第2話

文字数 5,698文字

 大掃除、終業式、ホームルームを終わらせ、十五名のクラスメートと共にファミレスで昼食を済ませ、カラオケに雪崩れ込んでから一時間が過ぎた。午後五時。
 流行りの歌から鉄板曲、昭和・平成の名曲やアニソンまで、多種多様な曲が次々と披露される。十五人もいれば予約曲が途切れることはなく、何となく入れそびれた大河は聞く側に回っていた。
「ねぇねぇ、刀倉くん」
 デンモクを手に声をかけてきたのは、クラスの中心的グループにいる女子の一人、松本加奈(まつもとかな)だ。校則違反になるため普段は外しているピアスを両耳に着け、長い髪は毛先に向かってふわりと広がっている。大河からしてみれば「イケてるグループの人」で、あまり話したことがない。だからと言って避けているわけでも、積極的に関わろうとも思わない。本当にただのクラスメートだ。
「何?」
 大河は少し横に移動して、加奈が座れる隙間を作った。そこへ腰を下ろした加奈は、大河の耳元で叫ぶように言った。
「刀倉くん、歌上手いよね。歌ってよ」
 体を離し、上目づかいで見上げてくる加奈を、大河は訝しげな視線で見下ろした。
 確かに歌うのは好きだ。幼い頃、影正にしょっちゅう島の老人会に連れていかれて、歌詞の意味も分からないまま演歌を延々と歌っていたことがある。それで鍛えられたのだろうが、上手いというよりは歌い慣れていると言った方が正しい。
「いや、上手くないけど……誰からそんなこと聞いたの」
 今度は大河が加奈の耳元で叫ぶようにして尋ねた。省吾が何か言ったのだろうか。
「刀倉くん、たまに教室で歌ってるでしょ。男子相手に」
 そう言われ、大河はああと頷いた。確かに、あの曲どんなんだっけ、という話しになった時などに歌ってはいるが。
「けど、それってCMの曲とかじゃん。ワンフレーズくらいだし」
「あたし、小さい頃からピアノやってて、結構音感良いんだよね。だから分かるよ」
「へぇ、意外」
「えー意外ってどういう意味よぉ」
「いやいや、深い意味はないんだけど」
 外見から想像できないとは言えない。
「で、何歌う?」
 歌が上手いと褒められて嫌な奴はいない。にっこりと笑顔でデンモクを渡され、大河は照れ笑いを浮かべてじゃあと受け取った。加奈も横から覗き込んでくる。距離が近い。邪魔だったのだろう、加奈がサイドの髪を耳にかけた。その仕草がやけに色っぽく見えて、大河は思わず視線を逸らした。
「ねぇ、何歌うの? それとも、リクエストしてもいい?」
 甘えるようにちらりと顔を見上げられ、大河はぐっと声を詰まらせた。
 普段からジジババと女子中学生くらいしか相手にしてないけどでもそうじゃない奴でもこの距離でこれはヤバいよな! と自分の不甲斐無さを速攻で擁護する。
「あ、うん。リクエストな、いいよ」
 平静を装い、しかし視線を逸らしたままデンモクを渡すと、加奈はやったと嬉しそうに受け取った。自分の膝の上に置いて操作を始めた加奈に、大河はばれないよう長く息を吐いた。
 部屋が薄暗くて助かった。きっと今、顔が真っ赤だ。
 呼吸困難になったように何度か深呼吸を繰り返していると、ふとテーブルの向かい席が視界に入った。
「うおぉ……」
 思わず低い声が喉の奥から絞り出た。
 広いテーブルの向かい側では、省吾を挟んで高倉と久本さんが座っている。マイクの音が大きくて会話の内容までは聞こえないが、雰囲気が何やら修羅場だ。そういえばファミレスの時から久本さんが省吾の回りをうろちょろしてたな、と今更ながら気付く。
 省吾はいつも通りに見えるが、高倉は何やら必死で久本さんに話しかけ、久本さんは高倉のことを体よくあしらいながら省吾の気を引こうと必死だ。
「面倒なことになってる……」
 そう大河が呟いた時、久本さんが笑いながら省吾の腕に自分の腕を絡ませ、さらに体を寄せた。それを見た高倉が、あからさまに唇を噛んだ――瞬間。
「……っ!」
 大河は息を詰まらせた。同時に、胃から上がってくる不快な感覚に胸を掴んだ。
「やば……」
 呟いて、腰を上げた。
「え、刀倉くんどこ行くの?」
 反射的に掴んだのであろう、加奈がスラックスを引っ張ったまま見上げてくる。そうだリクエストだ。だが今はそれどころではない。このままでは、吐く。
「ちょっとトイレ。すぐ戻ってくるから」
 悟られないように精一杯笑顔を浮かべて言ってやると、加奈は分かった絶対だよと手を離した。
 酒でも入っているのかと疑いたくなるような盛り上がりの中、大河は身を隠すようにして部屋から脱出した。そのままトイレへとダッシュする。
 先客が一人いたが気にしている余裕はない。大河は個室に駆け込んで乱暴に鍵をかけると、便器に顔を突っ込む勢いでしゃがみ込んだ。消化されていない物がせり上がり、全部吐き出される。水を流してはいたが、盛大に吐いたせいか、先客から心配そうに声をかけられた。
「おい、大丈夫か?」
「すいません、大丈夫です」
「その制服、高校生だろ? 酒飲んだのか?」
「いや、ちょっと空気に酔ったみたいで」
「あー、たまにいるんだよな。誰か呼んで、って、ああ友達? すげぇ吐いてたから、時々外の空気吸わせた方がいいぜ。じゃあ気を付けてな」
 先客が他の誰かと会話をしている様子に、大河は肩で息を整えると安堵の息をついた。こんな時、必ず来るのは決まっている。
「大河、大丈夫か?」
 聞き慣れた省吾の声がトイレに響く。大河は便器の蓋を閉めてゆっくりと立ち上がった。
「うん、まぁ何とか」
 口の中に広がる酸っぱさに自然と顔が歪む。個室から出て、洗面台で何度もうがいをした。その間、省吾は何も言わずにただ側で様子を見ていた。さすが幼馴染と言うべきか。間を分かってくれている。
 やっと気が済んでペーパータオルで手と口を拭くと、省吾がミネラルウォーターを差し出してきた。気が利きすぎだろ、と突っ込みながら有り難く受け取っておく。
 どちらが何を言うでもなく、二人は階段の方へと足を運んだ。廊下の一番端、しかも皆がいる大部屋とは逆の方向にあるため邪魔されないだろう。
 大河は勢いよく階段に座り込み、水を三分の一ほど飲み干すと、大きく息を吐いた。省吾が黙って隣に腰を下ろす。
 近くの部屋から微かに歌声が漏れ聞こえる。数年前に流行ったドラマの主題歌だ。しばらく二人でその歌声に耳を傾けていると、音が止んだ。
「……見たのか?」
 タイミングを見計らっていたのか、省吾が静かに尋ねた。
「うん……」
 アレの正体も、原因も分かっている。けれど、それを省吾に話していいものか。言いあぐねていると、省吾が溜め息交じりに言った。
「高倉だろ」
「……うん」
 自分の体質を知っている省吾に隠し事はできない。大河は素直に頷いた。
「多分、お前に向けてだと思う。久本さんがお前にくっついた瞬間だったから」
「そうか……悪かったな」
「別にお前が悪いわけじゃないだろ」
「いや、はっきり言わなかった俺に責任がある」
「え、何、告られたの?」
「まさか。言い訳するなら、告られてないから余計はっきり拒否れなかったってのもある。勘違いってこともあるし」
「えー……あそこまで迫られて勘違いって無くない?」
「可能性はゼロじゃないだろ」
「それはまぁ……そういや、高倉は久本さんに告ってんの?」
「聞いたことないな」
「……何だよ、それ」
 要するに、久本さんは省吾に気持ちを伝えないまま迫り、高倉は久本さんに伝えないまま省吾に嫉妬心を抱いていた、ということだ。スタート地点にも立っていないのに、好意と悪意を同時に向けられる省吾が不憫だし、当てられるこっちの身にもなって欲しい。
「マジ勘弁しろよ……」
 思わず本音を漏らした大河に、省吾が苦笑いを浮かべる。
「そういえば、お前お守り持ってないのか?」
「持ってる」
「珍しいな。それ持ち始めてから、症状治まってたろ」
「そうなんだよな。間近で見たからかな。密室だったし」
「ああ、なるほどな」
 大河は、スラックスの後ろポケットからお守りを引っ張り出した。すっかりくたびれた紫の布地に、金色の糸で「厄除け」と刺繍されている。
 症状が出たのは三歳頃だったと聞いているが、自覚したのは小学校に上がる前だった。
 かろうじて記憶に残っているのは、白く光る丸い玉だ。ふわふわとシャボン玉のように浮かんでは消える。消えたと思ったらまた現れる。その物体を、幼い大河は楽しそうに追い駆け回していた。影正が、白い玉の正体を教えてくれた。
『あれは人魂と言って、亡くなった人の想いなんだ。亡くなった人が家族や大切な人を見守ってるんだから、むやみに追い駆け回して驚かしては駄目だ』
 大河は素直に納得したが、悪霊も混じっていると知ったのは、もう少し後だ。
 小学校に上がり、向島や本土へと行動範囲が広がると、人魂と違うものを「見る」ようになった。そして「見た」後は、必ず吐いた。
『黒い煙みたいなのが田中先生から出てて、低い声で泣いてた。嘘じゃないよ!』
 必死に訴えても信じてもらえず、どこか異常があるのではと疑われたこともあった。同級生からも嘘つきと罵られ、大河は人魂のことも「黒い煙」のことも口にしなくなった。唯一信じてくれたのは、家族と幼馴染の省吾。のちに知った風子とヒナキだけだった。
 向島に渡るたびに体調を崩す大河に、影正はお守りを渡した。
『大河、よく聞きなさい。あれは、人魂とは違うものだ。人の負の感情、つまり、悲しいとか辛いとか……憎いとか。人はな、誰でも負の感情を持っているものだ。お前も、泳げなくて悔しいって、泣いたことがあっただろう。皆は泳げるのにって。でも、頑張って練習して泳げるようになっただろう。人は誰でも負の感情を持ってるけど、例えばおいしいご飯を食べるとか、友達と遊ぶとか、お前みたいに頑張ってできるようになるとか、楽しいことをして負の感情をコントロールしながら生きてるんだ。でも、時々それが下手な人がいる。上手くコントロールできなくて、心の中にいっぱい溜め込んで、大きく大きく膨らんだ時、真っ黒な煙みたいになって噴き出すんだ。お前はそれを感じやすい体質なんだよ。だからこのお守りを、何があっても肌身離さず持ち歩け。いいな』
 まだ小学生の大河には少々難しい話で、半分も理解できなかった。だが、そうお守りを渡されてから、人魂も「黒い煙」も見る回数は激減し、例え見ても体調を崩すことは無くなった。中学の頃、反抗期から手放した時期があったが、失神するほど当てられ、影正にこっぴどく叱られた。それ以降、肌身離さず持ち歩いている。
 人の負の感情が見える上に影響を受けやすい、それが、大河が島に留まる事を選択した最大の理由だ。人が少なく、皆穏やかな向小島が、一番安心できる。
 それにしても、と大河は携帯をいじる省吾を横目で盗み見する。
 高倉の体から噴き出た黒い煙は、これまで見た中でも一番大きかった。つまり、あの大きさの分だけ、省吾に嫉妬なり敵意なりを抱いているという証拠だ。黒い煙は見えなくても、おそらく省吾は気付いていただろう。しかし、あのでかい負の感情を向けられながら、涼しい顔をして知らんふりを決め込むあたりは、さすがだ。
 そもそも、あれだけ人を嫉妬させることができるというのがもう才能なんじゃないかと思う。俺は好意も嫉妬も向けられないけどね! と自虐的な突っ込みをして落ち込んだ。
「大河? おい、大丈夫か?」
 膝に顔をうずめて悲壮感を漂わせている大河に、省吾が優しく声をかける。
「先に帰るか。伊藤のおじさんに連絡して、早めに来てもらえば……」
「あー、大丈夫大丈夫」
 携帯の電話帳を開いた省吾に、大河は慌てて顔を上げた。
「もう大丈夫だから」
「でもお前、また当てられるかもしれないだろ」
「う……や、でもここで帰ったら白けるじゃん。それにもう高倉も落ち着いたかもしれないし。もし駄目だったら帰るってことで、いいかな?」
 島へ帰るにはどうしても二人一緒になる。伊藤のおじさんにそう伝えてあるし、一人一人帰れば二度手間だ。迷惑がかかるし、心配もされる。
 申し訳なさそうに尋ねると、省吾は笑って大河の肩を叩いた。
「分かった。でも、無理するなよ。さすがにお前を抱えて港まで行けないからな」
「分かってるよ」
「んじゃ、そろそろ戻るか」
 言いながら立ち上がり、背伸びをする省吾の背中を見上げながら、ふと口からついて出た。
「いつも悪いな、省吾。ありがと」
 小さく呟くように言うと、省吾が背伸びをした格好のままゆっくりと振り向いた。
「……何だよ、その顔」
 見るからに訝しげな視線に、大河はむっと口を尖らせた。何でそんな疑われるような目で見られるんだ。
「今更だろ。気持ち悪いからやめろよ」
「はぁ!? 気持ち悪いってお前、人がせっかく礼言ってんの、にっ」
 語尾に合わせてローキックをお見舞いしたが、華麗に避けられた。くっそ、とぼやくと省吾が声を上げて笑った。
「それだけ元気なら大丈夫だな。ほら、戻るぞ。松本さんがお待ちかねだ」
「あっ! やっべ忘れてた。リクエスト歌う約束してたんだ」
 階段から飛ぶように立ち上がると、先に行く省吾の隣に並んだ。
「遅い春が来たねぇ、大河くん」
「え? 春って何が」
「……うん、いや。お前はそのままでいいよ」
「何だよそれ」
 何でもない、と言って手を振る省吾に大河が食い下がる。憐みの表情が浮かんでいたのは気のせいか。
 結局、戻りが遅いという理由で三曲立て続けに歌わされ、しかもその内の一曲は省吾とのデュエット曲だった。高倉の負の感情よりこっちのがきついわ! と心で毒づきながらも、甘い恋の歌を全力で歌い切ってやった。
 そして、二人が席を外している間に何かあったのか、高倉の黒い煙は鳴りを潜めていた。

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