第6話

文字数 4,413文字

 昨日、下平から陽と椿(つばき)が礼を言っていたとメッセージが届いた。勝手なイメージで選んだのだが、喜んでくれただろうか。樹については「事件が終わったらケーキバイキングのはしごするって企んでたぞ」と書かれてあった。相変わらずの甘党に思わず頬が緩んだが、きちんと貯めておけと言いたい。
 さらに、椿ともう一人、廃ホテルにいた男の式神、志季(しき)が護衛についてくれるらしいことも書かれていた。一昨日、突然電話をかけてきた下平は、明らかに焦っていた。何か、新たな可能性が出たのだろうか。
 そして公休日の今日。午後七時過ぎ、圭介から連絡が入った。
「早退?」
 暑いし手軽だしぶっかけうどんにしようと思い、野菜を出している最中だった。冬馬は野菜庫を閉めながら聞き返した。
「はい。なんか、昨日から胃の調子が悪いみたいで。薬飲んでるからって無理して仕事行ったらしいんですよ。でも顔色が悪いからスタッフの人が心配して、早退しろって言われたそうで」
 今はちょうど圭介がナナと合流した直後だ。
「分かった。お前たち、今どこだ?」
 出した野菜を戻す。
「タクシーでリンのとこに向かってます」
「智也は?」
「ナナが連絡入れてます」
「すぐ行くから、リンと合流して動くな」
「分かりました」
 圭介の返事を聞いてすぐに通話を切った。急くと思考が鈍って視野が狭くなる。落ち着け。
残りの野菜を放り込み、書斎から財布を掴んで部屋を出た。エレベーターホールへと足早に向かいながら、携帯を操作する。
 予定の時間よりかなり早い。下平に伝え、そこから椿たちの主に連絡を回してもらわなければならない。この時間はまだ帰宅ラッシュで渋滞しているだろうから、彼らがどこにいて、今何をしているのか分からないが、あの身体能力ならばおそらく間に合う。とはいえ、リンには悪いが少しだけ我慢してもらうことになる。病院に行くにせよ家に帰るにせよ、一人で行動させるわけにはいかない。問題は智也だ。タクシーで来るだろうが、間に合うだろうか。護衛するなら人数が多いに越したことはない。
 下平へメッセージを送るとすぐ既読が付き、連絡しとく、と端的な返信が来た。そこで到着したエレベーターに乗り込む。
 壁に背を預け、ゆっくりと深呼吸をする。
 昼間、下平からメッセージが送られてきた。今日動く可能性が高い、絶対に油断するな、と。以前下平は、龍之介は樹たちが関わっている事件に関与しているかもしれないと言った。もしそうだとしたら、こちらと連動している可能性がある。一昨日の電話といい、昨日の豪雨で何もなかったことといい、あちらで何か動きがあったのかもしれない。すぐに智也と圭介にメッセージを送り、今日はこれまで以上に警戒しろと付け加えた。
 冬馬は、眉を寄せて俯いた。
 詳しい話は聞かされていないけれど、下平の話や廃ホテルの件だけでも、彼らが関わっている事件がどれほど危ないものか、よく分かる。
 平良は、危険だ。
 携帯を握った手に力を込め、唇を噛む。あんな男に、樹は狙われているのか。
 エレベーターの到着音が鳴り、冬馬は我に返って顔を上げた。扉が開いて、待っていた中年夫婦に軽く会釈をして足早で下りる。
 今は、リンとナナだ。


 リンが勤務するショッピングモールは、烏丸通りと四条通りが交差する場所にある。京都市のメインストリートだけあって交通量も人通りも多い。案の定、十五分かからない道のりが二十分以上かかってしまった。
 こんな時間を逢魔ヶ時というのだろうか。あと数分もすれば、完全に陽が沈んで暗闇に包まれる。
 途中で圭介から「この前の場所にいます」とメッセージが入った。四条通りの方は停車させる場所がない。また烏丸通りの方は、タクシー乗り場、地下駐車場出入り口、バス停と続いているため、駐車禁止になっている。停めるならその先、ファストフード店の前だ。そこそこ距離がある。
 到着すると、店の前にしゃがみ込んだリンと寄り添うナナ、周囲に視線を走らせる圭介がいた。すぐに気付いた圭介が腰を折って二人に伝え、リンとナナが立ち上がった。
 行き交う人々の合間を縫って、三人がゆっくりこちらへ向かって来る。その間も周囲に警戒する圭介と同じく、冬馬も視線を走らせる。
 良親は、一見が多いアヴァロンの客層を逆手にとって、仲間を紛れ込ませた。あれとは目的が違うし、いくらなんでもこの人通りで仕掛けてくるとは思えないが、もし仲間がいた場合、写真以外の奴だとさすがに見抜けない。
 不意に、そろそろと顔を上げたリンと目が合った。するとリンは、今にも泣きそうなほど顔を歪ませた。
 初めて見る、彼女のこんな表情。何も悪いことはしていないのに。どうしてそんな顔をしなければいけない。どうして、そんな顔をさせられなければいけないのか。
 本当に、胸くそが悪い。
 圭介が後ろにつき、ナナがドアを開けて素早く乗り込んだ。続けてリンがゆっくりと入ってくる。体を捻って振り向いた冬馬に、リンがぎこちない笑顔を浮かべた。
「冬馬さん、ごめんなさい。時間ずらしちゃって」
「いい、気にするな」
 顔色が悪く、覇気もない。かなり無理をしている。圭介が乗り込んで、ドアを閉めた。
「智也はまだか?」
「もうすぐ着くって、さっき連絡が入りました」
「ラッシュ時間だからな。リン、お前病院は?」
 リンは小さく首を振った。
「大丈夫だよ。こんなの寝たら治るから。あたし丈夫だもん」
 へへ、と笑ったリンに、ナナと圭介が痛々しく目を細めた。
 原因は分かっている。もし本当に今日奴らが動くのなら、終わらせなければならない。これ以上は無理だ。
 と、車の後ろにタクシーが滑り込んできた。しばらくして後部座席のドアが開き、情けない顔をした智也が慌ただしく降りて駆け寄った。
「リン!」
 助手席のドアを開けると同時に、飛び込むように乗り込んで叫んだ。
「大丈夫か? 吐き気とかないか?」
「智也、落ち着け」
 上半身を捻って運転席と助手席の間から顔を出し、詰め寄るようにリンに尋ねる智也を冬馬が制した。
「騒ぐと余計に障る」
「あ……、そっか、すみません……」
 智也は目に見えてしゅんとした。
「大丈夫だよ、智くん。ありがとね」
 えへへ、と笑った顔は嬉しそうだが、やっぱり弱々しい。自分が弱っているのに人を気遣うことができる。こんなに優しいリンを、あいつは。
 冬馬は唇を一文字に結び、前を向き直った。
「智也、行くぞ。シートベルトしろ」
「あ、はい」
 智也がせかせかとシートベルトをして、冬馬は車を発車させた。
 一昨日同行した時は、賑やかだった。こんな客が来ただの、新しく入荷したピアスが可愛いだの、カフェの新作が美味しかっただの、次から次へ話題が移り、以前約束した皆で出掛ける話しにもなった。あちこち候補が上がって、決まるにはまだ少し時間がかかりそうだ。
 それなのに今日は、街の喧騒とタイヤがアスファルトを擦る音だけが車内に響く。この重苦しい空気も、リンに負担をかけているような気がしていたたまれない。
 もし本当に二人が狙われ、龍之介が樹たちの事件に関与し、かつこちらの件と連動していると仮定すると、人目があっても関係ない。襲いやすい隙や豪雨を避けたのだ、おそらく時期を見計らっていたのだろう。だとしても、今朝からリンとナナを見張っていたとは考えにくい。自宅も帰宅時間もすでに分かっているのだから、意味がない。となると、リンのシフトが遅番に変わったことを奴らはまだ知らない。本来、今日リンが帰宅してから知るはずだった。ならば今、自宅周辺で張っている。奴らからしてみれば、いつもの時間帯なのだ。
「リン、ナナ」
 不意に沈黙を破った冬馬へ、リンとナナが視線を上げた。
「昼間、下平さんから連絡をもらった。もし龍之介が動くのなら、今日の可能性が高いそうだ」
 え、と二人は吐息のような声を吐いた。
「冬馬さんっ」
 智也と圭介から、非難するような声が上がる。
「心持ちの問題だ。知らないのと知っているのとでは、対応も覚悟も違ってくる。リン、ナナ。怖がらせて悪いが、そのつもりでいてくれ」
 硬い声色でそう告げられ、先に返事をしたのはナナだった。
「分かりました」
 彼女らしい、芯が通った力強い返事。一方リンは、きゅっと唇を噛んで俯いている。助手席から智也が振り向き、声をかけようと口を開いた。と、リンが顔を上げた。
「分かった」
 智也と圭介が驚いたように目を見開き、ナナがリンの手をぎゅっと握った。声は少し震え、頬も引き攣っている。けれど真っ直ぐ冬馬の横顔を見据えるその目には、覚悟の色が浮かんでいた。
 智也が、奥歯を噛み締めた。
 リンの自宅は、一方通行の道路沿いに建っている。正面に入口があり奥へ長いアパートだ。一階のみ二部屋で、二階と三階は三戸ずつの三階建て。アパートの周りは、左のベランダ側には築年数の古そうな平屋、右の玄関側は六台分の月極駐車場、裏、つまり奥は民家の庭の木々が茂っており、コの字型の塀に囲まれている。塀を足場にして二階のベランダから侵入しようと思えばできないこともない。ただ、ベランダの壁は完全にコンクリートで塞がれており、手をかける場所がない。とはいえ、侵入されないと高を括るのは危険だ。
 一つ安心するとすれば、下平がわざわざ忠告してきたということは、樹たちもこちらと連動している可能性は考えているのだろう。ならば、向こうで何か動きがあったとしても、椿と志季が護衛に来られないことはない。それも込みで対策を練っているはずだ。
 帰宅ラッシュがそろそろ落ち着く八時半頃、冬馬たち五人を乗せた車はアパート前に停車した。
「リン、鍵いいか」
「あ、うん」
 智也が体を捻って手を出すと、リンは鞄の外ポケットのファスナーを開けて、四つ葉のクローバーのキーホルダーが付いた鍵を引っ張り出した。
「ごめんね」
 手渡しながら、リンがぽつりと呟いた。
「気にすんなって言ったろ」
 智也が鍵を受け取ってにっと笑うと、リンはぎこちない笑みを返した。一昨日も同じことを言っていた。送り迎えが始まって、何度も繰り返しているのだろう。
 冬馬は周囲を見渡し、通り過ぎた一台の自転車が小さくなってからドアを開けた。車から降りるとすぐにドアを閉める。倣うように智也が助手席から降り、ドアを閉めてから鍵をかけた。送り迎えが始まってからこっち、部屋を確認して戻ってくるまで絶対に車から出るなと言い聞かせてある。
 冬馬は何気なく月極駐車場を挟んだ向かい側に建つ、三階建ての住宅を見上げた。等間隔に設置された街灯と月の光おかげで見える人影は、どうやら間に合ったらしい、椿だ。志季は周囲を見回ってくれているのだろう。
 何かあったのなら知らせてくれるだろうから、室内に異変はない。だが。
 冬馬は助手席側へぐるりと回り込んだ。
「智也、行くぞ」
「はい」
 促すと、智也は硬い表情で頷いて先行した。
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