第1話

文字数 1,051文字

「美しいな」
 隣で佇んだ影綱(かげつな)が、静かに呟いた。
 規則正しく幾つもの通りが交差する京の都。そこに住まう人々や建物も、どこまでも広がる空も。ゆったり流れる雲も、周囲に連なる山々も、豊かな水を湛えた鴨川も。全てが平等に、夕日に照らされて余すことなく真っ赤に染まっている。三羽のカラスが、巣へと帰ってゆく。
 闇に飲まれ、人ならざる者たちの時間となるまで、あとわずかといった頃。突然、影綱が都を眺めてみたいと言った。
 別段断る理由もないため、影綱を抱えて山頂近くまで運んでやった。
 決して人が足を踏み入れることのない、深い山の崖の際。嗅ぎ慣れた濃い土と緑の香り。大きく枝を広げ、葉を鬱蒼と茂らせた木々。いつもと変わりない風景だ。けれど今は、微かな風も、葉が擦れる音も、人はもちろん、動物の気配すらない。
 あるのは、違う種族二人の、密やかな話し声。
 影綱は、何故突然、都を眺めたいなどと言い出したのか。(さい)は、遠くへと目をやる影綱を、横目で盗み見た。口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。だが、赤く染まった都を映す黒い瞳の奥に、わずかな郷愁が見えた。
「お前は、京の生まれではないのか」
 そんな気がした。
 故郷を離れた自分だからこそ、分かったのかもしれない。千代との戦の中で、ふとした時に思い出す。大勢の仲間の命と引き換えにたくさんのものを置いてきた、愛おしい故郷。
「俺は、周防にある小さな島の生まれだ」
 口にしたとたん、わずかに見えていた郷愁が色濃くなる
「貧しい島だ。不便で、何もない。人の数も、都と比べればほんのわずかだ。だが――豊かだ」
 影綱は、郷愁を押し込めるように、誇らしげに少しだけ顎を反らした。
「争いもなく、人々は(みな)、互いに気遣い、穏やかに暮らしている。俺は、あの島が好きだ」
 力強く言って、影綱は微笑んだ。
 都を映しながらも、その目は故郷の島を見ている。影綱が生まれ育った場所。遠く離れた海に浮かぶ、貧しくも豊かな島。
「そうか」
 いつか――。
 不意に胸を掠めた思いは、すぐに霧散した。叶わない願いだ。
「――いつか」
 ふと呟いて、影綱が振り向いた。真っ直ぐで真っ黒な瞳は夕日の赤を反射し、柴の姿を映している。
「柴にも、見せてやりたい」
 ふわりと笑って屈託なく口にされた言葉は、消えかけた願いを再び形作った。
「そうだな」
 眩しそうに目を細めた柴に、影綱はこくりと頷いて、夕映えの都をもう一度眺めた。

 ――まだ、覚えている。
 共に見た美しい景色も、影綱の笑顔も、声も、言葉も。
 まだ鮮やかに、胸に刻まれている。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み