第9話

文字数 3,287文字

 予定では、もっと地面の近くで飛ばされるはずだった。そうすれば、落ちる衝撃は最小限で済む。しかし実際は、地面からかなり離れた高さ。全身打撲は免れない。
 緩やかな放物線を描きながら落ちていく中、体勢を立て直さなければと顔を上げる。どこからか枯れ葉を蹴る足音が近付いてきた。しまった、敵か。緊張が走り、顔を強張らせたとたん、
「うわっ」
 ぐんと体が前へ引っ張られた。腰に筋肉質な太い腕が回っている。
 隣にあるのは、紫苑の横顔。頬についた傷が、徐々に消えていく。紫苑は腕を上げて太い枝を掴み、速度を殺してからふわりと飛んで着地した。
「何をするかと思えば……、いや、今はいい。それより、独鈷杵は」
 すとんと地面に下ろされながら聞こえた声は、少々呆れ気味だった。紫苑たちの方はどんな状況なのかとか、聞きたいことはあるが後回しだ。
「ごめん、あと一歩遅かった。戻ろう」
 腕に残る気だるさは覚えがある。多分筋肉疲労だ。どうやら骨折や罅は免れたらしい。まだ戦える。またアドレナリン大放出中なのか、触手の傷や枝の切り傷の痛みは大して感じない。
「待て」
 一歩踏み出した大河を、紫苑が真っ暗な森の中へ視線を投げて引き止めた。
「志季の気配だ。血の匂いがする」
「え?」
 姿はもちろん、足音もしないが。大河が紫苑の視線を辿ると、微かに地面の枯れ葉を蹴散らす足音がした。
「志季!」
 紫苑が叫ぶ一瞬の間に、木々の隙間からちらちらと人影が覗いた。ものすごい速さでこちらへ向かってくる。紫苑が小さく舌打ちをかました。
「大河を連れて行け、私が引き受ける!」
 言うや否や、紫苑が人影の方へ向かって地面を蹴った。入れ替わるように志季の姿がはっきりと目に映り、大河は目を剥いた。
「悪い、頼んだ!」
 紫苑とすれ違いながら、志季が言い置いた。
「志季、ごほっ」
 勢いのまま俵担ぎをされ、おかしな声が出た。
「大丈夫か、悪い」
 志季が苦笑いで軽い謝罪を入れる。それは別にいい。大河は二、三度咳き込み、顔を上げて振り向いた。
「志季、その怪我!」
 頭から流れる血はこめかみから頬を染め、顎から滴り落ちている。胸辺りに一文字の傷、腕や足も血が滲み、着物は汚れぼろぼろで至るところが真っ赤に染まっている。こんな志季の姿は、初めてだ。
「心配すんな、こんなのすぐ治る。やっぱあいつ強ぇわ」
「やっぱって、式神と戦ってたの?」
「まあな」
 ということは、紫苑は今あの式神と戦っているのか。結界で動きも鈍くなっているだろうに。大河は心配そうに後ろへ視線を投げた。
「宗史が上だって叫んだ声が聞こえたから来たんだけど、紫苑の方が早かったな」
「え、宗史さんが?」
 敵と戦いながら気にしてくれていたのか。そして志季も紫苑も、戦いつつ助けに来てくれた。まだまだだ。
「それよりお前、もしかして独鈷杵回収し損ねたのか」
「あ、うん。ごめん、間に合わなかった」
 情けない顔をした大河に、ふうん、と志季は意味深な相槌を打った。
「ま、お互い何があったのかはあとで聞くとして、着くぞ。気合い入れろよ」
「うん」
 大河は表情を引き締めて、肩越しに見えた社へ視線を投げた。悪鬼に掴まってから、体感的にはとても長く感じたが、実際は大して経っていないはずだ。しかし、一見開くようには見えないからこそ、仕掛けがあると気付くだろう。もう、奪われているかもしれない。
 俺がもっと急いでいれば。悔しげに唇を噛んだ時、社の全貌が見えた。ちょうど目の前では、宗史が満流と対峙している。
「民家が近いと派手に暴れらんねぇから厄介だよな。お前は派手にやらかしたけど」
 付け加えられた余計なひと言に、大河はバツの悪い顔をした。文句はあとだ。志季が広場に入る直前で飛び上がり、刀を具現化して炎を纏わせる。先程と同じ奴だろうか。悪鬼が一体、門番のように社の前で浮いていて、雅臣がいない。まだ社か。間に合うかもしれない。回収済みだとしても、奪い返すのみだ。ただ、独鈷杵が見当たらない。どう戦う。
「大河、志季!」
「おや、ご無事でしたか」
 眼下で二人がこちらを見上げながら、それぞれ口にする。社を挟んだ反対側では晴と昴が一瞥し、晴が不敵な笑みを浮かべた。
 ほぼ同時に、悪鬼が勢いよくいくつもの触手を伸ばした。志季が刀を振り抜くと、纏っていた炎が火炎放射器のように噴き出した。触手を一本も逃すことなく捉え、本体ごと丸のみにして一気に燃え盛る。無念を嘆くような悪鬼の低い唸り声が響く。
「結界内でこの速度か」
 忌々しげにぼやいて社の戸口の前に着地し、大河は肩から飛び下りた。戸口は開けっ放し。ちょうど雅臣が祭壇の前で振り向き、霊刀を具現化したところだった。
「行け」
「ありがと!」
 礼を言って社へ飛び込む。背後で、志季が強く地面を蹴る音がした。
 ダンッ、と威嚇するように強く踏み込んで止まり、階段から下りてきた雅臣を見据える。彼が邪魔で蓋が見えない。一度重い剣戟が響き、間髪置かずに何かが木に激突する音が聞こえた。
 今度は大河が告げた。
「そこ、どけよ」
「断る」
 回収済みなら断る必要はない。開け方が分からなかったのか。ならば。大河は思い切り床を蹴り、一直線に雅臣へ向かった。雅臣が目を丸くして驚き、霊刀を左脇に構えた。
 視線を逸らすことなく突っ込み、雅臣が霊刀を薙いだ。瞬間。
「大河ッ!」
 宗史が飛び込んできたのと、大河が素早く身をかがめ、左側へスライディングで滑り込んだのが同時だった。足元をすり抜ける間際、右手で雅臣の足首を掴んで力任せに引っ張る。
「な……っ」
 霊刀もなく、訓練期間はたかが半月。昴から情報が流れていたとしても、運動が苦手でも、一年間訓練を積んできたというプライドがあるはずだ。おそらく、侮っていたのだろう。
 見事にバランスを崩し、ズダンと痛々しい音をさせて雅臣が手と両膝をついた。
 一方大河は、ろうそく立てと燈籠に突っ込んだ。
「あぶねっ」
 倒れてきたそれを放した手で咄嗟に受け止める。
「くそ……っ」
「そこまでだ」
 立ち上がろうと顔を上げた雅臣の目の前に、霊刀が突き付けられた。
「殺されたくなかったら、大人しくしていろ」
 この落ち着いた口調と声のトーンは本気だ。大河は宗史の冷ややかな声に背筋を凍らせながら体を起こした。ろうそく立てと燈籠を戻してから、階段を上る。蓋が開けられている。
 中を覗き込むと、中を確認したのだろう、見慣れた装丁の文献は表裏が逆に置かれているが、「もう一つ」のものは無事だ。しかし木箱は開けられていて、大河は息をのんだ。
 中の白い座布団に鎮座する独鈷杵は、確かに水晶だ。
 形は見慣れた独鈷杵なのに、向こう側が透けて見えそうなほどの透明感。繊細な装飾に、持ち手の中央部分が楕円形に盛り上がり、小さな五芒星が彫り込まれている。
 ――これが、影綱が使っていた独鈷杵。
 妙な感慨を覚えた。
 実に千年以上だ。千年以上もの時を超えて、今、影綱の血と霊力を受け継いだ自分の目の前にある。
 大河は、引き寄せられるように手を伸ばした。両手で持ち上げて、食い入るように見つめる。
「宗、大河、無事か!?」
 突然飛び込んできた晴の声に、はっと我に返る。文献は真言が書かれているらしいが、見られても問題はないだろう。それよりも、木箱が開けられていたにも関わらず無事だったのは幸いだった。ぎりぎり間に合ったのだ。ほっと胸を撫で下ろし、ひとまずポケットに突っ込む。
 晴が息を切らしながら宗史へ駆け寄った。
「昴は?」
「お前が相手にしてた奴って、満流だよな。一緒に志季が見張ってる。さすがに式神登場じゃあ不利だって思ったんだろうな。大人しくしてるぞ。今、柴と紫苑を使いに呼びに行かせた」
「……そうか」
「それとなぁ」
「何だ」
「実はな。結界張る時、深町弥生だけ逃がしたらしいんだよ」
「逃がした?」
「ああ。犬神が反応したんだってよ。でもまぁ、大丈夫だろ。それより、独鈷杵とあれは」
「無事だ」
 そうか、と晴が安堵の息をつく。
 二人の会話を聞きながら、大河は文献の奥に鎮座する、影綱が残した「もう一つ」のものへ手を伸ばした。
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