第8話
文字数 2,741文字
*・・・*・・・*
「この……っ」
咄嗟に独鈷杵をポケットから引っ張り出し、霊刀を具現化した時には、すでに社の屋根の辺りまで浮かんでいた。でも、この高さならまだ着地できる。腹筋に力を入れて素早く上半身を起こしながら、足に絡みついている触手へと振り上げた。とたん、悪鬼の本体から素早く触手が伸びて、右腕の二の腕を一文字に深く切り裂いた。
「い……っ」
電気が走ったような痛みに一瞬腕の力が抜け、手から独鈷杵がこぼれ落ちた。
「しまった……!」
上半身を捻り、さらに首を回して下を見下ろす。伸ばした手も虚しく、重力に従って独鈷杵は落下していく。切り裂かれた傷口から、真っ赤な血が腕を伝った。
「大河ッ!!」
頭上を覆っていた枝葉へ引き込まれる寸前に見えた光景は、社の左右で敵と共にこちらを見上げた晴と宗史、社へと消えていく雅臣の姿だ。
敵の顔に、大河は唇を噛んだ。宗史と対峙していた男は見覚えがなかったが、若かったからおそらく満流だろう。晴の方は――昴だった。一瞬だったし薄暗かったけれど、この半月、毎日見ていた人は分かる。
来てたんだ。大河は上半身を起こしたまま顔を庇い、容赦なく枝葉に体中を叩かれる。枝が掠ったらしい、腕にピリッとした痛みが走った。
今は、昴がどうとか傷の痛みなどを感じている場合ではない。早くこの状況をどうにかしなければ。雅臣に独鈷杵を奪われて、敵に殺される前に宗史に殺される。
「それは嫌だ!」
思わず声に出て全身から血の気が引いたのと、ザッと音を立てて枝葉を撒き散らしながら森を抜けたのが同時だった。結界の影響を受けているとは思えないほどの速度。
大河は腕を解いて周囲を見渡した。
まだ上昇している。雅臣が独鈷杵を回収するまで時間を稼ぐつもりか。島全体が見渡せるほどの高さではないが、集落は見渡せる。放されたら確実に即死する。かといって、このまま誰かの助けを待っていられるほどの余裕はない。独鈷杵も文献も「もう一つ」のものも、渡すわけにはいかない。
考えろ、考えろ。
ポケットに入れていた霊符が落ちなかったのは幸いだ。咄嗟に上半身を起こしたことが良かったのだろう。
使えるのは、霊符、九字結界、破邪の法。真下は神社。悪鬼を調伏し、廃ホテルの時のように捕縛の術で速度を殺しても、独鈷杵がなくては脱出できない。障壁の術で足場を作って、落下距離を短くするか。いや、捕縛の術もそうだが、この高さの壁を形成するとなると、かなりの揺れになる。廃ホテルでは七階までの高さで結構揺れたのだ。集落も揺れる。それに、移動されたら意味がない。あと使える術、思い付く方法――そうだ。
大河は奥歯を噛み締めて覚悟を決めた。一つ間違えば、骨が折れる。でも死ぬよりマシだ。今回ばかりは志季と鈴を頼る。それに、腹筋がそろそろ限界だ。
使う霊符は結界のみ。悪鬼を睨みつけて左手で霊符を取り出した時、悪鬼が動きを止めた。巨大結界の壁ぎりぎりの位置。とたん、するりと触手を放した。
「マジか……!」
結界を張るより先に落とされた。一瞬だけ宙に浮いた感覚を覚え、引き寄せられるように体が落下する。ゴッと耳元で風が唸った。このまま頭から落ちるわけにはいかない。
咄嗟に体を地面と平行にしながら結界の霊符を指に挟んだまま構えつつ、さらに真言を唱える。形成するのは初級。規模は、神社一帯。
「オン・ロケイジンバラ・ラジャ・キリク!」
怒声のような真言が響き渡る。霊符が指からするりと離れ、大河の意志に呼応して飛び去った。
「帰命 し奉 る。門戸壅塞 、怨敵撃攘 、万物守護 、急急如律令 !」
これまでで一番早い暗唱だった。唱え終わるや否や胸元で印を結ぶと同時に、霊符が強烈な光を放った。
「青龍 、白虎 、朱雀 、玄武 、勾陳 、帝台 、文王 、三台 、玉女 !」
木々の上まで結界が形成された直後、半径一メートルほどの九字結界が現れた。と思ったら、向こう側から押し返されるように強烈な風圧かかかり、印を組んだ両手が胸に押し付けられる。例えるなら、傘を正面にして強風の中にいる感じだ。腕の筋肉が震えているのが分かる。
予想はしたが、これほどとは。すぐ間近に九字結界。このままでは危険だ。だが、九字結界が障壁になっているため落下速度が落ちて、体への風の抵抗が緩んでいる。ということは、体勢が変えられるかもしれない。
急げ、急げ。
大河は歯を食いしばって足を引き寄せた。九字結界を動かさないようにかろうじて位置を調整しながら背中を丸め、慎重に腕を伸ばす。さらに股の間に挟み固定してしゃがみ込んだ。要は、蛙のような格好で結界の上に座り込んだ形になる。ただし、足は結界で支えられているわけではないので、筋力次第。ここは根性だ。
衝撃は主に腕にかかるだろうが、速度が落ちているし、落下距離も短くなった。この体勢なら体全体で体重がかけられる。ここで九字結界を広げるとバランスが取れなくなるため、ぶつかる直前で一気に広げれば、衝撃が分散されて骨折は免れる。かもしれない。
「頼む……!」
かなり不格好な体勢で、大河は九字結界越しに迫る結界を見下ろした。ぐんぐんと結界が近付き、ぶつかる直前、
「ぐ……っ」
大河は歯を食いしばって九字結界へ霊力を注ぎ込んだ。一瞬にして倍ほどに広がった九字結界と社周辺に張った結界が、耳をつんざくような衝撃音を上げて激突した。
腕から全体へ、びりびりとした衝撃が駆け巡る。骨を伝って全身を揺らしているような感覚に、印が今にも外れそうだ。
着地したのは、多少煽られたため結界の真上から少しずれた位置。それでも木々の上だ。九字結界越しに、結界に罅が入ったのが見えた。結界はドーム状で、九字結界は平面。自然と傾き、そのまま結界の表面を滑って落下する。まるで金属を溶接しているような痛烈な音が森に木霊して、派手な火花が散る。結界同士が反発し合い、少しでも力を緩めると弾き飛ばされる。せめて木々の下までは踏ん張らないと。
大河は全体重と腕力をかけて九字結界を押し付ける。噛み締めた歯をさらに噛み締め、くぐもった唸り声を上げる。腕の筋肉がはち切れそうだ。
先程入った罅がピシッと小さく鳴り、大河のあとを追うように、ピシピシと軋んだ音を立てて大きな亀裂が走った。
森の中へ落ちてすぐ、限界が来た。再び茂った葉と枝に体中を叩かれながら、大河は硬く目をつぶった。着地した時の衝撃が強すぎて、腕が意思と反して小刻みに震える。
もう無理!
そう思ったとたん、上がっていた火花と一緒に後方へ弾き飛ばされた。驚嘆の声も、悲鳴を上げる余裕もなかった。無意識に息を止め、衝撃で印が外れて両腕が上がる。社の結界が割れた、硬質で甲高い音が森中に響き渡った。
「この……っ」
咄嗟に独鈷杵をポケットから引っ張り出し、霊刀を具現化した時には、すでに社の屋根の辺りまで浮かんでいた。でも、この高さならまだ着地できる。腹筋に力を入れて素早く上半身を起こしながら、足に絡みついている触手へと振り上げた。とたん、悪鬼の本体から素早く触手が伸びて、右腕の二の腕を一文字に深く切り裂いた。
「い……っ」
電気が走ったような痛みに一瞬腕の力が抜け、手から独鈷杵がこぼれ落ちた。
「しまった……!」
上半身を捻り、さらに首を回して下を見下ろす。伸ばした手も虚しく、重力に従って独鈷杵は落下していく。切り裂かれた傷口から、真っ赤な血が腕を伝った。
「大河ッ!!」
頭上を覆っていた枝葉へ引き込まれる寸前に見えた光景は、社の左右で敵と共にこちらを見上げた晴と宗史、社へと消えていく雅臣の姿だ。
敵の顔に、大河は唇を噛んだ。宗史と対峙していた男は見覚えがなかったが、若かったからおそらく満流だろう。晴の方は――昴だった。一瞬だったし薄暗かったけれど、この半月、毎日見ていた人は分かる。
来てたんだ。大河は上半身を起こしたまま顔を庇い、容赦なく枝葉に体中を叩かれる。枝が掠ったらしい、腕にピリッとした痛みが走った。
今は、昴がどうとか傷の痛みなどを感じている場合ではない。早くこの状況をどうにかしなければ。雅臣に独鈷杵を奪われて、敵に殺される前に宗史に殺される。
「それは嫌だ!」
思わず声に出て全身から血の気が引いたのと、ザッと音を立てて枝葉を撒き散らしながら森を抜けたのが同時だった。結界の影響を受けているとは思えないほどの速度。
大河は腕を解いて周囲を見渡した。
まだ上昇している。雅臣が独鈷杵を回収するまで時間を稼ぐつもりか。島全体が見渡せるほどの高さではないが、集落は見渡せる。放されたら確実に即死する。かといって、このまま誰かの助けを待っていられるほどの余裕はない。独鈷杵も文献も「もう一つ」のものも、渡すわけにはいかない。
考えろ、考えろ。
ポケットに入れていた霊符が落ちなかったのは幸いだ。咄嗟に上半身を起こしたことが良かったのだろう。
使えるのは、霊符、九字結界、破邪の法。真下は神社。悪鬼を調伏し、廃ホテルの時のように捕縛の術で速度を殺しても、独鈷杵がなくては脱出できない。障壁の術で足場を作って、落下距離を短くするか。いや、捕縛の術もそうだが、この高さの壁を形成するとなると、かなりの揺れになる。廃ホテルでは七階までの高さで結構揺れたのだ。集落も揺れる。それに、移動されたら意味がない。あと使える術、思い付く方法――そうだ。
大河は奥歯を噛み締めて覚悟を決めた。一つ間違えば、骨が折れる。でも死ぬよりマシだ。今回ばかりは志季と鈴を頼る。それに、腹筋がそろそろ限界だ。
使う霊符は結界のみ。悪鬼を睨みつけて左手で霊符を取り出した時、悪鬼が動きを止めた。巨大結界の壁ぎりぎりの位置。とたん、するりと触手を放した。
「マジか……!」
結界を張るより先に落とされた。一瞬だけ宙に浮いた感覚を覚え、引き寄せられるように体が落下する。ゴッと耳元で風が唸った。このまま頭から落ちるわけにはいかない。
咄嗟に体を地面と平行にしながら結界の霊符を指に挟んだまま構えつつ、さらに真言を唱える。形成するのは初級。規模は、神社一帯。
「オン・ロケイジンバラ・ラジャ・キリク!」
怒声のような真言が響き渡る。霊符が指からするりと離れ、大河の意志に呼応して飛び去った。
「
これまでで一番早い暗唱だった。唱え終わるや否や胸元で印を結ぶと同時に、霊符が強烈な光を放った。
「
木々の上まで結界が形成された直後、半径一メートルほどの九字結界が現れた。と思ったら、向こう側から押し返されるように強烈な風圧かかかり、印を組んだ両手が胸に押し付けられる。例えるなら、傘を正面にして強風の中にいる感じだ。腕の筋肉が震えているのが分かる。
予想はしたが、これほどとは。すぐ間近に九字結界。このままでは危険だ。だが、九字結界が障壁になっているため落下速度が落ちて、体への風の抵抗が緩んでいる。ということは、体勢が変えられるかもしれない。
急げ、急げ。
大河は歯を食いしばって足を引き寄せた。九字結界を動かさないようにかろうじて位置を調整しながら背中を丸め、慎重に腕を伸ばす。さらに股の間に挟み固定してしゃがみ込んだ。要は、蛙のような格好で結界の上に座り込んだ形になる。ただし、足は結界で支えられているわけではないので、筋力次第。ここは根性だ。
衝撃は主に腕にかかるだろうが、速度が落ちているし、落下距離も短くなった。この体勢なら体全体で体重がかけられる。ここで九字結界を広げるとバランスが取れなくなるため、ぶつかる直前で一気に広げれば、衝撃が分散されて骨折は免れる。かもしれない。
「頼む……!」
かなり不格好な体勢で、大河は九字結界越しに迫る結界を見下ろした。ぐんぐんと結界が近付き、ぶつかる直前、
「ぐ……っ」
大河は歯を食いしばって九字結界へ霊力を注ぎ込んだ。一瞬にして倍ほどに広がった九字結界と社周辺に張った結界が、耳をつんざくような衝撃音を上げて激突した。
腕から全体へ、びりびりとした衝撃が駆け巡る。骨を伝って全身を揺らしているような感覚に、印が今にも外れそうだ。
着地したのは、多少煽られたため結界の真上から少しずれた位置。それでも木々の上だ。九字結界越しに、結界に罅が入ったのが見えた。結界はドーム状で、九字結界は平面。自然と傾き、そのまま結界の表面を滑って落下する。まるで金属を溶接しているような痛烈な音が森に木霊して、派手な火花が散る。結界同士が反発し合い、少しでも力を緩めると弾き飛ばされる。せめて木々の下までは踏ん張らないと。
大河は全体重と腕力をかけて九字結界を押し付ける。噛み締めた歯をさらに噛み締め、くぐもった唸り声を上げる。腕の筋肉がはち切れそうだ。
先程入った罅がピシッと小さく鳴り、大河のあとを追うように、ピシピシと軋んだ音を立てて大きな亀裂が走った。
森の中へ落ちてすぐ、限界が来た。再び茂った葉と枝に体中を叩かれながら、大河は硬く目をつぶった。着地した時の衝撃が強すぎて、腕が意思と反して小刻みに震える。
もう無理!
そう思ったとたん、上がっていた火花と一緒に後方へ弾き飛ばされた。驚嘆の声も、悲鳴を上げる余裕もなかった。無意識に息を止め、衝撃で印が外れて両腕が上がる。社の結界が割れた、硬質で甲高い音が森中に響き渡った。