第7話

文字数 3,608文字

「……分かった。話そう」
 座って、と園長が促し、ソファの軋む音がした。
「弘貴くんが覚えているように、君は父子家庭で育った。お父さんもまた、父子家庭だったそうだ。おじいさんのことは、覚えてる?」
「俺、じいちゃんいるの?」
「うん」
「んー、言われてみれば……いたような気が、するようなしないような」
「頻繁に会っていたわけではないらしいから、あまり記憶に残っていないのかもしれないね」
 園長は一拍置いて続けた。
「君がここへ預けられる少し前から、三人で一緒に暮らそうと話をしていたそうだ。けれど、お父さんに癌が見つかり、余命半年と宣告された」
 春平は息をのんだ。療養のために、弘貴は預けられたのか。それが十年以上前。だとしたら、もう――。
「他に身内の方がいなくて、おじいさんは糖尿病を患っていらした。足に障害が出ていて、杖がないとままならず、長い距離は歩けない。これからお父さんの看病や、自分の病気のこともある。そんな状態では、君と一緒に遊ぶことも、いざという時に危険から守ることも難しい。一緒に暮らせば、反対に寂しい思いをさせたり、不便や迷惑をかけるんじゃないかとおっしゃっていた。とても、悔しそうな顔をしていらしたよ」
「だから、ここに……?」
「そうだよ。お父さんとおじいさんは、君を守るために、ここに預けたんだ」
 ぐっと、胸に何かがつっかえたような息苦しさを感じ、春平は無意識に胸元を掴んだ。
「そう、なんだ……」
 微かに聞こえた弘貴の声は、わずかに震えていた。弘貴のことだ。必死に涙を堪えているのだろう。何故か浮かんだ涙を、春平も必死に堪える。これは、何の涙だろう。
 弘貴から、気を立て直すような長い溜め息が漏れた。
「父さんは……、さすがに助からなかったか。じいちゃんは?」
「お父さんが亡くなって、二年後に」
「……そっか……」
 一瞬流れた重苦しい沈黙を、園長が破った。
「お父さんは、弱っていく自分の姿を君に見せたくないと言って、お見舞いを拒んだ。私の母も癌で亡くなったんだけど、正直、大人が見ても辛くなるほど衰弱するんだ。私の息子は母にとても懐いていたはずなのに、母に会っても祖母だと分からず、むしろ怯えていた。あの時の母の寂しそうな顔は、未だに忘れられない。だから、私はお父さんの気持ちを汲んだ。もちろん悩んだよ。君が怯えるとは限らないし、当然会いたがるのにと。でももし君が怯えた場合、どれほどのショックだろうと思ったんだ。とはいっても、息子に会えないのは辛いだろうし、施設でどんなふうに生活しているのか気になって当たり前だ。そこで、おじいさんの携帯へ定期的に君の様子を報告していた。写真付きで」
 ギッとソファが軋む音と足音がして、引き出しを開けた音だろうか、カタンと乾いた音が聞こえた。足音が引き返してくる。
「お父さんから預かっていた物だ。それと、弘貴くんがここへ預けられてから、おじいさんが死去されるまでのやり取りが、全て入っている」
 USBやSDカードなどのメモリーだろうか。しばらく音がしなくなって、弘貴が呟いた。
「……ありがとうございます」
 園長がソファに戻ったのだろう、再び軋む音が聞こえた。
「園長先生。どうして、今まで教えてくれなかったんですか?」
 父親が死んだという事実を、幼い子供がどこまで正確に理解できるか。ましてや目の前で看取ったわけでも、葬儀に参列したわけでもない。言葉だけの報告で、実感が湧くとは思えない。けれど、決して見捨てられたわけではないと伝えるのは重要なことだし、徐々に理解できるようになるだろう。園長なら、そのくらい分かるだろうに。それをあえてしなかった理由。
「えーと……お父さんからは、話してあると聞いていたんだ。病気のことも、お見舞いのことも。おじいさんも、時々顔を見に来ていらしてた、んだけど……」
 反応を窺うように、園長の言葉尻が小さくなる。
 おそらく、扉の向こうで弘貴も同じ顔をしていることだろう。春平は目をしばたいた。つまり、父親や園長が説明していなかったわけではなく、ましてや祖父が面会に来ていなかったわけでもなく、弘貴が覚えていなかった。
「マジか……!」
 自己嫌悪するような弘貴の声に、園長が渇いた笑い声を漏らす。
「ちょっとおかしいなとは思っていたんだ。お見舞いに行きたいとも、お父さんのことを聞いてくることもなかったから。あえて聞かないようにしてるのかなと。だったら、面会もできないし、わざわざ聞かない方がいいと思って」
「俺、子供心に仕事の都合だと思ってた。いっつも忙しそうにしてたし、調子が悪そうには見えなかったから」
「ああ。多くの癌患者は、亡くなる二、三カ月前まで日常生活を支障なく送れるらしいからね」
「へぇ、そうなんだ。だからか。多分、話を聞いても実感できなかったんだと思う。なのに施設には預けられるし、いつまで経っても迎えに来ないから、仕事の都合は嘘だったんだなって、そういうことかって何となく思ってて。さっきの、覚えてないんだねって、そういう意味かぁ」
「そういう意味なんだよ」
「でも、死んだことは何で?」
「実は、お父さんに頼まれていたんだ」
「頼み?」
「うん。おじいさんに、君の様子を伝えてたって言っただろう? おじいさんはお父さんに伝えていた。お父さんは、君が楽しそうに暮らしているのを知って思ったそうだ。死んだことを伝えて、悲しい思いをさせていいのだろうかと」
「えーと、つまり、俺が事情を理解してるって思ってたから、そう思った?」
 父親は、弘貴は施設に預けられた事情を理解していると思っていた。その上で、楽しそうに施設で暮らす息子の様子を知り、生活に影を落としやしないかと危惧したらしい。
「そう。だから、弘貴くんが自分から聞いてくるまで話さないで欲しいと頼まれていたんだよ」
「うーんと、要は、俺の覚悟ができるまで待ってたってこと?」
「そう。でも、一向に聞いてくる気配がないから、どうしたんだろうと気にはなっていた。察していて、聞く勇気が出ないのかなって。だから、もし卒園するまでに聞かれなかったら、私から話すつもりだった。君も知っているだろうけど、卒園して色々なことで悩む子は多い。その一つにしてはいけないから。でも、その前に寮に行くことになってしまって、迷ったんだけど、せめて十八まで待とうと思っていたんだ。まさか覚えていないとは思わなかったよ」
「俺だってまさかですよ。実感できないからって何で忘れるんだよ、意味分かんねぇ」
 あはは、と園長が弾かれたように笑った。
「でも……うーん。父さんとじいちゃんの気持ちも分かるけど、隠さずにちゃんと教えて欲しかった……いやでも、死んだって聞いてどう思ったかなぁ。仕事が忙しいんだって思ってたから、余計ショック受けてたかもなぁ……えー、でもやっぱり教えて欲しかった気も……」
 弘貴の唸り声を、園長が遮った。
「本当は、すごく迷ったんだ。悲しいことや辛いことから子供を遠ざけることが良いとは、決して言えない。でも悪いとも言えない。それに、お父さんたちの意向もある。君に聞かれるまで言わずにおくべきか、先に言った方がいいのか。どちらが君のためになるのか、はっきりと答えが出なかった。すまなかったね。ずっと、黙ったままになってしまって」
「別に園長先生が謝ることじゃないよ。父さんたちが頼んだことだし。それに……」
 弘貴は逡巡するように言葉を切り、一拍置いて続けた。
「多分、今だからこうやって冷静に受け入れられてるんだと思う。子供の時に聞いてたら、何でもっと早く教えてくんなかったんだって責めてた。自分が覚えてなかったのに。だから良かったんだよ、これで。ありがとうございます、園長先生。父さんとじいちゃんが我儘言ってたみたいで、ご迷惑をおかけしました」
「とんでもない。私は何もしていないよ」
「これ、帰ったらさっそく見ます」
「うん」
 ギシっと二人分のソファの軋む音がして、春平は弾かれたように身を翻した。玄関までの廊下を小走りに駆け抜ける。
 ――ごめんね。ごめんね、春平。必ず、迎えに来るから。
 もう顔も思い出せない母は、別れ際に涙声でそう言った。その言葉を信じて、ずっと待っていた。けれど、いつしか面会は途切れ、未だに迎えどころか連絡一つない。
 弘貴の父親と祖父は、弘貴を守るために施設に預ける選択をした。それは、おそらく母も同じだったのだろう。
 普段は優しい母は、時折耐えかねたように暴力を振るうことがあった。近付くなと言って押されて転んだり、うるさいと怒鳴られたりしたことを覚えている。部屋の隅でじっと静かに膝を抱え、母が落ち着くのを待っていた。そんな中、一度だけ、首を絞められたことがある。しばらくして施設に入ったので、あれがきっかけになったのだろう。母も子供を守ろうとしたのだ。自分自身の暴力から。
 でも、結局――。
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