第29話

文字数 2,393文字

 対触手の訓練は、体術訓練を始めてから二カ月後にメニューに組み込まれた。ひたすら式神の攻撃を避け続けるだけの訓練は、正直面白かった。淡々と、かつ黙々とこなす作業は嫌いではないし、繰り返すごとに集中力は上がり、比例して術にも良い影響を与えてくれた。
 レベルで言うとまだ中くらいで合格は出ていないけれど、分裂した悪鬼や触手の速度は、容赦なく水塊を飛ばしてくる閃や右近よりはずいぶん遅く感じる。狙い通り、低い壁は十分機能し、闇に紛れて足元を狙われることはない。動きが分かれば避けるのは問題ない。この数でなければ。
「どれだけいるのよ……っ」
 額から滑り落ちた汗が、頬に滲んだ血と混じって顎から滴り落ちる。森の中とはいえ暑いものは暑いし、動き回れば全身汗だくの上に、触手にあちこち切られて血まみれだ。
 あれからどのくらいの時間が経ったのか。まだ十分にも思えるし、もう三十分にも思える。変わらない景色と減らない悪鬼のせいで、時間の感覚が狂う。
「つ……っ」
 避けたつもりの触手が太ももを掠り、結界にぶつかって消滅した。構っている余裕はない。次から次に触手を伸ばす悪鬼をかろうじて避けながら、霊刀で叩き切る。
 霊刀を維持し続けているせいで霊力の消耗が激しい。刀の重さに慣れていない腕の筋肉が悲鳴を上げ、剣速が徐々に遅くなっている。初めから援護してくれている水龍は、さらにひと回り小さくなっている。
「オン・ビリチエイ・ソワカ。帰命(きみょう)(たてまつ)る。地霊掌中(ちれいしょうちゅう)遏悪完封(あつあくかんぷう)阻隔奪道(そがいだつどう)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」
 香苗の真言に、悪鬼を翻弄していた霊符代わりの擬人式神が光を放ち、重低音を立てて揺れていた地面から五本の土の柱が勢い良く伸びた。ぞうきんを絞るように悪鬼ごときゅっと縮み、太い土の柱が木々の間にそびえ立つ。
「ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン。帰命(きみょう)(たてまつ)る、邪気砕破(じゃきさいは)邪魂擺脱(じゃこんはいだつ)顕現覆滅(けんげんふくめつ)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」
 美琴の真言に呼応したのは、調伏の符号がしたためられた擬人式神。柱に張り付き、まばゆい光と共に柱を包み込む。
 香苗が準備していた擬人式神はこの二枚で最後だ。
 水龍に守られながら術を発動させた香苗が、背中を丸めて膝に両手をつき、全身で荒い息を繰り返す。髪はしっとり濡れ、汗が顎から滴り落ちた。悪鬼の数が今までの比ではないため、水龍がいても隙を狙われて避けなければならないし、後方支援でも術を発動させる回数は当然増える。これだけ連発すれば霊力ももう限界だ。
 光が引き、土の柱が一気に崩れ落ちた。
 宗史たちなら、樹たちなら、この状況をどう切り抜ける。今の自分たちの実力でできることは何だ。考えろ。と、
「きゃ……っ」
 香苗の悲鳴が聞こえて横目で見やると、結界のすぐ近くで尻もちをついていた。すぐ脇を触手が素通りし、結界にぶつかって消滅する。避けた拍子に体が付いて行かなかったらしい。体力も限界か。
「馬鹿……っ、早く立ちなさい!」
 水龍はどちらも悪鬼の相手で手一杯だ。意識を取られた隙に二の腕を掠め切られ、美琴は顔を歪めながらも触手を叩き切り、香苗の方へ足を滑らせる。これ以上は無理――そう思った矢先。
「な……っ」
 横目で見やった香苗を見て、一瞬思考が停止した。顔を狙った触手を避けたと思ったら反射的に手で掴み、向けられた先端をこれまた反射的にもう片方の手で掴んだ。本人も驚いた顔をしている。
 何してんのこの子、あれ掴めるのと思った直後、今度は自分が顔を狙われて、美琴ははっと我に返った。
「香苗、そのまま結界にぶつけて!」
「ははははいっ!」
 思考が停止した故の条件反射だろう。触手を叩き切りながら叫ぶと、香苗はかなりどもりながらも上半身を捻り、捕獲した悪鬼を結界目がけてぶん投げた。近くにいた悪鬼を数体巻き込み、結界に激突し消滅していく。
 千代に従っているとはいえ、悪鬼は基本的に本能で動く。素手で捕獲されたことに驚いているのか警戒心が働いたのか分からないが、悪鬼が動きを止めた。
 美琴と水龍は、悪鬼を注視したまま香苗の元まで下がった。
「あんた、何ともないの?」
「う、うん。大丈夫」
 香苗がまだ唖然とした様子で腰を上げながら頷いた。
 悪鬼が素手で掴めるなんて、そんなこと教わっていない。というより、誰も知らなかったのではないか。悪鬼を素手で掴もうなんて考える奴はいないだろうし、そもそも掴む必要がない。だが、よくよく考えれば不思議なことではないのだ。人に傷を負わせることができるのなら、触れられるということ。それに、展望台と向小島の事件。悪鬼は下平と榎本、そして大河を捕獲しているのだ。ならばこちらからも触れられて当然。何もおかしなことはない。
「香苗」
「は、はい」
 香苗は接近戦に向いていない。だが素手で触手を捕えられるのなら霊力の消費もないし、さっきのように触手同士が絡んでくれれば、数体をまとめて消せる。だが、掴んだ拍子に触手の軌道を変えられると避けようがない。
「直接悪鬼に触るって危険はあるけど、どうする?」
「やります」
 即答。美琴はわずかに口角を上げた。
「了解。気を付けて」
「はい」
 避けるだけなら、自分より香苗の方が慣れている。リスクはあるが、掴んで投げるという単純な動きが加わるだけだ。狭い場所を狙うわけでもない、面積の広い結界にぶつければいいだけのこと。巻き添えを警戒して、悪鬼の動きが鈍るかもしれない。
 偶然分かったもう一つの戦い方。霊刀の扱いに慣れておらず、腕も限界。これは助かる。
 巨大結界が発動するまであとどのくらいなのか、さっぱり見当が付かない。けれど、今ここで諦めるわけにはいかない。陰陽師として、勝つつもりでここに来たのだから。
 改めて、双方の間に一触即発の張り詰めた空気が流れる――と。
「――隗ッ!!」
 右近の怒声が木霊し、直後にこれまでとは比べ物にならないほどの衝撃音が響き渡った。
 今、なんて――。
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