第9話

文字数 4,993文字

 きっかけは、よくある話題だった。
 一課に配属されて初めて担当した事件は、同じ年頃の男性の撲殺事件だった。犯人は四人。防犯カメラにしっかり顔が映っており、目撃者も出て、身元を洗うのにそう時間はかからなかった。一カ月も経たないうちに犯人は捕まったけれど、その動機があまりにも身勝手でやり切れなかった。彼らは、遊ぶ金欲しくてたまたま目についたから襲った、と言ったのだ。動機もさることながら、徹底的に男性を痛めつけて殺害し、挙げ句の果てに全裸にして公園の植え込みに放置するという、人を人とも思わない鬼畜ぶりは、遺族でなくてもはらわたが煮えくり返った。聴取に立ち会いながら、殴り飛ばしたい衝動を抑えるのに必死だった。
 事件が解決したその日の夜、一課で北原の歓迎会と称してささやかな飲み会が開かれた。そこそこ盛り上がってきた頃、一課長に絡まれていた紺野がグラス片手にうんざり顔で逃げてきた。
「ったく、誰だ課長に酒飲ませた奴」
「課長、お酒弱いんですか?」
「弱い上に絡み酒だ」
「うわぁ……」
 上座の課長をちらりと見やると、紺野の代わりに緒方が生贄に差し出されたところだった。目を付けられないようにしないと。北原が身を縮めると、紺野が空いた皿を片付けながら言った。
「そういや北原。お前、なんで警察官になったんだ?」
 来たか、と思った。交番勤務の時にも聞かれ、どうせまた聞かれるのだろうと覚悟はしていたけれど、いざとなると躊躇う。素直に答える必要はないと分かっているのに、嘘の答えはなかなか出てきてくれない。
 握ったグラスに目を落とし、えっと、と言い淀んでいる間に紺野は目の前のテーブルを綺麗に片付け、腰を落ち着かせた。意外と綺麗好きなのだろうかと頭の隅で考えながら、北原は苦笑いと共に口を開いた。
「よ、よくある話です。ドラマの刑事に憧れたんですよ」
 結局ごまかすことを諦めて、半分ほどカクテルが残っているグラスを意味もなくくるくると回す。
「でも、きつい仕事だしあんな格好良いものじゃないって。俺みたいなマイペースな人間には務まらないって友達にもよく言われました。でも、どうしても諦められなくて」
 ははっ、と自嘲気味に笑ってグラスに口を付ける。
 交番勤務の時に聞いてきた先輩は、鼻で笑って「ま、頑張れよ」と言った。そして仕事終わり、タイミングが悪いことに、署のロッカーで「今どきいるんだな、ドラマの刑事に憧れて警察官になる奴って」と話しているのを聞いてしまったのだ。
 また同じ反応が返ってくるのだろうと思っていた。けれど。
「ふーん。まあ、適正は確かにあるけど、憧れて職に就くなんて誰にでもあるだろ。楽な仕事がないのも当たり前だし。俺だって似たようなもんだ」
 さらりと返ってきた答えに驚き、北原は手を止めて紺野を振り向いた。
「……紺野さんは、どうして刑事に?」
 紺野はビールに口を付けてから言った。
「俺はじいさんの影響だな。警察官だったんだよ。定年まで交番勤務を勤め上げた人でな」
「刑事じゃなかったんですか?」
「ああ。ガキの頃に、母親が寝坊して弁当作り損ねたことがあってな。それを一緒に届けに行ったことがあるんだ。そん時に、制服着て交番の前に立ってるじいさんが妙に格好良く見えたんだよな。お前がドラマの刑事に憧れたってのと同じようなもんだろ」
 そう言いながら、紺野はたこわさをつまんだ。わさびが効きすぎていたのか、鼻をつまんで顔をしかめる紺野から顔を背けて、北原はこっそりはにかんで笑った。
 初めて自分の憧れを否定しなかった人は、口は悪く手も早いし、頑固で素直じゃない。それでも、正義感の強い、真っ直ぐな人だと思った。あの頃憧れたテレビの中の刑事そっくりだと。
 だから――。


 捜査会議が終わったのは、午後七時をゆうに過ぎていた。先に連絡を入れるべきかと思ったが、もし近藤(こんどう)が犯人だった場合、仲間に連絡されると太刀打ちできない。逃げられる可能性もある。監視のことが頭をよぎったが、会話の内容を聞かれなければ何とでも言い訳できる。
 昼に下平から入ったメッセージは、自然と顔を歪ませた。揉み消した奴が協力者と別人だったとしたら、揉み消した見返りは何だったのだろう、などと考えるまでもない。おそらく金だ。金のために、警察官でありながら被害者の気持ちを踏みにじったのだ。協力者と揉み消した奴。井口宙(いぐちそら)に言った自分の言葉に、首を絞められるような感覚を覚えた。宙に合わせる顔がない。
 こういう奴がいるから警察の信用が落ちるのだ。全国の警察官と全国民に土下座して謝れこの野郎。北原は心の中で悪態をつきながら本部に戻り、そのままの足で科捜研に向かった。
 足早に科捜研へ向かい、ノックもそこそこに勢いよく扉を開けると、当直を残して別府(べっぷ)たちが帰り支度をしていた。ぎりぎり間に合ったか。
「おや、北原くん」
「あの、近藤さんは……」
 言いながら近藤の個室へ目を向けると、ブラインドが上がっていて明かりも消えていた。
「もう帰ったよ」
 タイミングが悪すぎる、また入れ違いだ。そうですか、と脱力して肩を落とす北原に、別府が言った。
「やっぱり伝えといた方が良かったねぇ。やっぱり何か重要な話し?」
「え、あー、いえ、その……」
 昨日、来たことを近藤に伝えておこうか言われたが、大した話じゃないからと断ったのだ。作り笑いで濁した北原に、別府は逡巡した。
「今日、お店の手伝いがあるって言ってたからそっちにいると思うよ」
「お店……?」
 何のことだろう。瞬きをして聞き返した北原に、別府が「あれっ」と言って意外そうな顔をした。
「知らないの? 近藤くんのお母さん、祇園で花筐(はながたみ)っていう小料理屋やっててね、時々手伝ってるんだよ」
「小料理屋……?」
 北原は呆然と呟いた。初耳だ。あの近藤が接客する姿など想像できない。別府たちがしみじみと「意外だよねぇ」と言う声にはっと我に返る。
「あっ、ありがとうございます行ってみます! お疲れ様です!」
「ああうん、お疲れー」
 取り繕うように会釈をして踵を返し、気圧された様子の別府たちの声に見送られて科捜研をあとにする。
 北原は足早に廊下を歩きながら携帯を操作した。祇園、小料理屋、花筐で検索をかける。すぐに表示された店のホームページ画面から地図へ飛び、駐車場へ向かう。はたと気付いて方向を変えた。あの辺りは、駐車場はあるけれど空いているか分からない。空きを探している時間が無駄だ。
 北原は府警本部からは目と鼻の先にある京都府庁前のタクシー乗り場へと走り、転がるように乗り込んだ。
「この場所までお願いします」
 息を切らして携帯を見せると、運転手は気圧されつつも画面を見つめ、すぐに「分かりました」と言って車を発車させた。
 適度に冷えた車内で、北原はほっと息をついた。順調に行けば十五分かからない。
 祇園などの歓楽街、三条大橋の東側周辺の繁華街を有する東山区は、有名な八坂神社、円山公園、清水寺、三十三間堂、豊国神社、建仁寺、知恩院、東福寺と大規模な寺院や神社が多く、一年を通して観光客が絶えない地域だ。
 そして南北に一キロほど走る花見小路通(はなみこうじどおり)は、祇園のメインストリートだ。四条通を境に、北側と南側ではがらりと雰囲気が変わり、北側は第二次世界大戦後に拡張された比較的新しい通りで、レストランやバー、クラブ、居酒屋が入るテナントビルが、反対に南側は古くから続く由緒ある茶屋や料理屋が立ち並ぶ。
 近藤の母が営んでいるという「小料理屋 花筐」は、南側にあった。
 花見小路通は、車の通行が許可されている。昼間は道を塞がんばかりの人だかりだが、この時間帯は比較的人通りが少ない。しかし、どのみち人を避けなければいけないし、花筐はメイン通りから逸れた細い路地にあるため、降りた方が早いかもしれない。
 北原は花見小路通近くの四条通でタクシーを降りて、足を踏み入れた。茶屋や料理屋目的でなくとも、スイーツ店や舞妓や芸妓、雰囲気を楽しむために訪れる者もいるため、想像していたよりは人が多い。昼間は、電柱や電線もなく、石畳や趣ある町屋が相まって、町全体が一体となって醸し出す京都ならではの奥ゆかしい情緒を感じられる。しかし夜になると一転、華やかで煌びやか、かつ幻想的で艶やかになる。各町屋が灯す提灯や朱色の街灯の明かりが石畳に反射して空気そのものを彩り、タイムスリップをしたような幻覚に陥ってしまう。
 現実を忘れさせる光景を堪能したいところだが、今はそれどころではない。北原は携帯片手に横道に逸れ、場所を確認しながら慎重に足を進めた。
 メイン通りとは逆に、西に一本道を逸れた西花見小路通(にしはなみこうじどおり)へ入ると、とたんに空気感が変わった。低い軒下に格子戸、出格子、すだれ、犬矢来(いぬやらい)を備えた昔ながらの京町屋が軒を連ね、提灯や店の明かりはあるものの、こちらはさらに人通りが少なくなり、しっとりして落ち着いた雰囲気だ。
 五分ほどうろうろして、この少し先か、と当たりを付けた時、後ろから歩幅の狭い足音が近付いてきて、着物姿の若い女性が小走りに横をすり抜けた。手にはショルダーバッグ、それと着物を運ぶ鞄だろうか、大きな手提げを抱えている。道に慣れているようだしどこかのスタッフかなと思いながら眺めていると、彼女は迷うことなく先にある一軒の町屋へと入って行った。あの辺りは、当たりを付けた場所だ。
 もしかして花筐の店員だったのだろうか。思わず急ぎ足で駆け寄ると、格子戸の横に「花筐」と彫られた木製の小ぢんまりした看板が掲げられていた。引き戸の上に取り付けられた外灯にほんのりと照らされ、ひっそりとした雰囲気というか、隠れ家的な趣がある。
 北原はごくりと喉を鳴らした。ちょうど夕飯の時間帯だ。店を手伝っているのなら、入れ違いにはならないだろう。
「よし」
 気合いを入れて扉に手をかけたが、勢いよく開ける気にはなれなかった。小料理屋に対して、「上品な大人が上品な女将さんと洒落た会話をしつつ静かに料理とお酒を楽しむ場所」という偏りまくったイメージがあるため、自分には敷居が高くどうしても腰が引ける。北原は、そろそろと少しずつ扉を横に引き、隙間から店内を覗き込んだ。と、
「あら、いらっしゃいませ」
 カウンターの中から色気のある声がかけられ、北原は思わず背筋を伸ばした。ふふ、と女将が遠慮がちに笑った。
「どうぞ、お入りください」
 四十代くらいに見える着物姿の女性は、女将だろうか。だとしたら近藤の母親だ。それにしてもえらい若いなと思いつつ、柔和な笑顔に引き寄せられるように北原はおずおずと扉を開いて足を踏み入れた。
 八席あるコの字型のカウンター席は六席埋まっており、そう広くない店内だ。小料理屋というのは全部こんな感じなのだろうか、余計な装飾が一切なく、客がいなければ殺風景に見える内装。けれど、柔らかな照明と、穏やかな客の会話と笑顔がほんのり温かみを帯びているように思えて、やけに落ち着く。
「お一人ですか?」
「あ、はい。いやっ、そうじゃなくてっ」
 つい雰囲気に飲まれかけ、北原ははっと我に返って大きく首を横に振った。女将が笑みを浮かべたまま小首を傾げる。何気ない動作も上品だ。やまとなでしこってこういう人のことを言うんだろうな、と頭の隅で考えながら後ろ手に扉を閉め、事情を説明しようと口を開いた。その時、カウンターの向こう側の暖簾が上がり、見慣れた前髪で覆われた顔が覗いた。
「じゃあ母さん、僕帰る、から……」
 近藤が扉の前で立ち尽くす北原に気付き、暖簾を片手で払った格好で固まった。二人の間にしばしの沈黙が流れる。女将が不思議そうに北原と近藤を交互に見やった。
「なんで君がここにいるのッ!」
 弾かれたように我に返った近藤の怒声が店内に響き、女将と客たちが一斉にぎょっとして肩を跳ね上げた。
「こら千早(ちはや)!」
 女将が慌てて叱責の声で近藤の名前を呼び捨てる。やはり母親らしい。すみません、と客に謝る女将を横目に、近藤は足音も荒く北原に歩み寄り、がっしりと腕を掴んで勢いよく扉を開けた。ひょろりとした見た目とは裏腹に、意外と握力が強い。
「待ちなさい千早っ」
「お騒がせしてすみません失礼します!」
 客の唖然とした視線を浴び、店の外に放り出されながら告げた謝罪は、近藤が閉めた扉によって遮られてしまった。
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