第7話

文字数 3,523文字

 あの日から、母の言い付け通り三宮には行かなかった。夏休みが終わり、二学期が始まった。休み明けテストに中間テスト、文化祭と忙しく、行く暇がなかったとも言える。
 しばらくはやめておけと口では言っても、いつせっついてくるか分からない。しかし、早くどうにかしなければと逸る気持ちとは反対に、この頃の母は、機嫌の良い日が多かった。誰かと電話で話している内容を聞く限り、どうやら彼氏ができたようだった。要は、彼氏に夢中で娘のことなど頭になかったのだ。
 再婚してくれれば、この生活から抜け出せるかもしれない。そんなふうに密かに願いながら過ごしていた、十一月下旬。もうすっかり冬の様相を呈した頃。担任の先生に生徒指導室へ呼び出された。
 担任は四十代の女性で、関谷という。担当教科は社会。ふっくら体型で、笑うと目が細くなって猫みたいになる。歴史の人物にまつわる逸話やちょっとしたエピソードなどが盛り込まれた授業は楽しく、恋愛相談から友人関係、はたまた自身に関する悩みなど、どんな相談も親身になって乗ってくれるので人気がある。
 会議テーブルの向こう側に腰を下ろした関谷は、茶封筒を前に言った。
「修学旅行の費用のことなんだけどね。実は、あれから何度もお母さんにお電話を入れてるの」
「え……」
 初耳だ。そんなこと聞いていない。美琴が目を丸くすると、関谷は分かっていたふうに頷いた。
「でも出てもらえなくて。だからおうちの方にも伺ったんだけど……」
 こちらも出なかったのか。窺うような視線を受けて、美琴はテーブルに目を落とした。
「昼間は、寝ているので。すみません……」
「そうよね。ごめんなさい、樋口さんが謝ることじゃないわ。それでね、色々考えたんだけど、これ」
 関谷はふくふくとした柔らかそうな指で、茶封筒をテーブルに滑らせた。
「入学式のときにも配布されてるはずなんだけど、四月にお話しした様子から、申請されてないんじゃないかと思って。お母さんに渡してくれる?」
「申請?」
 美琴が茶封筒を目で追いかけながら問い返すと、関谷は困ったように眉尻を下げた。
「やっぱり、聞いてない?」
 何のことだろう。視線を上げると関谷は逡巡し、あのねと茶封筒の中身を口にした。
「就学援助を受けるための申請書なの」
 就学援助とは、学用品や給食費など、小・中学校に就学するための費用の捻出が難しい家庭への援助制度らしい。中学校では、学用品・通学用品費、校外活動費、給食費、自転車通学費。学年によって、新入学児童生徒学用品費、体操服や水泳着費、卒業アルバム代、そして、修学旅行費も援助される。
「ただ修学旅行の費用は、旅行が終わって、学校から報告を受けたあとに支給されるから、どうしても積み立てや支払いはしてもらわないといけないの。あとから戻ってくるって考えてもらえれば分かりやすいかな」
 実際どのくらいの費用がかかったかは、終わってからでないと分からないからか。
「それとね、お母さんの収入がどのくらいか分からないし、余計なお世話かなとも思ったんだけど」
 そう前置きをして、関谷はさらに告げた。
「収入の条件はあるけど、児童手当や児童扶養手当、他にも家賃補助とか、色々な制度があるの。支給額の上限は決まってるけど、収入によって一部だけでも受けられるのよ」
 児童手当と児童扶養手当は、似たような制度に思えるが、大きな違いが二つある。
 一つ目は、児童の年齢。前者は中学修了前まで、後者は十八歳になってから最初の三月三十一日まで。つまり、五月一日が十八歳の誕生日だった場合、翌年の三月三十一日までになる。
 二つ目は、受給対象者だ。児童手当は、対象となる児童を養育している人、つまりふたり親世帯でも条件を満たしていれば受けられる。反対に児童扶養手当は、ひとり親世帯が対象となる。
 関谷の説明を聞きながら、唖然とした。あの時、母が言っていた「制度」とは、このことだったのか。
 収入の条件があったとしても、これだけ制度があるのなら、どれか受けられたはずだ。一部でも支給してもらえるならなおさら。しかも、就学援助は小学校からだ。ということは、小学校でも申請書が配布されていたことになる。小学校の入学式は、祖母が参加した。間違いなく祖母は母に伝えている。
 実は小学校の時は受けていて、祖母が亡くなったから中学では申請しなかった? ――いや、違う。祖母が亡くなったことは理由にならない。
 あの時、母は言った。
『人の税金使って生活してるって絶対言われるんだから。陰口叩かれて見下されるなんて死んでも嫌よ』
 と。
「先生」
「うん?」
「さっきの制度の中で、一番古いのってどれですか?」
「え? えっと、確か児童扶養手当よ。1962年、昭和37年ね。その年に施行されたはずだけど。それがどうかしたの?」
 小首を傾げる関谷を置いて、美琴はぐっと奥歯を噛み締めた。
 昭和37年。母が生まれるずっと前に施行されている。祖父が亡くなったのは、母がまだ小さい頃。ひとり親世帯で、十八歳まで援助が受けられる。何より、母のあのセリフ。祖母は、制度を利用していたのだ。そしてそれが周囲に知られ、陰口を叩かれた。人の税金で生活している、と。だから制度を利用することを拒んだ。
 国が決めた制度を利用して何が悪い。正当な理由があって真っ当に援助を受けることの何が悪い。援助を受けることが悪なら、貧困層は死ねとでも言うのか。
 心ない言葉を浴びせた奴らも腹が立つけれど、それ以上に、母に対して酷く落胆した。
 母子家庭で、きっと苦労も我慢もたくさんしただろう。祖母だって陰口を叩かれたかもしれない。それでも母のためを思って制度を利用した。少しでも楽になるようにと。母の気持ちは分からないでもない。でも、生活が苦しいと分かっていて利用できる制度を利用せず、毎日イライラして祖母や娘に乱暴する。そのくせ自分を売ろうとした娘を、止めるどころか指南した。
 きっと、母が大切なのは、自分自身なのだ。自分が嫌だから、自分が楽できるから。母は、「自分」が優先なのだ。
「樋口さん、大丈夫?」
 心配そうな顔が視界に映り込んで、はっと我に返った。
「あ、はい。すみません」
 顔を上げると、関谷はほっとして乗り出していた身を引いた。
「さっきも言ったけど、余計なお世話だっていうのは分かってるのよ。でもね、やっぱり修学旅行って三年に一度しかないし、一番大きな行事でしょ。これから進路もばらばらになるかもしれないし。だからできる限り皆に参加して欲しいの。確か、三木さんや恩田さんと仲が良かったわよね。二人も楽しみにしてるでしょう?」
 祖母が亡くなって遊べなくなった時に「時間ができたら教えて」と言ってくれた、小学校からの友人二人だ。三年も一緒のクラスになれたらいいね、そしたら一緒にグループ組もうねと約束している。
「――先生」
「うん」
 美琴は茶封筒を両手で押さえ、テーブルの上を滑らせた。
「樋口さん……?」
 関谷が、戸惑いながら深々と頭を下げた美琴と茶封筒を交互に見やる。
 彼女の気遣いを、余計なことだとは思わない。教師として、担任の先生として、精一杯のことをしてくれただけだ。でも。
「ありがとうございます。気を使ってもらって、すごく嬉しいです。でも母は、申請はしません」
 しないと思います、ではなく、しないと言い切った美琴に、関谷は目を丸くした。
「待って樋口さん。これを渡して、きちんと話をする場を設けて欲しいの。貴方からならきっと……っ」
 カシャンとパイプ椅子を鳴らして立ち上がり、関谷の言葉を遮る。
「すみません、先生。失礼します」
「樋口さん!」
 悲痛な声を背中で聞きながら、美琴は足早に生徒指導室をあとにした。
 あんなに心配してくれた関谷に、罪悪感を覚えた。けれど母は申請をしない。申請書を渡せば激怒すると言い切れる。あの人は、誰よりも「自分」を大切にする人だから。自分を大切にすることは悪いことではないけれど、人の厚意を無碍にしたり、周りを犠牲にしていい理由にはならないのではないか。
 今付き合っている人がいるにせよ、学費や生活費を出してくれるわけではないのだ。いつか再婚するとしても、それがいつかは分からない。修学旅行の費用を進学の費用に充てると言ったけれど、あれはきっとただの思い付きだ。このままでは、高校進学はできない。だったら、自分でどうにかするしかない。修学旅行の費用も進学費用も自分で稼いで、自分で生きていくしかない。高校生になればまともなバイトができる。それまでの、辛抱だ。
 そんなことを考え、覚悟を決めてあの日と同じ場所に行ったのは、一週間後。一人の男性と出会った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み