第6話
文字数 5,304文字
六時に起床、身支度を済ませ、簡単な朝食を作り食べる間に洗濯機を回す。片付けをし、洗濯物を干してから出勤する。厄介な事件を抱えていない時のルーティンは、大体こんな感じだ。
しかし今日は違った。目を覚ますとアラームは止まり、しかも六時半を回っていた。飛び跳ねるように起きて大急ぎで身支度を済ませた。朝食を作る時間はないが、コーヒー一杯分くらいの時間はある。
『では次のニュースです。昨日、京都市上京区の一軒家で、男性の遺体が発見されました。被害者はこの家に住む
朝のニュースを横目で見つつ、コーヒーメーカーでコーヒーを入れる。コンビニ寄るかと考えながら味わっていると、映し出された写真に眉を寄せた。どこかで見た顔だ。
『容疑者は妻の
紺野はその内容に固まった。昨日、府警本部のロビーで遭遇したあの女だ。
「――四十六!?」
動機はやっぱり痴情のもつれか、あの状態で聴取できたのか、などという刑事らしい思考そっちのけで食い付いたのはそこだ。
「いやいや、あれはどう見ても……」
四十代には見えないだろ、と言葉にできなかった。さすがに身元調査が間違っているとは考えられない。となると、容姿が変貌するほどの心労だったのか。
紺野は重い息をついて、リモコンを手に取った。
『――なお、現在容疑者は非常に混乱しており、精神鑑定を視野に入れ、引き続き捜査を続けるとのことです』
あの状態ではまともに聴取できないだろう。時間を置いて、落ち着いてからになる。深町仁美が心神喪失でなければ、だが。
芸能ニュースに移ったところで、テレビを消した。毎日毎日、飽きもせず世界のどこかで事件が起こる。誰もが負の感情を抱いている以上、警察は暇な職業だと言われる日が来ることはないのだろう。
紺野は朝から湧いた鬱々とした気分を、コーヒーと一緒に飲み込んだ。
と、テーブルの上の携帯が鳴り、液晶に
「もしもし、おはようございます」
カップを流しに置いて上着をはおる。財布を内ポケットに突っ込んで、良親の携帯が入った通勤用の鞄を手に玄関へ向かう。
「おう、おはよう」
「昨日はお疲れ様でした」
「お前もな。ちゃんと起きられたか」
「……ちょっと寝坊しました」
靴を履きながら素直に答えると、電話の向こう側で下平が笑い声を上げた。室外機らしき低音が聞こえる。
「下平さん、もう出勤されてるんですか?」
「いや、帰るのが面倒でな、署に泊まった。着替え置いてるし」
「なるほど」
あんな乱闘のあとで車を署に戻し伏見区まで帰るとなると、確かに面倒だろう。警察署には夜勤の者や柔剣道の稽古後のために、シャワー室や風呂が完備されている。
「で、あの後どうなった? 俺も帰りに
紺野は鍵をかけ、鞄のポケットに突っ込んで外廊下へ向かう。同じ階の住人が、気を使ったのか小声で挨拶をしながら足早に追い越して行った。紺野は会釈をしつつ話を続ける。
「ああ、だったら下平さんの方が詳細だと思います。例の噂のからくりは聞きましたか」
「ああ、聞いた」
「……冬馬も標的だったことは」
「聞いたぞ。冬馬が譲二に暴行された時に、初めて聞かされたらしい」
「やっぱりそうですか。樹がそうじゃないかと言ってました。智也と、圭介でしたか。標的だと知っていて一緒に働けるほど神経太くないからと」
ははっ、と下平は楽しそうに笑った。
「ちゃんと覚えてんじゃねぇか、あいつ」
そうか、と小さく呟いて、下平は長く息を吐き出した。煙草か。
「下平さん、結局冬馬が狙われた理由は何だったんですか? 陽が聞いた話からじゃはっきりしないんですよ」
「それがなぁ、冬馬もよく分からんそうだ。ただな――」
そう言って、下平は冬馬と
「あいつ、昔から同じことしてたんですね」
「みたいだな」
紺野の溜め息交じりのぼやきに、下平の紫煙を吐く息が重なる。もしこの話も
「そこまでしてあいつが何をしたかったのか、さっぱり分からん」
まさに闇の中、か。紺野はいつもの道を府警本部へと足を進める。
「その話、樹は知ってるんでしょうか。昨日は出てきませんでしたけど」
「いや、多分知らねぇだろうな。冬馬のことだし、余計な心配かけたくなかったんだろ」
もし冬馬が話していたとしたら、良親が下平のことを知っていると知らなかったにしろ、樹は早々に良親を犯人と断定していたかもしれない。などと考えるのは不毛だ。
紺野は近くのコンビニに入り、籠を手にパンのコーナーに直行した。この時間帯、通勤途中のサラリーマンやOLが多く立ち寄るため、すでに棚は品薄になっていた。
「そういえば、樹は良親が下平さんのことを知ってるって知らなかったらしいですよ」
かろうじて残っている総菜パンをいくつか確保し、飲料コーナーへと回り込む。
「何だ、そうなのか? あいつ、アヴァロンの元スタッフだったらしいぞ」
「ああ、それで。でも下平さんは知らなかったんですよね。樹は、冬馬が良親に話してたんじゃないかって」
「そう考えたのか。まあ店長同士だしな。良親の奴、当時から俺のこと避けまくってたらしい。昔、警察と何かあったんじゃねぇかって。その辺は冬馬も知らねぇみたいだった」
缶コーヒーが並ぶ冷蔵庫から、迷うことなく愛飲している銘柄を手に取る。ついでにと、隣のペットボトルが並ぶ冷蔵庫前へと移動した。水かお茶か迷い、つらつらと眺める。
「あいつ、ますます正体不明ですね、って、そうだ下平さん。ちょっと相談があるんですけど」
結局緑茶を選んで籠に放り込む。
「何だ?」
ちょうどレジ前の列が途切れ、足早に向かう。籠を置き、上着のポケットから財布を取り出した。
「すみません、ちょっといいですか。今コンビニで」
「ああ、いいぞ」
「すみません」
そんなやり取りをする間に店員は手早く商品を清算し、金額を読み上げる。袋お持ちですかー、と聞かれて思い出す。数ヶ月前から買い物袋が有料になったのだ。買い物はほとんどスーパーで済ませるため、エコバッグは持ち歩いているが出すのが面倒だ。ああはい、と答えると、店員は袋分の金額を追加し読み上げ、これまた素早く袋に詰め始める。この早さは神業だ。
店員の手際の良さに感心しながら会計を終わらせ、コンビニを後にする。
「すみません下平さん、お待たせしました」
「おお。それで、相談ってのは何だ?」
「実は、良親の携帯を持って来てしまって」
「あー、あの時か。やっちゃいけねぇと分かった上で聞くが、確認したか」
「一応。何も出てきませんでした」
そうか、と落胆した声が届いた。
「ただ、どうやら画像データが最近の物ばかりらしくて、もしかするとパソコンに移していた可能性があるんじゃないかと。それに俺たちがずっと持っているわけにもいかないので……」
言葉尻を濁した紺野に、下平はうーんと唸った。
「もし何か残してるとしたら、店より家だろうな」
「おそらく」
「分かった。昨日、冬馬が樹に渡して欲しい物があるって言うから、連絡先交換したんだよ。なんとかならねぇか聞いてみる」
「すみません、頼みます。……渡して欲しい物?」
「ああ。何かは聞いてねぇけど、忘れもんか何かだろ」
死んでいるかもしれないのに手元に置いておくその気持ちは分かる。処分してしまったら、死んでいると認めてしまうようで怖いのだ。
あんな別れ方をしたとしても、冬馬は、少しは安心しただろうか。自分と同じように。
「そうですか……。それともう一つ、あくまでも推測なんですが――」
紺野は、陽の誘拐の依頼主は
「ったく、どうしようもねぇな草薙親子は……」
長い溜め息と共に吐き出した呆れ声に、紺野はそうですねと苦笑いを浮かべた。
「矛盾があるので、宗史は乱暴な推理だと言っていましたけど」
「でも無くはない、か。まああいつら自身警戒してるみたいだし、確証がねぇんならそっちは任せるしかねぇな」
「同感です。ああ、話は変わりますが、陽から伝言を預かってます」
「陽から?」
「ええ。冬馬たちの件、我儘を言ってすみませんでした、ありがとうございました、だそうですよ」
「……そうか」
呆気にとられた声だ。紺野は小さく笑い声をもらした。
「あいつ、今いくつだ?」
「確か十四です。中学二年ですね」
は――、と今度は感嘆の息を漏らす。
「しっかりしてんなぁ。うちの娘なんて、その年の頃は反抗期で手に負えんかったぞ。生意気な盛りだ」
どういう教育したらそんなしっかりした子供になるんだ、と感心する下平の向こう側から、下平を呼ぶ声が聞こえた。女性の声、例の
「おっと、もうそんな時間か」
すぐ行く、と答えると、下平は電話口に戻った。
「他の情報はどうする?」
「できれば早めに交換しておきたいですね。明たちにも報告しないといけないので。今日……何も起こらなければ、ぜひ」
昨日の今日なだけに慎重になってしまう。下平も同じように思ったのか、喉の奥で笑った。
「分かった。じゃあ携帯の件は冬馬と連絡が付いたらすぐ報告する。夜は終わったら連絡な」
「了解しました」
「そんじゃ、何もなかったら夜に」
「はい」
通話が切れるまで待って、紺野は携帯画面をオフにし尻ポケットに突っ込んだ。
夜に携帯を下平に渡せば、この件はひとまずこちらの手を離れる。何か依頼主に繋がる証拠が出ればいいが、確率は低いだろう。もしその依頼主が鬼代事件の黒幕だとしたらなおさら、簡単に尻尾は出さない。
「……いや、有り得ねぇか……」
紺野は顎に手を添え、自分の考えを自分で否定しながら府警本部の敷地に足を踏み入れた。
依頼主の依頼内容は、陽を殺害することだった。けれど
「……依頼……?」
ふと引っ掛かった単語に、紺野は眉をひそめて思わず足を止めた。
平良は「依頼されただけ」とはっきり言った。依頼主が黒幕あるいは仲間なら、指示と表現する方が自然だ。ないがしろにしたことといい、平良たちにとってその程度の相手であり、かつ依頼主は鬼代事件とは全くの無関係。だとしたら、土御門家の排除を狙う何者かが、たまたま鬼代事件の最中にあのタイミングで、たまたま鬼代事件と関わる平良たちに依頼した、ということになる。――偶然が過ぎやしないか。黒幕ではないにしろ、依頼主も鬼代事件と関わっていると考えた方がよほど腑に落ちる。
しかし、何故平良はあんな表現の仕方をしたのだろう。
「どういう関係だ……?」
喉の奥から唸り声を漏らす。と、
「紺野さん」
ふと我に返って振り向くと、
「おはようございます。どうしたんですか、こんな所で」
「おはよう。いや何でもねぇ。お前も寝坊か?」
足を進めながら聞くと、北原は隣に並びながら「ええまあ」と笑って紺野の手元に視線を落とした。
「紺野さんもですか」
「まあな。下平さんは署に泊まったらしい」
「あー、その手がありましたね。下平さんから連絡があったんですか」
「さっきな。帰り道で冬馬からあらかた話を聞いたっつってた」
「何か新しい情報ありました?」
そう問われ、刑事課へ向かいながら紺野は仕入れたばかりの情報を話した。
勤務時間などあってないようなものだが、給料が発生する以上勤務勤怠管理をせねばならない。しかもタイムカードではなく出勤簿だ。出勤した日に自分でハンコを押し、残業をすれば自分で計算をしてその分を書き込む。原始的だが、不規則な上に、労働基準法って何? と言いたくなるような長時間労働となる刑事の勤務管理をするには仕方がないのだろう。もちろん嘘を書き込めば違法となるため、そこは警察官としての誇りと信頼で成り立っているとしか言いようがない。
そして紺野と北原の出勤簿は当然、府警本部にある。
「桐生冬馬って、なんか芸名みたいな名前ですねぇ」
話を聞き終わった北原の第一声がそれである。もっと他に感想はないのか。
「それと、今日の夜、何もなかったら下平さんと合流だ」
「了解です」
今日は紺野さんちでしましょうよ、何でだよやだよ、と軽口を叩きながら捜査一課の扉をくぐると、そこには同僚刑事らの遺体、もとい机に突っ伏して熟睡する姿があった。