第1話

文字数 3,342文字

「……何でこんなとこで寝てんの?」
 大河は居間で一人、グラス片手に首を傾げた。
 枕が変わると眠れないというわけではないが、やはり使い慣れた枕は落ち着く。
 といっても、疲れていたのか。アラームを止めた記憶がない携帯は、六時を表示していた。早起きをする必要はないが、せっかくの帰郷だ。ひとっ走りしてくるかと、大河は寝癖のついた髪のままひとまず部屋を出た。台所で昨日の残りのスポーツドリンクを喉に流し込み、ふと、可愛らしいいたずら心が顔を出した。
 昨日の二の舞はごめんだ。ちょっと覗くだけ、と居間の襖を開けたとたん見えたおかしな光景に、まだ寝ぼけてるのかなと自分を疑った。
 不思議に思いつつテーブルの向こう側へ首を伸ばしながら近寄ると、やはりいた。気持ち良さそうに大の字で眠る晴が。しかも枕付き。目の前の状況がさっぱり理解できないまま、冒頭の台詞である。
 まあ一旦落ち着け、俺。謎解きの練習だ。そう自分に言い聞かせ、大河は唇に手を添えて思案した。
 続きの間の襖は閉まっている。枕もちゃんとある。となると、寝相が悪くてはみ出したのではなく、寝ぼけて部屋を出たと考える方が妥当だ。枕を抱えて。あるいは、何かやらかして追い出されたか。
「罰ゲーム……?」
 有り得そうだ。四人で何をしたのだろう。まさかトランプではあるまい。
 それはともかく、エアコンは入っている。影唯たちの部屋の扉は開いていたから、不思議に思いつつ気を使ったのだろう。寒くないのかとは思うが、余計なことをしてあとで宗史たちに小言を言われるのは嫌なので、放置することにした。
 大河は身を翻し、グラスをシンクに置いて洗面所へ向かう。
 小窓からは太陽の光が差し込み、蝉の声が届く。いつでもどこでも蝉は元気だ。顔を洗っていると、柴と紫苑が入ってきた。
「あ、おはよー」
「おはよう」
 タオルを口元に当て、鏡越しに目だけを覗かせると、すっかり慣れた挨拶が返ってきた。いただきますもごちそうさまも、あれから一緒にするようになった。今の時代の習慣に合わせてくれているのが分かる。
「あのさぁ」
 タオルここね、と洗面台の隣の棚を指差して、大河は歯磨き粉をつける二人を見やった。初めは怪訝な顔をしていたのに、こちらもすっかり慣れた様子だ。二人が手を止めて大河を見下ろす。
「晴さん、何であんなとこで寝てんの?」
 問うや否や、眉間に皺を寄せたのは紫苑だ。思わず首が傾く。聞いてはいけなかっただろうか。もしや喧嘩したとか。などと不安に思っていると、紫苑がぼそりと言った。
「……うるさかったのだ」
「え?」
 大河がさらに首を傾げると、紫苑は目を据わらせて付け加えた。
「いびきが、うるさかったのだ」
「あー」
 そっちか。推理は当たらずとも遠からずだ。大河は短く笑った。昼寝をした時はそんなことなかったが、疲れていたせいもあるのだろう。
「いっそ精気を吸って大人しくさせようかと思ったのだが、柴主がお止めになるのでな。転がして追い出した」
 違う意味で大人しくなりそうだ。しかも、柴が、止めたのか。柴だけが。さすがに笑えない。そっか、と呟いて複雑な顔をする大河を横目に、紫苑は歯ブラシを口に突っ込んだ。
 そのあと、宗史がまだ寝ているから部屋を貸して欲しいというので、自室で一緒に着替えを済ませた。農家の朝は早い。昨日の後始末をしていた影唯や雪子、鈴の手伝いをしに、柴と紫苑は畑へ、大河はランニングへ出た。
 半月ぶりのコースだ。
 豊かな緑は、太陽の強い光を受けて眩しいほどに輝いている。ゆったりと雲が流れる澄んだ空の下、早くから畑仕事に勤しむ人々。シルバーカーを押す散歩中のおばあさん。犬の散歩をする小学生の兄弟。集会所の広場ではラジオ体操が行われていた。昨夜あんなことがあったとは思えないほど、のどかな風景だ。
 大河は足を止め、息を整えながら広場の中央に組まれた櫓を眺めた。夏祭りの準備は着々と進んでいるようだ。
 昔は木製の櫓だったが、何年か前にアルミ製のものに買い替えられた。劣化による耐久性の問題と、木製は重く設営が大変だからという理由だ。味気ないという声もあったが、何せ中高年ばかりだ。怪我や事故があってからでは遅い。
 土台の回りを赤と白の幕が覆い、四つ隅からは提灯がずらりとぶら下がったコードが伸び、祭り当日は小さいけれど和太鼓も設置される。屋台と言えるほどのものは出せないけれど、かき氷と焼きそば、カレーは自治会で用意され、さらに個人でも酒やつまみ、お菓子を持ち合う。
 櫓を中心にレジャーシートを広げ、酒や踊りに興じる大人たち。あちこちからもらったお菓子を手に歓声を上げる子供たち。暗闇に提灯の赤い光が浮かび上がり、太鼓の音や笑い声は高く高く夜空に鳴り響く。まるで、故人の帰省を喜ぶように。
 幼い頃は、ヒナキの祖母の手作りおはぎに舌鼓を打ち、あちこち走り回っては疲れ果て、集会所で眠りに落ちた。中学生になってからは、走り回って寝落ちするなんてことがなくなった代わりに、小さい子供たちの面倒を見るようになった。寝落ちした子供たちを背負って親の元へ送り届け、俺たちもあんなだったよななんて、生意気なことを言っては笑い合った。
 夏祭りで行われる盆踊りは、先祖の供養や精霊を迎えるための行事だと、影正が言っていた。幼い頃は、親公認で省吾たちと遅くまで遊べてお菓子がたくさんもらえる日、くらいにしか思っていなかった。だが今は、すっかり見方が変わってしまった。
 島の神様に感謝し、毎年欠かさず行われる夏祭り。受け継がれてきた伝統や思いが影唯たちを救ってくれたのだと思うと、先人たちに感謝してもしきれない。
 もし京都へ行っていなければ、きっとこんなふうには思わなかった。
 けれど今年は。
「さすがに無理だなぁ……」
 胸に微かな哀愁が去来した。
 いつもと違う場所、いつもと違う顔ぶれで、今年はその日を迎える。
「あら、大河くーん」
 ラジオ体操の集団から、一人の中年女性が声を張ってひらりと手を振った。昨日の熟女軍団の一人だ。
「おはようございます」
「おはよう。イケメンさんたち一緒じゃないのー?」
 大河は色めきだった歓声に苦笑した。目的はそれか。
「まだ寝てる」
 答えたとたん、今度は落胆の声がそこここから上がる。残念、見たかったのにー。すっかり噂になっている。洞窟へ行くには漁港まで下りなければいけないが、大丈夫だろうか。
 あれこれ聞かれると説明に困る。大河は少しの不安を胸に、じゃあランニングの途中だからと会釈をして、その場から走り去った。
 途中の脇道で、速度を落とす。ヒナキの自宅へ続く道だ。気になるけれど、さすがにこんな時間に尋ねれば、何かあったのかとヒナキの親に心配される。
 大河は眉尻を下げ、結局通り過ぎた。
 ランニングを終えて帰ると、畑では柴と紫苑がせっせとコンテナを車に積んでおり、雪子と鈴は朝食の支度をしていた。シャワーを浴びる前に気付いた携帯の着信は、紺野と下平からのメッセージだった。昨日はお疲れ、気を付けて帰ってこいよとあっさりしたものだったけれど、犬のスタンプは親指を立て、ペンギンは小躍りしていた。
 そして、シャワーを浴びて覗いた居間では、晴が寝ぼけ顔で視線を巡らせていた。
「俺、何でこんなとこで寝てんの……?」
 転がされたことはどうやら覚えていないようだ。でも多分教えない方がいい。
「寝ぼけてたんじゃない?」
「んー、そんなに寝相悪くねぇはずだけどなぁ」
 悪いのは寝相じゃなくていびきです。頭を掻きながら不思議そうにぼやく晴の声を背中で聞き、大河は素知らぬ顔で台所へ入った。
「宗史さん、起きた?」
 卵焼きに包丁を入れている鈴に聞く。
「いや。まだ寝ている」
「起しちゃ駄目よ、大河。体調良くないんでしょ? 時間はあるんだし、寝かしておいてあげなさい」
「うん、分かってる」
 昨日の今日で敵の再来はないだろうが、午後の暑い時間帯に出掛けなければならない。時間がある時に体力を回復させておくのも大切だ。
 今朝の朝食は、少し静かな時間となった。
 朝食後、影唯と雪子は産直店へ野菜を出荷するために出掛け、大河たちで朝食の後片付けをした。助かるわー、と笑った雪子は上機嫌だった。
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