第12話

文字数 1,837文字

 学校が終わる時間、母は仕込みのために店に出ている。だから、直接「花筐(はながたみ)」へ行く。そこで宿題と夕飯を終わらせて、祖母や引退した芸妓のお姐さんの迎えを待ち、帰宅するのが習慣だった。迎えが遅くなる時は、店の手伝いをすることもあった。お姐さんは、芸妓を引退後に「花筐」を開いた前おかみで、母は彼女から店を受け継いだ。夫を早くに亡くし、子供はいない。だからだろうか、よく可愛がってくれた。
 板前さんもバイトのお姉さんもお客さんも。皆優しく、母も喜んでくれるから店の手伝いは好きだ。けれどあの頃は、店に行くのが憂鬱だった。
 開店前に常連客らしい女性がしょっちゅう尋ねてきて、母にお見合いの話しを持ちかけていたためだ。男の子に父親は必要よとか、再婚は子供が小さい時の方がいいわよとか、勝手な理屈を饒舌に語っていた。母はのらりくらりとかわしていたけれど、子供心に複雑だった。父親がいる環境に興味はあったし、母は今より楽できるのだろうかと思う反面、母を取られるような気もしていた。
 それにもし、新しい父親との間に娘が生まれたら――。
 そう考えると、千早くんもお父さんいた方がいいわよねと聞かれても、なかなか頷けなかった。
 以前、家に帰ってからテレビに夢中になってしまい、店に行くのが遅くなったことがあった。母から電話がかかってきて急いで店に行くと、ものすごく心配してくれた。そんなことがあったからか、時折、時間を潰して少し遅く店に行くようになった。子供ながらの抵抗、あるいは愛情を確認したかったのかもしれない。後ろめたさもあったけれど、母の心配した顔を見ることで安心感を得ていたのだ。
 あの日も、そうだった。
 桜の最盛期。鴨川の左岸、三条通から七条通までの約1.8キロにわたって「花の回廊」と呼ばれる桜並木がある。花見客で賑わうのは、三条大橋から四条大橋辺りまでで、五条周辺は比較的落ち着いている。
 近藤は、五条大橋近くの河川敷に腰を下ろし、図書室で借りた本をめくっていた。昨日は大雨が降ったため、増水した鴨川の水は茶色く濁り、流れも速い。青空は見えるが、せっかくの桜はほぼ散ってしまい、花見客の残念そうな声がちらほらと聞こえてくる。
 水の流れる音は少し耳障りだが、温かい気温と陽射しは、まさに読書日和。
「お、ほんとにいる。近藤さぁん、何してんのー?」
 しばらくして聞こえた間延びした声は、例の嫌がらせ三人組だ。あえて「さん」付けで呼ぶあたりが陰湿だ。
 せっかくいいところだったのに。近藤は、しかめ面でぱたんと本を閉じてランドセルにしまうと、さっさと背負って腰を上げた。五条大橋へ上がる階段へと向かう。
「無視かよ」
「感じわるー」
「生意気ー」
 どの口が言ってんだ。同級生に生意気なんて言われる筋合いはない、何様だよ。心の中で毒づいて、いつも通り無視して河川敷を歩く。男子たちが駆け足で近寄って回りを取り囲んだ。
「何か言えよ、男女」
「こいつ色も白いしさぁ、ほんと女みたいだよな」
「おい、脱いでみろよ。ちゃんとついてんのか?」
 観光客とおぼしき人たちばかりで、気が大きくなっているのだろうか。ぎゃははと大声で下品な笑い声が周囲に響く。蔑みの言葉に比例するように、どんどん川べりに追いやられる。
「男女は言葉も喋れないのか?」
「何か言えって、男女」
「男女ぁ」
 高校生か大学生くらいの集団が、呆れ顔ですれ違った。こいつらは、面前でこんなことをして恥ずかしくないのか。近藤はランドセルの肩ひもを両手で握り、一歩大きく踏み出した。と、
「逃げんなって」
 横にいた一人に、両手で強く肩とランドセルを押された。ドンッ、と鈍い音がしたと同時に、体が横に傾いた。咄嗟に踏ん張ろうと横に開いた足は、川べりにいたせいで宙を踏んだ。表情を凍り付かせた三人、雲が多めの空が見えたのは一瞬。なすすべなく、傾くがまま体は鴨川へ落下した。
 体に鈍い衝撃が走り、視界が真っ暗になった。
 一瞬で襲い来る流れに飲み込まれ、重い水圧に体の自由が利かず、全身を蹂躙されているような感覚を覚えた。浮力のあるランドセルの肩ひもがあっという間に抜けて奪い去られた。突如、硬い物で勢いよく殴られたような衝撃が額を襲い、体から力が抜けた。
 圧倒的な自然の力を前に、もがくことさえ許されない。強烈な恐怖を覚えた。
 暗い、苦しい、冷たい、痛い――怖い。
 ――誰か、助けて。
 薄れゆく意識の中で、痛いほど強く腕を掴まれて、すっぽりと何かに包まれた感覚がした。
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