戻った。トイレの電気だ。反射的に目をつぶった。瞼の裏がチカチカして、何度か瞬きをする。突然の明かりは強烈な刺激にしかならない。
 しかし、トイレの明かりだけだったため早々に視界が戻り、大河はうっすらと目を開いた。
「あっ、夏也姉、大丈夫か? 怪我は?」
 弘貴の声に皆が視線を夏也へ戻す。どこか夢現な目をしていた夏也が、現実に引き戻されたように我に返った。もう一度目をしばたいて、こくりと頷く。
「……はい……大丈夫です……」
 俯いて小さく返ってきた答えに、一斉に安堵の息を漏らした。
「ひとまず、リビングに戻ろうか。夏也さん、立てるかい?」
「はい……」
「あ、いいよ夏也姉」
 茂の問いかけで立ち上がろうとした夏也を、弘貴が止めた。春平と場所を交代し、おもむろに夏也の背中と膝裏を腕で支えて軽々と持ち上げた。春平は思い出したように転がっていた携帯を回収し、トイレの電気を消して扉を閉める。
「あの、弘貴くん……」
「いいから。夏也姉、軽いから平気」
「……すみません」
 いいって、と言いながら歩き出した弘貴の後ろから春平が、先導するように華と紫苑が踵を返した。紫苑の肩越しに、藍と蓮が心配そうな顔で夏也を見つめている。
「まあ、何ともなくて良かったけど……」
 察したような声でぽつりと呟いた樹の言葉に、大河たちは憂いた表情でライトを消しながらぞろぞろと動き出した。
 リビングに戻ると、春平はエアコンを入れ直し、華はキッチンに立っていた。弘貴と夏也が座っているソファに双子が駆け寄り、心配そうな顔で夏也を見上げた。
「大丈夫ですよ。すみません、心配をかけてしまいましたね」
 そう言って少し疲れた顔で藍と蓮の頭を撫でる夏也を横目に、何となく自分の席へつく。大河や柴と紫苑は定位置のソファに腰を下ろし、藍と蓮が夏也の側から離れないため、春平が大河の隣に座った。温まった室内の温度を下げようと、エアコンが勢いよく冷風を吐き出す。
 キッチンからレンジの終了音が聞こえ、夏也がおもむろに口を開いた。
「皆さん、ご心配をおかけして、すみませんでした」
 夏也がゆっくりと頭を下げ、口を開いたのは茂だ。
「夏也さん。今後のためにも聞いた方がいいと思うから、聞くね。もちろん、詳しく話さなくてもいいから」
 茂は一拍置いてから続けた。
「夏也さんは、暗くて、狭い場所が苦手なのかな」
 茂の質問でやっと気が付いた。状況から見て、夏也は風呂の支度に行ったついでにトイレに行ったのだ。その時に停電になった。トイレに窓はなく広さは一畳ほど。停電になれば、当然真っ暗だ。
 夏也は、はい、と小さく頷いた。
 華がココアの入ったマグカップを手にキッチンから出てきて、熱いから気を付けてね、と声をかけて夏也に手渡した。甘い香りと湯気が立つココアに目を落とし、息を吹きかけて冷ましてから、夏也はゆっくり口を付けた。
 華が席につき、夏也は一口飲んで脱力するように息を吐くと、口を開いた。
「私は、段ボールの中で育てられました」
 他人事のようにさらりと出てきた言葉に、弘貴と春平を含めた全員が言葉を失った。「段ボール」と「育てられた」という言葉が繋がらない。
 不意に夏也が柴と紫苑を見やった。
「段ボールというのは、日記が入れられていた箱のことです。さすがに、あれよりは大きいですが」
 二人は目を丸くすると、柴が伏せ目がちにそうかと呟いた。夏也はカップに目を落としたまま、ゆっくりと、しかし端的に語った。
「暗くて、狭くて、夏は暑く、冬は寒かったです。いつも、お腹が空いていました。勝手に外へ出ると叱られるので、お手洗いと、時々のお風呂以外は、ずっと段ボールの中で過ごしました。保護されたのは、五歳でした。あの日は、父と、母、かどうかは分かりません。恋人だったのかもしれません。数日間、水以外何も食べさせてもらえず、限界だったので、二人が出掛けた隙に食べ物を探しました。でも、何もありませんでした。家を出て、隣の部屋のドアを叩いたところまでは、覚えています。気が付いたら病院にいて、児童相談所の人に話を聞かれて施設に入り、今に至ります。あとから聞いたのですが、児童相談所に連絡してくれたのは、隣に住む女性だったそうです。あの後の父たちのことは、何も知らされていません」
 辛いとか悲しいとか苦しいとか、その時自分はどう思ったという言葉が、一つもない。夏也の抑揚のない口調には、いつも以上に感情がなく、ただ事務的に報告をしている。そんな印象を受けた。
 口を閉じた夏也から視線を逸らし、大河は膝の上で握った拳に目を落とした。
 なんで、子供にそんなことができるんだろう。香苗も、おそらく美琴も同じだろう。どんな理由があったとしても、食事を与えないとか暴力を振るうとか、段ボールに閉じ込めるなんて親の、いや、人のすることではない。分からない、理解できない。何故、そんなことをして何とも思わないのだろう。
 視界の端に、隣の春平の拳が映った。白くなるほど握られている。弘貴も春平も、話を聞いて驚いていた。きっと、暗くて狭い場所が苦手ということは知っていても、その理由までは知らなかったのだろう。
「夏也」
 不意に華が口を開いた。
「狭いだけとか、暗いだけなら平気なの?」
「はい。ずっと、気を付けていたんですが……」
 だから携帯があったのか。この雷雨で停電するかもしれないと思い、もしもの時のために携帯を持ち込んだ。けれど、突然襲った暗闇には、咄嗟に対応しきれなかった。
 すみません、と小さく呟いて俯いた夏也に、華は思案顔を浮かべた。
「じゃあお手洗いと、念のためにリネン庫と食糧庫、あと洗面所。電球を全部取り換えましょう。前に蛍光灯を買いに行った時に見たんだけど、停電した時に自動で点灯する電球があるのよ」
「ああ、そういえばあったね。賛成」
 華の提案に茂が賛同し、樹が首を傾げた。
「そんなのあるの?」
「うん、災害対策としてね。普段は普通の電球として使えて、バッテリーが内蔵されているからそれで充電してるらしいよ。停電すると自動で点灯するんだって」
「へぇ、そんな優れモノがあるんだ。いいじゃない、そうしようよ」
「賛成!」
「僕もです」
 間髪置かず樹に勢いよく乗ったのは、大河と弘貴だ。そのあとに春平。昴や美琴、香苗も次々と声を上げ、藍と蓮も真似をして大きく手を上げた。柴と紫苑は、想像できないのだろう。しかし、
「よく理解できぬが、夏也が苦しまずに済む手段があるのなら、それを選択しない理由はない」
 そう言った紫苑に、柴が大きく頷いた。
 電気を点けた時に発生する熱を利用して、明かりを消したあともほんのりと光る蛍光灯があるのは知っていたが、バッテリーが内蔵された電球があるなんて知らなかった。地震や台風で被害が多く出ている昨今、対応できるようにと色々な開発がされているのだ。
 それに華。夏也の話を聞いて憂いていないわけではないだろうが、その感情だけに囚われず、防ぐ方法を同時に考えていたのだ。いつも囚われてしまう大河からしてみれば、双子の将来を見据えていたことといい、開発者もすごいが華もすごい。
「良かったな、夏也姉。もう心配いらねぇな」
 弘貴がにっと白い歯をのぞかせて覗き込むと、夏也は「あの」と視線を巡らせた。
「しかし、いくつも変えるとなると、費用が……」
「必要経費」
「必要経費よ」
「必要経費だよ」
「必要経費です」
 一斉に振り向かれて同時に一蹴され、夏也は珍しく目を丸くした。
「ただ」
 怜司が夏也を見据える。
「報告を上げる時に、さっきの話をすることになる。夏也が知られたくないのなら、別の方法を考えるぞ」
 そういえば、華にキッチンの排水溝の網を頼まれた時も領収書を切った。運営費がどうなっているのか知らないが、寮費として報告する必要があるのだろう。
 夏也はカップに目を落として逡巡し、視線を上げた。
「構いません。よろしくお願いします」
 頭を下げた夏也に、再び安堵の息が漏れる。
「そうと決まれば、どうしようか。買いに行った方が早いと思うけど、ネットの方が色々出回ってそうだよね」
「調べてみます」
「うん、頼むね」
 ネット注文担当の怜司と、買い出しの運転担当の茂の相談が終わると、さてと華が夏也に視線を投げた。
「夏也。貴方はお風呂に入って、今日はもう休みなさい。どのみち皆このあと部屋に籠るみたいだし、やることもないでしょうしね」
「あ、じゃあ」
 声が重なったのは美琴と香苗だ。二人はしばし顔を合わせ、同じタイミングで夏也を見やり、
「あたしも」
 と、また同時に声を発して互いの顔を見合わせる。しばらくの沈黙のあと、どっと笑い声がリビングに響いた。香苗も美琴もらしいな、と思う大河とは裏腹に、弘貴は少し驚いた顔で美琴を見ている。
「はいはい、仲良く一緒に入ってらっしゃい」
 茶化したような、それでいて微笑ましそうに言った華に、美琴は居心地が悪そうに眉を寄せて腰を上げ、反対に香苗は嬉しそうに笑って立ち上がった。藍と蓮が、小さな手を高く上げる。
「あら、藍と蓮も一緒に入ってくれるの?」
 こくりと大きく頷いた。
「じゃあ、夏也のことよろしくね」
「はい!」
 藍と蓮なりに察したのだろう。きりりと顔を引き締め、使命感満載の声で答えて夏也のTシャツを引っ張った。
「あの、じゃあ……」
 美琴と香苗に加えて、藍と蓮にまで気遣われては断れないだろう。夏也は素直に腰を上げた。
「ええ。ゆっくり入ってね」
「はい。あの……、大河くん」
 藍と蓮に手を引っ張られながら、夏也が大河へ視線を向けた。
「はい」
「あの、さっきの歌なんですが……、誰の曲ですか?」
 意外な質問だが、興味を持ってくれたのだろうか。
「ああ、オスクリヒトってバンドの曲です」
「オスク、リヒト……タイトルは……」
 あ、やっぱり興味持ってくれたんだ。大河は思い切り顔の筋肉を緩ませて、満面の笑みをこぼした。
「光」
 一瞬、夏也が声を詰まらせたように見えて、大河は小首を傾げた。
「光……オスクリヒト……。分かりました、ありがとうございます」
「いえ」
 緩んだ顔のまま答えると、夏也は改めてぐるりと皆を見渡した。
「皆さん、本当に、ありがとうございます」
 深々と頭を下げる夏也に、皆が微笑みを返す。早く行こうと言いたげに藍と蓮に手を引っ張られ、夏也は戸口で待っていた美琴や香苗と一緒にリビングを出た。
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