第18話
文字数 2,503文字
「ったく、しょーがねぇなぁ」
本山は大きな溜め息をつくと、携帯で何かを確認した。そしておもむろに両腕を広げ、中川たちを見渡す。
「はい、健康な男子諸君! これから溜まった欲を吐き出すべく、獲物を確保しに行くぞー!」
本山が宣言すると、三人は拳を上げて戦士のような雄叫びを上げた。本山は側にしゃがみ込み、雅臣の髪を鷲掴みにして無理矢理頭を引っ張り上げる。
「ちょうど桃子ちゃんが塾から出てくる時間だ。すぐ連れてくるから待ってろ。何するかは、説明しなくても分かるよな?」
「な……っ」
桃子の塾の時間割まで調べたのか。本山は手を離し、歪な笑みを浮かべて携帯を掲げた。
「便利だよな、携帯。写真に動画、録音何でもござれだ。人も道具も使いようってな」
「まさか……っ」
動画に撮って桃子を脅す気か。
「そのまさか。警察に通報したり逃げたりしたら、問答無用で拡散してやる。じゃあな、いい子で待ってろ」
ひらひらと手を振り、本山は立ち上がって背を向けた。
「ま……て……っ」
立ち上がろうにも、さっきの本山の蹴りの痛みが酷くて力が入らない。腕も足も、小刻みに震えている。次第に遠退いて行く本山たちの忌々しい笑い声と背中を睨みつけ、雅臣は両の拳を握り締めた。
「なん、で……ッ」
爪が手の平に食い込んで、血が滲む。
「何で……ッ!」
あんな奴らがいる。あんな奴らが生きてる。あんな奴らが存在する。あいつらが存在する意味は、どこにある――人を傷付けるだけの、ただのゴミクズが。
あいつらが生きて、誰が喜ぶ。誰が得をする。誰が笑う。誰が幸せになる。
あいつらが生きれば、誰かが傷付くだけ。誰かが泣くだけ。誰かが困るだけ。誰かが不幸になるだけ。
あいつらが生きるだけ、酸素の無駄だ。資源の無駄だ。金の無駄だ。労力の無駄だ。食料の無駄だ。
なら、いらなくないか?
「ま、て……」
そうだ。いらないだろう、こんな奴ら。
「待て……ッ!」
こいつらがいなくなったからって、誰が悲しむ? 誰が心配する? 誰が困る? むしろ、皆喜ぶだろう?
「待ちやがれッ!」
両手で膝を支えに足を踏ん張ってふらつきながら立ち上がるが、顔が上がらない。雅臣は肩で大きく呼吸をして、地面を凝視したまま、吐き出すように叫んだ。
「この……っ、ゴミクズ共がああぁぁ――――ッ!!」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、そして怒りで満ちていた。
全身を駆け巡った痛みを痛みと感じないほど、心も体も、そして思考も麻痺していた。この世に憎しみ以外の感情は存在しないと思うほど、ただ憎くて憎くて堪らなかった。憎しみに全てを侵食されるのが分かった。
商店街に木霊する自分の声を聞きながら、突如全身から何かが這い出るような感覚に襲われた。ぐっと息が詰まる。
「あ?」
心底不快気に顔を歪ませ、本山たちが足を止めて振り向いた。
「誰がゴミだって?」
「言ってくれんじゃねぇか。え?」
「どっちがゴミクズだよ」
本山をはじめ、三人が口々に凄みながら足音が戻ってくる。けれど一人だけ、違う反応をした。
「お、おい……ちょ、ま……」
明らかに、何かに怯えたような声。
「覚悟できてんだろうなてめぇ。自分の立場が分かっ」
不自然に、本山の声が途切れた。
微かに届く車の走行音、犬の鳴き声や救急車のサイレンに交じって聞こえるのは、自分自身の荒い呼吸の音。突然静かになったことを怪訝に思っていると、ざりっと靴の底が地面を擦る音がした。とたん。
「ひ……っ、うわあああ……ッ!」
一人分の悲鳴が周囲に響き渡った。ばたばたと走り去る足音が聞こえ、やがて聞こえなくなった。
雅臣は頭に疑問符を浮かべながら激しく咳き込むと、崩れ落ちるように膝をついた。口を覆った手の平に何かが吐き出される。手を離して見ると、わずかに赤い血が付いていた。やっぱり、体の中のどこかが傷付いている。いや、それより本山たちはどうした。
体全体で息をしながら、重い頭を何とか上げて見た光景に唖然とした。
「……え……」
誰もいない。
シャッターが下ろされた店舗。擦り切れて読み取り辛い看板。剥がれかけたチラシ。それ以外何もなく、誰もいない――いや。
視界の端に違和感を覚え、雅臣は勢いよく頭上を見上げた。見上げて、眉をひそめた。
――何だ、あれ。
真っ黒で巨大な雲のようなそれは、もぞもぞと蠢いている。と、ほんの一瞬。雲の隙間から人の手が覗いた。その手は滑るように何かを落とし、雲の中に引きずり込まれるようにして引っ込んだ。金属音を響かせて地面に転がったそれを見て、雅臣は唖然とした。
本山の携帯だ。
自慢気に掲げて見せていた携帯電話。ということは、あの雲の中から覗いた手は、本山の手。つまり、あれに飲み込まれた。四人、いや、一人は逃げたようだったから、三人。
雅臣は再び頭上を見上げた。蠢いていた雲は動きを止め、ふわふわと浮いたままこちらを見た。雅臣にはそう思えた。次の標的は自分だと。
逃げなければと思うが、もう体力が残っていない。指一本動かせない。あれが何なのか分からないが、もし本当に本山たちを食ったのなら、自分もここで食われるのだろう。
――まあ、それでもいいか。
急速に頭が冷えた。そんなわけない、有り得ない、夢だと否定してもいい状況なのに、目の前で起こった全ての状況から考えられる可能性を妙に冷静な頭が弾き出し、何の疑問も持たずに受け入れた自分がいる。
あれの正体が何であれ、本山たちを消してくれたのなら、桃子を救ってくれたのなら、お礼に食われてやってもいい。
雲が勢いよく大きく広がった。映画で見た、エイリアンに取り憑かれた人間の頭ががばりと開くような、そんな感じだった。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。お金、返せない。松井さん、こんな俺を認めてくれてありがとう。もう少し、話したかったな。晴れた鴨川でゆったりと流れる水音を聞きながら、色んな話を二人でしたかった。君のことを、もっと知りたかった。
脳裏にそんな夢のような光景を思い浮かべながら、警戒するようにじわじわと近付いてくる雲を眺め、雅臣はぺたんと尻をついて、目を閉じた。
本山は大きな溜め息をつくと、携帯で何かを確認した。そしておもむろに両腕を広げ、中川たちを見渡す。
「はい、健康な男子諸君! これから溜まった欲を吐き出すべく、獲物を確保しに行くぞー!」
本山が宣言すると、三人は拳を上げて戦士のような雄叫びを上げた。本山は側にしゃがみ込み、雅臣の髪を鷲掴みにして無理矢理頭を引っ張り上げる。
「ちょうど桃子ちゃんが塾から出てくる時間だ。すぐ連れてくるから待ってろ。何するかは、説明しなくても分かるよな?」
「な……っ」
桃子の塾の時間割まで調べたのか。本山は手を離し、歪な笑みを浮かべて携帯を掲げた。
「便利だよな、携帯。写真に動画、録音何でもござれだ。人も道具も使いようってな」
「まさか……っ」
動画に撮って桃子を脅す気か。
「そのまさか。警察に通報したり逃げたりしたら、問答無用で拡散してやる。じゃあな、いい子で待ってろ」
ひらひらと手を振り、本山は立ち上がって背を向けた。
「ま……て……っ」
立ち上がろうにも、さっきの本山の蹴りの痛みが酷くて力が入らない。腕も足も、小刻みに震えている。次第に遠退いて行く本山たちの忌々しい笑い声と背中を睨みつけ、雅臣は両の拳を握り締めた。
「なん、で……ッ」
爪が手の平に食い込んで、血が滲む。
「何で……ッ!」
あんな奴らがいる。あんな奴らが生きてる。あんな奴らが存在する。あいつらが存在する意味は、どこにある――人を傷付けるだけの、ただのゴミクズが。
あいつらが生きて、誰が喜ぶ。誰が得をする。誰が笑う。誰が幸せになる。
あいつらが生きれば、誰かが傷付くだけ。誰かが泣くだけ。誰かが困るだけ。誰かが不幸になるだけ。
あいつらが生きるだけ、酸素の無駄だ。資源の無駄だ。金の無駄だ。労力の無駄だ。食料の無駄だ。
なら、いらなくないか?
「ま、て……」
そうだ。いらないだろう、こんな奴ら。
「待て……ッ!」
こいつらがいなくなったからって、誰が悲しむ? 誰が心配する? 誰が困る? むしろ、皆喜ぶだろう?
「待ちやがれッ!」
両手で膝を支えに足を踏ん張ってふらつきながら立ち上がるが、顔が上がらない。雅臣は肩で大きく呼吸をして、地面を凝視したまま、吐き出すように叫んだ。
「この……っ、ゴミクズ共がああぁぁ――――ッ!!」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、そして怒りで満ちていた。
全身を駆け巡った痛みを痛みと感じないほど、心も体も、そして思考も麻痺していた。この世に憎しみ以外の感情は存在しないと思うほど、ただ憎くて憎くて堪らなかった。憎しみに全てを侵食されるのが分かった。
商店街に木霊する自分の声を聞きながら、突如全身から何かが這い出るような感覚に襲われた。ぐっと息が詰まる。
「あ?」
心底不快気に顔を歪ませ、本山たちが足を止めて振り向いた。
「誰がゴミだって?」
「言ってくれんじゃねぇか。え?」
「どっちがゴミクズだよ」
本山をはじめ、三人が口々に凄みながら足音が戻ってくる。けれど一人だけ、違う反応をした。
「お、おい……ちょ、ま……」
明らかに、何かに怯えたような声。
「覚悟できてんだろうなてめぇ。自分の立場が分かっ」
不自然に、本山の声が途切れた。
微かに届く車の走行音、犬の鳴き声や救急車のサイレンに交じって聞こえるのは、自分自身の荒い呼吸の音。突然静かになったことを怪訝に思っていると、ざりっと靴の底が地面を擦る音がした。とたん。
「ひ……っ、うわあああ……ッ!」
一人分の悲鳴が周囲に響き渡った。ばたばたと走り去る足音が聞こえ、やがて聞こえなくなった。
雅臣は頭に疑問符を浮かべながら激しく咳き込むと、崩れ落ちるように膝をついた。口を覆った手の平に何かが吐き出される。手を離して見ると、わずかに赤い血が付いていた。やっぱり、体の中のどこかが傷付いている。いや、それより本山たちはどうした。
体全体で息をしながら、重い頭を何とか上げて見た光景に唖然とした。
「……え……」
誰もいない。
シャッターが下ろされた店舗。擦り切れて読み取り辛い看板。剥がれかけたチラシ。それ以外何もなく、誰もいない――いや。
視界の端に違和感を覚え、雅臣は勢いよく頭上を見上げた。見上げて、眉をひそめた。
――何だ、あれ。
真っ黒で巨大な雲のようなそれは、もぞもぞと蠢いている。と、ほんの一瞬。雲の隙間から人の手が覗いた。その手は滑るように何かを落とし、雲の中に引きずり込まれるようにして引っ込んだ。金属音を響かせて地面に転がったそれを見て、雅臣は唖然とした。
本山の携帯だ。
自慢気に掲げて見せていた携帯電話。ということは、あの雲の中から覗いた手は、本山の手。つまり、あれに飲み込まれた。四人、いや、一人は逃げたようだったから、三人。
雅臣は再び頭上を見上げた。蠢いていた雲は動きを止め、ふわふわと浮いたままこちらを見た。雅臣にはそう思えた。次の標的は自分だと。
逃げなければと思うが、もう体力が残っていない。指一本動かせない。あれが何なのか分からないが、もし本当に本山たちを食ったのなら、自分もここで食われるのだろう。
――まあ、それでもいいか。
急速に頭が冷えた。そんなわけない、有り得ない、夢だと否定してもいい状況なのに、目の前で起こった全ての状況から考えられる可能性を妙に冷静な頭が弾き出し、何の疑問も持たずに受け入れた自分がいる。
あれの正体が何であれ、本山たちを消してくれたのなら、桃子を救ってくれたのなら、お礼に食われてやってもいい。
雲が勢いよく大きく広がった。映画で見た、エイリアンに取り憑かれた人間の頭ががばりと開くような、そんな感じだった。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。お金、返せない。松井さん、こんな俺を認めてくれてありがとう。もう少し、話したかったな。晴れた鴨川でゆったりと流れる水音を聞きながら、色んな話を二人でしたかった。君のことを、もっと知りたかった。
脳裏にそんな夢のような光景を思い浮かべながら、警戒するようにじわじわと近付いてくる雲を眺め、雅臣はぺたんと尻をついて、目を閉じた。