第14話

文字数 3,698文字

           *・・・*・・・*

 父は医者で、母は専業主婦。菊池雅臣は、裕福な家庭で育った。
一人っ子のため父の期待は雅臣に注がれ、しかし決して重圧でも重荷でもなく、むしろ自慢だった。だからこそ、その期待に応えるべく日々努力を惜しまないのは当然のことで、父もそれを自慢に思ってくれていた。
 父と同じ医者になることが幼い頃からの夢であり、目標だった。
 学校の規則も社会の法律もマナーもきちんと守り、年配者には親切に、人には優しくあれと、どこまでも真面目で、かつ人として大人として尊敬できる両親の教えに疑問を持つことも背くこともなく、彼は健全な少年に成長した。
 まだ新入生や新社会人、新生活と言った言葉が溢れ返る四月。高校二年生という、学校にも慣れ、しかし本格的に先を見据えるにはまだ少々余裕のある立場にいた。
 だが、医者という目標を持つ雅臣にとって、余裕に構えている暇などない。息抜きで友人らと外出はするものの、学校の勉強と塾通いの毎日だった。
 ただ、密かな思いを除いては。
「菊池くん」
 午後十時過ぎ。塾の前で信号待ちをしていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、同じクラスで同じ塾に通う松井桃子が立っていた。学校で話すことはほぼないが、塾では同じ授業を受講していることもあって、時折言葉を交わす程度の間柄だ。
「お疲れ様。駅まで一緒してもいい?」
「あ、うん」
 ありがと、とにこやかに笑いながら桃子は隣に並んだ。
 桃子は、制服を着ていなければ中学生と間違われそうなほど童顔で小柄だ。身長が176センチの雅臣から、150センチあるかないかくらいの桃子の声は少々聞き取り辛い。それを分かっているのか、桃子は顔を上げて雅臣を見上げる姿勢でいつも話しかけてくる。彼女は、そんな小さな気遣いに気付いた時から気になっている女の子だ。
 子供の頃から医者を目指し勉強ばかりしていたせいか、ファッションや異性や流行り物に特別興味もなく、それゆえに見た目も地味で、女子との会話も皆無と言っていい。制服も規定通りで着崩すことはない。髪型もはっきり言って野暮ったい。だからといって美容院で髪質を生かしたカットをしてもらうでもなく、ドライヤーや整髪料を駆使して毎朝セットするわけでもなく、洗いざらしのままだ。
 また桃子の方も大人しく、クラスでも真面目で地味なグループに所属している。背中まで伸びた髪を黒ゴムで一つに結び、眼鏡をかけ、制服はスカート丈も規定通りでリボンもきちんと付けている。確かにぱっとしないけれど、肌は真っ白で、黒髪は艶があって綺麗だ。無駄に制服をいじり倒し、メイクがどうのブランドがどうの彼氏がどうのと、かしましく話す女子たちよりもよほど好印象で、好感が持てる。
 横断歩道を渡り、駅への道を並んで歩く。ふと、春の新規契約キャンペーンの宣伝チラシや特典の雑貨が飾られた、銀行のショーウインドウに映った自分の姿が目に入った。
 地味だなぁ。
「菊池くんは、K大志望だったよね」
 不意に話しかけられ、雅臣は慌てて桃子を振り向いた。
「あ、うんそう」
 ばっちり目が合い、二人同時に視線を逸らす。
「えっと……」
 女子との会話に慣れていないせいで、こんな時咄嗟に話題が出てこない。もごもごと口ごもっていると、桃子の方から再び話を振ってきた。
「菊池くん、医学部志望なんだよね。すごいねぇ。お父さんがお医者様だっけ。やっぱりお父さんの影響?」
「あ、うんそう。子供の頃から夢で」
 へぇ、と視界の端で桃子が振り向いて見上げてきた。また目が合うのが恥ずかしくて、俯いたままちらちらと横目で見つつ答える。
「じゃあ、夢に向かって頑張ってるんだ」
「うん、まあ。あっ、松井さんは? どこの大学?」
「あたしはR大の文学部。歴史学科の日本史学専攻。日本史大好きなの」
「もしかして、歴女ってやつ?」
「うん」
 桃子は肩を竦めてはにかむように笑った。可愛い。
 もっと話がしたいと思うのに、また会話が途切れた。世の男性はこんな時どうしているのだろう。少し、その手の勉強も必要かもしれない。
 見た目も地味で、恋愛に関してはまったく無知。特別のめり込むような趣味もないが、あえて言うなら読書と映画鑑賞。会話が上手いわけでもないし、だからと言って聞き上手というわけでもない。女性からすれば、つまらない男の部類に入るのだろう。
 無言のまま左へと曲がり、アーケード街に入る。
「あたしね」
 また、桃子から話題を振ってくれた。
「図書館か博物館で働いてみたいの」
「へぇ」
 そうなんだ、松井さんのイメージに合ってるな。と自分の中で納得したのがよくなかった。一瞬、そこで会話が終わったのかと思うような間が開いて、桃子が慌てた様子で続けた。
「あっ、ほら、図書館は本がいっぱいあるでしょ? あたし本好きだし歴史に関わる本、いっぱい読みたいから。博物館はね、歴史に関わる仕事がしたいと、思って……」
 尻すぼみに言い終え、桃子は前を向いて俯いた。それを見て、やっと失敗に気が付いた。まずい何か言わなければと、焦れば焦るほど言葉は出てこない。
「じゃあっ」
「えっ」
 さっき思ったことを口にしようとした時、桃子が足を止めて体ごと振り向いた。
「あたし、JRだから。菊池くん地下鉄だよね」
「あ、うん」
 桃子が足を止めた場所は、ちょうど隣り合うJRと地下鉄への入口の前だった。
「じゃあ、気を付けてね」
「う、うん。じゃあ」
 桃子はひらりと手を振り、背を向けた。
 長い髪を揺らしながら入口へと消えていく背中をぼんやりと見つめ、雅臣は小さく息を吐いた。
 失敗だ。どう考えても失敗だ。初めの方はそれなりに返していたのに、意識すればするほど何も出ない。話題を桃子にばかり作らせて、自分はただそれに答えるだけ。いや、まともに答えることさえできなかった。その上、興味がなさそうなそっけない返事。え、あ、うん、しか言っていない気がする。挙げ句、別れ際に彼女を気遣うような言葉一つ出なかった。情けない。
 雅臣は大きく溜め息をつき、地下鉄へ下りる入口へ向かって足を進めた。と。
「あれ、菊池じゃね?」
 名を呼ばれ、思わず足を止めて振り向いた。今どきのお洒落な格好をした四人組の男が、大手雑貨店のビニール袋を提げ、へらへらと笑いながらこちらに向かっている。そのうちの二人は見覚えがあり、思わず顔が強張った。学校でも素行が悪いと有名な、本山涼と中川大介だ。特に本山は質が悪く、雅臣も標的にされていた時期がある。あとの二人は見たことがない。
「誰?」
「一年の時同じクラスだった奴」
「ふーん……」
 タメ口なら同じ年だろうか。別の学校かもしれない。二人の男たちは目の前で足を止め、雅臣を品定めするように視線を動かした。
「いかにも優等生って感じだな。地味? つかダセェ」
 いかにも馬鹿にした風な口調で言った男に、全員がげらげらと笑い声を上げた。響く笑い声に通行人がちらちらとこちらを見やる。
 こんなことは慣れている。一年の時に同じクラスだった本山と中川は、一体何が気に入らなかったのか、何かにつけて「ダサい」だの「うざい」だの「キモイ」だのと難癖を付けてきていた。この手のタイプは、反応すると調子に乗る。無視するのが一番だ。
 雅臣は無言のまま再度足を進めた。
「おい、ちょっと待てって」
 肩を掴まれて無理矢理引き止められた。
「こいつの親、医者なんだよな」
「マジで? なんだ、金持ちかよ」
 確かに医者の年収は一般に比べて高い。だが、勤務医か開業医かで違いは出るし、診療科によっても違う。そもそも、人の命を預かるのだからそれだけ責任も重いし、医者になる以前の努力や、なってからも最新医療についての勉強を続けなければならない。父の書斎には資料や書籍で埋め尽くされていて、夜遅くまで読み耽っている背中を何度も目にした。なったら終わりの職業ではない。
 ワリに合わないという意見もあるが、責任と努力の結果が年収に繋がっているのだ。それを軽い気持ちで金持ちなどと口にされると癇に障る。
「金あんならもっと見た目に金かけろよ。宝の持ち腐れじゃねぇか」
 言いながら髪を乱暴に掻き回された。金があるなら外見に使えという理屈が分からない。
「なぁ、どうせなら俺らが使ってやろうか」
「おー、いいねそれ、っと」
 何故、父が一生懸命働いて稼いでくれた金をお前たちに使わせてやらなければならない。意味が分からない。どういう思考回路をしているのだろう。
 雅臣は腕を振って掴まれた手を振り払い、地下鉄への入り口へと駆け込んで階段を下りた。そのまま通路を抜けて定期券で改札を通り、さらに地下への階段を駆け下りた。ホームに停車していた電車に飛び乗る。
 運動はあまり得意ではない。雅臣が乗り込むと、すぐに扉が閉まった。扉に体を預け、肩で息を整える。
 何で、あんな――。
 ふと浮かんだ思いに、雅臣は頭を振った。そんなこと考えては駄目だ。人には色々事情があって、生き方がある。それを否定するような考えは、駄目だ。
 何かが胸に詰まったような息苦しさを覚え、きつく唇を結んだ。
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