第5話

文字数 4,339文字

      *・・・*・・・*

 もう、始まっている。
 杏の結界に閉じ込められてから飽くことなく眺め続けた庭は、時間を刻むごとに木々の影を濃く長く地面に映し、眩しい陽射しは次第にオレンジから赤味を帯び、今ではすっかり闇に沈んでいる。
 脳裏に浮かぶのは、主の姿。
 初めて召喚された時、まだ十かそこらだと思った。しかし実際には十三歳。時代が時代なら、元服する年頃だ。全体的に小柄で手足も細く、しかもどこからどう見ても少女にしか見えず、かなり驚いた。
 ふ、と椿は息を吐くように小さく笑った。
 あの時の宗史のむっとした顔と、笑いを堪える宗一郎。高校に入り、あっという間に体格が変わるまで、同じやり取りを何度見たことか。初めこそハラハラしたものの、宗一郎のあの態度の意味を夏美から聞いた時、なるほどと納得したものだ。
 七年。長いようでいて、あっという間だった。
 訓練や仕事の時だけでなく、何もない時も召喚され、一緒に食事をしたりイベントを楽しんだり。運動会は高天原から覗き見した。他の選手に大きな差をつけ、一着でゴールした時は声を上げて喜んだ。受験の時は夜食を運び、合格発表は宗一郎たちと一緒に連絡を待っていた。あれは高校二年生の時だ。体育祭の障害物競争で、青汁一気飲みなどというものが組み込まれ、選手の阿鼻叫喚と爆笑が響く中、苦虫を噛み潰したような顔で走る姿は、申し訳ないが涙が出るほど笑った。文化祭や修学旅行、バレンタインにクリスマス。ことあるごとに女子生徒から告白を受けるのは、我が主ながら自慢だった。その人気ぶりは、今でも健在だ。
 だが、楽しい思い出ばかりではない。可愛らしい容姿だったため、知らない男に声をかけられることが多く、中には無理矢理連れ去ろうとする不届き者もいた。本人はできるだけ穏便に済ませたかったようだが、仕方なくぶちのめすこともたびたびあった。
「今思い出しても腹が立ちます……」
 不埒なことを考えていますと言わんばかりのあの顔。次会った時は再起不能にしてやりたい。
 椿は眉根を寄せて憎々しく吐き出すと、ゆっくり深呼吸をした。紫暗の瞳に、憂いの色が浮かぶ。
 たくさんの思い出が、色褪せることなく胸に刻まれている。初めての主。初めて間近で見る人の世。初めての喜びも、楽しみも、嬉しさも――悲しみや憂いさえも。全て、彼が教えてくれた。
「……大丈夫」
 大丈夫。分かっている。知っている。彼がこれまでしてきた努力も、どれほど強いのかも。七年間、近くで見届けてきた。
 それなのに、不安が消えない。
 椿は、膝の上に目を落とした。握った拳は、微かに震えている。ぎゅっと唇を一文字に結び、拳に力を込める。
 五日前。何故宗史を裏切るような真似をしたのか、という問いに対しての答えに、満流はこう言った。
『では、貴方の主は見逃しましょう。志を同じくする仲間の大切な方を殺すのは、さすがに気分が良くありませんから。もちろん(仮)ですけど』
 賀茂家次期当主は、満流たちにとって後々大きな障害になりかねない。もちろん反対意見は出たが、あくまでも仮だからと満流が押し通した。
 正直に言えば、驚いた。まさかあんな約束をするなんて。だが同時に、牽制だと思った。裏切らない限り、主の命の保証はする。けれど裏切った場合は保証しない。そう、言外に言われている気がした。
 鵜呑みにする気はないけれど、現状において満流が嘘をつくメリットがない。携帯やGPS発信機などの通信機器の確認は、潜伏場所に到着する前に身体検査を受けた。使いを飛ばせば、杏がすぐに察する。つまり、宗史たちとの連絡手段が一切ない。そんな状況で、油断を誘うような約束をしても意味がないのだ。
 ならば、少なくともまだ大丈夫。宗史が殺されることはない。そう、分かっているのに。
「つばき」
 不意に、襖の向こうからたどたどしい幼い声が届いた。椿ははっと我に返り、慌てて滲んだ涙を袖口で拭って居住まいを正す。
「はい。どうぞ、お入りください」
 努めて明るく答えると、そろそろと襖が開いた。隙間から顔を覗かせたのは、里緒とエプロン姿の百合子だ。
 児童書を小脇に抱え、いそいそと入ってくる里緒に、椿は痛々しげに眉を細めた。真緒とおそろいの髪型だが、同じなのはそれだけではない。
「お食事は、きちんと摂られましたか?」
「ん」
 頷きながら、結界の前にちょこんと正座する。隣に百合子が腰を下ろした。
「おさかな」
「お魚でしたか。美味しかったですか?」
「ん」
 こくりと頷き本をめくる小さな手の甲には、真緒と同じ焼印が刻まれている。真緒よりはまだはっきりと残る焼印は、それでもかなり古いものだ。幼い少女に、一体どんな理由でこんなことを。
「ごめんなさいね、椿ちゃん。お腹空いたでしょう?」
 里緒の頭を優しく撫でながら、百合子が口を開いた。視線を上げると、百合子は眉尻を下げて申し訳なさそうな目でこちらを見ていた。
「大丈夫ですよ。お気になさらないでください。本来、(わたしたち)に食事は必要ありませんから」
「あら、そうなの?」
 知っていて気を使っているのだと思ったのだが。目を丸くして聞き返した百合子に、椿は目をしばたいた。
「ご存知ありませんでしたか」
「ええ。杏くんはずっと一緒に食べてるから、やっぱり神様でもお腹が空くのねって思ってたわ」
「ああ、そういえば……」
 杏がいない時がない。朝は満流と一緒にリビングに来て、寝る時さえも一緒に部屋へ行く。起きてすぐに召喚し、寝る前に術を解いているのだろうか。しかし、訓練があるとはいえ、朝食後に召喚すればいいだけのことだ。毎朝起きてすぐに召喚する意味が分からない。あるいは、必要ないと知らない――いや違う。
 本来、式神の役目は陰陽師と共にこの世を護ることだ。それに背いているのだから、高天原に戻れば確実に神々の審議にかけられる。最悪消滅。二度と召喚できない。おそらく、それを避けるために術を解いていないのだ。
 椿はぎゅっと唇を結んだ。
 楠井家の目的は、土御門家への復讐。もし、両家の確執のせいで満流が傷付いたのだとしたら。この世を恨んでしまうほど、心に深い傷を負ったのだとしたら。
 杏は、そんな彼を放っておけなかったのだ。考え直すように進言したかもしれない。だが満流は受け入れなかった。ならばいっそと、主と同じ道をゆくことを選んだ。自分の身が、どうなろうとも。
 彼の気持ちは、痛いくらいよく分かる。もし宗史が同じ境遇にいたら、きっと同じ選択をした。
「もしかして、良くないの?」
「……え?」
 しまった、つい長考してしまった。視線を上げると、百合子と里緒が心配そうにこちらを見ていた。
「椿ちゃん、難しい顔してるから。召喚しっぱなしって、何かリスクがあるのかしらって。あっ、人の食べ物が良くない?」
「ああいえ、そんなことありませんよ。召喚したままでも、人の食べ物も問題ありません」
 あまりにも必死な顔をするものだから、椿は慌てて胸の前で両手を振った。百合子がほっと胸を撫で下ろす。
「そう、それならいいんだけど。じゃあ何か心配ごとが……ああ、そうか。そうよね、心配よね……」
 最後は呟くように言って視線を逸らした百合子に、ちくりと胸が痛んだ。
「で、でもほら」
 百合子が取り繕うようにぎこちない笑顔を浮かべた。
「椿ちゃんのご主人様は大丈夫よ。約束したもの」
 ね、とさらに笑みを浮かべた百合子に、ますます胸は痛む。この反応は、主のためという嘘の口実を信じているのか。
「そうですね」
 できる限りの笑みを浮かべると、百合子はそうよと頷いた。
 この五日間で見た限りでは、彼女はごく普通の女性だ。家事は手際が良く子供の扱いに慣れているから、おそらく主婦だったのだろう。そして子供がいる。毎食きちんと食事を作り、洗濯と掃除をする。この人数だ。大変だろうに、彼女は嫌な顔一つせず、一日中動き回っている。多少の術が使える部分を除けば、仲間というよりは寮母といった方がしっくりくるほど、彼女は「普通」なのだ。
 そんな彼女が、何故こんな事件に関わったのか。
 貴方はどんな理由でここに? そう尋ねようとして、思いとどまった。里緒がいる。知っているかもしれないけれど、知らなければ悲惨な話を聞かせることになるかもしれない。そもそも、最重要事項は過去を探ることではなく、彼らの人柄や人間関係、それと実力だ。その点で言うと、一つ、気になることがある。
「さてと。お片付けしなきゃ。里緒ちゃん、あとでお風呂入りましょうね」
「ん」
 百合子に頭を撫でられながらこくりと頷く。
「すみません、お手伝いできなくて」
「いいのよ。貴方が謝ることじゃないもの。それにね」
 百合子は一旦言葉を切ると、照れ臭そうに笑った。
「あたし、今とても楽しいから」
 返す言葉を失った。楽しい――この生活が?
 ついと里緒が視線を落とし、椿が膝の上で握る拳をじっと見つめた。
 ふふ、と笑いながら腰を上げ、里緒ちゃんをよろしくねと言い残して、百合子は部屋をあとにした。
 ぱたんと閉められた襖から、視線が外せない。こんな事件を起こしておいて、楽しい。前線に立たないとはいえ、満流たちが何をして、これから何が起こるのか、今何が起こっているのか知っているのに――それほどこの世を恨んでいる、ということなのだろうか。
「つばき」
 不意に呼びかけられ、椿ははっと我に返った。
「あ、はい」
 視線をやると、大きな眼差しでこちらを見上げた里緒が「ん」と児童書をこちらへ押しやった。「世界名作童話集」とタイトルがついており、誰でも一度は読んだことのある国内外の童話が収録されている。
「いいですよ」
 椿が結界に触れるぎりぎりまで体を寄せると、同じように里緒も寄ってきた。
「結界に気を付けてくださいね」
 こくりと頷く。結界を挟んで隣り合い、椿は、ゆっくりと文字を声に乗せた。
 百合子から、新しい話を読む時はいつも初めに読み聞かせをすると聞いている。聞き取りやすいようにはっきりと、ゆっくりと。場面やキャラクターによって声色や口調を変えると、子供はより集中してくれる。この話は里緒のお気に入りで、こっちはあまり好みじゃなさそうだ。そんなことを教えてくれた彼女の笑顔は、とても無邪気だった。
 まるで家族のような生活を楽しみながら、この世を滅ぼすための計画を練る。矛盾していると思う。けれどもし、もしも大河の憶測が当たっていたとしたら、あながち矛盾とも言い切れない。
 最終的に自害するつもりなら、せめてそれまで――そう、思っているのだとしたら。
 色鮮やかなイラストと軽快な会話が妙に切なくて、椿はページをめくるほんの少しの間だけ、ぎゅっと唇を噛んだ。
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