第2話

文字数 14,682文字

 翌日、午前九時過ぎ。
「要するに、被害者は殺される理由がないってことですよね」
 北原がハンドルを切りながら言った。
「そうなるな」
 紺野は眉根を寄せてぼそりと答えた。
 昨日、あれから夕方まで聞き込みを行ったが、有力な情報は得られなかった。
 鬼代神社は小規模ではあるがその歴史は古く、平安時代から続く由緒ある神社らしい。
聞き込みをした年配女性の話しでは、かつてこの周辺にあった村は、数年間雨が降らず酷い干ばつに見舞われたそうだ。村人たちは祠を建て、雨乞いの儀式を十日間続けた。すると雨が降り、干上がった田畑は潤い、村は栄えた。それから村人たちはその祠を大切に守り続けたという逸話が残されており、その祠が今の鬼代神社の前身だと言われているらしい。
 祠を祀るにあたり、当時村で一番信仰深かった家の娘が巫女を務めたことがきっかけで、現代まで代々途切れることなく守り続けてきたのが、矢崎家らしい。
 その矢崎家の子孫であり被害者の矢崎徹は京都で生まれ育ち、地元の高校を卒業後、東京の大学に進学。卒業後京都へ戻り、五年間別の神社に奉職したのち、実家で当時宮司を務めていた父親と共に鬼代神社を守ってきた。実家に戻って三年後、現在の妻と結婚。一人娘をもうけ、今に至る。
 怨恨、痴情、金銭がらみを中心に近所の住民から話を聞いたが、口をそろえて被害者のことを褒め、誰一人として彼を悪く言う者はおらず、誰かと揉めていたこともない。家族の様子をそれとなく聞いてみても、とても仲が良く喧嘩した話や愚痴を聞いたことがないと言う。どんな人間でも一つや二つは触れられたくない秘密があるものだと思っていただけに、半ば意地で聞き込みを続けたが、結局どこをつついても塵ひとつ落ちなかった。
 少々落胆気味に本部が立てられた右京警察署に赴くと、さっそく鑑識と司法解剖の鑑定結果が届いていた。
 残されていた足跡は遺体の側の数個だけで、森の中まで丹念に調べ上げたが、人が足を踏み入れた痕跡すら見当たらなかった。量産品の男性用スニーカーで、大きさは二十七センチ。足の大きさは身長と比例しないため正確な割り出しができないが、おそらく百七十センチ以上とのことだ。
 防犯カメラは境内に設置されておらず、もちろん森の中も無かった。森に入るまでの経路や店、個人宅のカメラを広範囲で調べたが不審人物は発見されず、夜中の犯行だったために目撃者も出なかった。
 指紋は破壊された神棚の残骸と、神棚の後ろの穴の周辺からいくつも採取された。前科者の該当は無し。屋根の残骸やその周辺からは採取されなかった。
 そして遺体についた体中の傷跡は、残骸と照合した結果、神棚の残骸に突っ込んだため付いたものだと断定。心臓については、傷跡を細かく検査した結果、骨や血管の切り口が雑で、道具を使用した痕跡は一切見当たらなかったらしい。つまり、素手で心臓を抉り出したということになる。近藤の理屈が覆された。
 紺野は、近藤の気味の悪い笑みが脳裏に浮かび、頭を振った。あれは悪夢だ、ホラーだ。
 めぼしい情報が無い中、ただ一つ、気になる点が出てきた。
 金銭がらみで捜査していた捜査員の中に、神社の経営に疑問を持った者がいて、妻に尋ねたらしい。
 神社の主な収入は、賽銭、お守り、神札、祈祷料だ。しかしそれらの単価は決して高いものではない。家族を養いながら神社を経営、維持するのは難しい。ゆえに、兼業している神職が多いと聞く。ましてや鬼代神社は、あまり名が知れていない小規模神社だ。しかし矢崎家では、娘は週三日のアルバイトをしているが、矢崎本人と妻は神社以外の仕事をしていた形跡はない。ではどうやって家族を養い、神社を維持していたのか。
 そう妻に尋ねたところ、ある人から毎月百万もの入金があったと証言が取れた。妻が見せた銀行の預金通帳には、一人の男の名が記帳されていた。
 その男の名は、矢崎徹の携帯電話の電話帳データと通話履歴にも残されていた。
土御門明(つちみかどあきら)、か」
 京都の土御門家と聞いて一番初めに思い浮かぶのが、陰陽師・安倍晴明だ。諸説あるが、晴明の十四代目の子孫、有世の時代から土御門を名乗るようになったと言われている。そこから脈々と続き、現在は土御門明という男が当主を務めているらしい。
 土御門明は現在二十八歳。父・栄晴(えいせい)、母・佳澄(かすみ)の長男であり、下に(せい)(はる)の二人の弟を持つ。母は十四年前に病死。先代である父も六年前に事故死している。
 矢崎徹の妻は、神社の手伝いはするが経営自体に関わることはなかったらしく、関係者だという以外は詳しく知らないらしい。
「怪しさ満載ですねぇ」
「だな」
「陰陽師とかも嘘臭いし。歴史の授業で習いはしましたけど、今どきそんなこと言われてもって感じですよねぇ」
「捜査員全員、同じこと思っただろうな」
「ですよねぇ」
 北原は苦笑を浮かべ、再度ハンドルを切った。
 噂で、現代の科学では証明できない現象で迷宮入りした事件がいくつもある、と聞いたことがある。けれど、史実として文献が残っているとはいえ、今の時代に陰陽師だの幽霊だのと言われても胡散臭さが先に立つ。しかし遺留品や被害者周辺から犯人につながる手掛かりが出ない今の状況で、唯一浮上した人物だ。怪しかろうが胡散臭かろうが、話を聞かなければこの事件は確実に迷宮入りだ。
「この辺りなんですけどねぇ……」
 屋根が乗った真っ白な漆喰の高い壁が続く道を徐行しながらぼやく北原に、紺野は眉を寄せた。
「お前、まさか迷ったんじゃねぇだろうな」
「まさか。市内の地図くらいそれなりに頭に入ってます。あ、ありましたよ、土御門家……って、もしかしてこれ全部敷地!?」
 北原は、さしかかった数寄屋門の袖壁の表札を確認し、声を上げながら車を停車させた。フロントガラスから見える先が見えない漆喰の壁を呆然と見つめ、ぽかんと口を開けたままの顔を紺野に向けた。
「あー、まあ、さすがにこの規模は圧倒されるな」
 平静を装ってはいるが、紺野もさすがに驚いた。
 古い家や新しい戸建てが混在するありふれた住宅街の中で、延々と続く壁の向こう側は一般人の住居だと言われれば、誰でも驚く。正直、こんな所に施設なんかあったか? と思っていたところだったから余計だ。
 重厚な趣ある数寄屋門は車が余裕で二台は通れそうなほどの広さがあり、袖壁には通用口が設置されている。おそらくこの門の向こう側には立派な日本家屋がどんと建っているのだろう。
「陰陽師って、そんなに儲かるんですかねぇ」
 ついさっきまで胡散臭い発言をしていたことも忘れ、そんな疑問を口にする北原の気持ちは分からないでもない。まさかここまでとは想像していなかった。
 とは言え、いつまでもお宅拝見をしている場合ではないのだ。紺野は行くぞと北原を促し、ドアハンドルに手をかけた。すると、迎門の門扉がゆっくりと開き、一台の真っ黒な車が顔を見せた。
「あ、ここ邪魔ですね」
 我に返った北原が、門前に停車させていたことに気付き少し前進させる。通用門から白いエプロンをかけた中年女性が出てきて道路を左右確認し、車に向かって手を差し出した。車はそれを合図にゆっくりと進み、女性は恭しくお辞儀をした。
 この道路は一方通行だ。紺野たちの車の横を、その車が通り過ぎる。ぴかぴかに磨き上げられた真っ黒な車の後部ガラスは、標準装備のプライバシーガラスのみで、フィルムが貼られていない。そのおかげで、後部座席に座る人物の顔がうっすらとだが確認できた。
「あれは……共生党の小山田じゃねぇか」
「え? 小山田って、党首のですか?」
「ああ、あのでっけぇ団子鼻は間違いねぇよ」
「政治家が何でこんなところに……」
「……陰陽師と政治家か」
 単に個人的な付き合いなのかもしれない。先入観を持って詮索するなと、熊田から厳しく教育された。しかし、それでも自称陰陽師と政治家が繋がりを持っているのは、どうしてもきな臭さを感じる。
 紺野は不信感を抱きつつ、ドアハンドルに再度手をかけた。すると、ひょいと窓の外から人の顔がのぞいた。びくりと体を震わせて思わず凝視する。小山田を見送っていた中年女性だ。
 ほっと息を吐いてドアを開けると、女性が穏やかな声色で問いかけた。
「何か御用でしょうか?」
 そう尋ねられ、紺野と北原は車から降り、警察手帳を内ポケットから出して名乗った。
「京都府警の紺野です」
「北原です」
「お忙しいところ申し訳ないのですが、昨日起きた鬼代神社の事件のことでお尋ねしたいことがあって参りました。土御門明さんはご在宅でしょうか?」
 彼はあくまでも参考人なのだ。ここは低姿勢でお行儀よくしておくのが得策だ。紺野は頬の筋肉が引き攣るのを堪え、笑みを浮かべて尋ねた。すると女性は、笑みを湛えたまま言った。見るからに作り笑いだ。警戒されている。
「警察の方ですか。お車はそちらに停めたままで結構です。どうぞ、こちらへ」
 言うや否や、女性はさっさと通用口へと向かう。警戒されていると思っていたのに驚くほど簡単に通され、呆気に取られた。
「どうされました? どうぞ」
 立ち尽くしていた二人は我に返り、あわてて女性の後を追って通用口をくぐった。くぐって――思わず息が止まった。
「……っ」
 正直、もっと陰鬱な場所を想像していた。路地裏で見る怪しげな占い館のような、薄暗く、湿気た場所。それなのに、門をくぐった瞬間、夏とは思えないくらい穏やかで爽やかな風が吹き抜け、ぼやけていた風景が一気に鮮やかに色付いた、そんな感覚を覚えた。
「紺野さん?」
 一瞬足を止めた紺野に、北原が不思議そうに振り向いて声をかけた。
「あ、いや、何でもねぇ」
 紺野は謎の感覚を振り払うように軽く頭を振った。北原はどうもなさそうだ。俺だけか、と怪訝な顔をして辺りを見渡す。
 玄関まで敷き詰められた敷石の右手の広いスペースは駐車スペースになっているようで、今も一台、車が停まっている。左手は綺麗に刈りそろえられた青々とした芝生と、形良く整えられた庭木が縁側に沿ってぐるりと奥に続いている。そして正面には、立派な平屋の日本家屋が建っている。土地柄見慣れてはいるが、それでも一般住宅でこの規模はめったに見ない。住宅と言うよりは屋敷だ。しかも、右隣にもう一軒、こちらは二階建ての住宅が建っている。正面のものよりは小さめだが、一般住宅サイズと比べると十分すぎるほど大きい。
「すごいですね」
 こそっと北原が囁いた。未知の世界をのぞく子供のようにうきうきとした顔をしているのは、気のせいだろうか。
「仕事だってこと忘れんなよ」
 一応釘は刺しておく。だが、分かってますよぉ、と間延びした口調は不安だ。
 女性は玄関の引き戸を開け、二人を中へ促した。たたきに沓脱ぎ石、式台、上がり框に取次ぎの間と、伝統的な日本家屋の作りになっている。壁際にしつらえられた下駄箱は檜だ。上には高そうな八角形の花瓶に花が生けられている。
「お上がりになって、少々お待ちください」
 そう言うと、女性は玄関から出て行った。
 静かに扉が閉められた後、すぐに北原が大きく息を吐いた。
「何かもう、いちいちすごいですね」
「そうだな」
 二人揃って靴を脱ぎ、腰を屈めてそろえる。家ではやらないことをついしてしまうのは、雰囲気に飲まれている証拠だろうか。
「お待たせ致しました。こちらへどうぞ」
 女性が右手の扉から出てきて、奥の廊下の方へ先行した。裏口か勝手口があるのだろう。わざわざそちらから出入りするということは、彼女はやはり家政婦なのだろう。
 取次ぎの間から左手へ伸びるのは、庭が見渡せる廊下と縁側だ。高級旅館かここは、と心で突っ込みながら長い廊下を歩く。引き戸の硝子の向こうには、先ほど玄関から見た、広く手入れが行き届いた庭が広がっている。
 もし陰陽師というのが本当なら、この屋敷を維持する費用は一体どこから捻出されているのだろう。ますます胡散臭い。紺野は、庭を見て思わず漏れかけた感嘆の息を喉で止めた。感心している場合ではない。これから会うのは、もしかしたら殺人事件の犯人かもしれない男なのだ。
 顔を引き締めなおした紺野に、女性がこちらですと振り向いた。廊下はさら先で右に折れ曲がっている。おそらく部屋を囲むように廊下が続いているのだろう。和室に二人を招き入れ、女性はまた「少々お待ちください」と言って障子を閉め、姿を消した。
「庭もすごかったですねぇ」
 北原が大きく感嘆の息を吐いた。いちいち反応が素直だ。そうだな、と聞き流しながら、紺野は部屋を見渡す。
 作りは昔ながらの和室だ。床の間には掛け軸が掛けられ、床脇の違い棚には花が生けられている。そして部屋の真ん中の一枚板のローテーブルを挟んで、上座に一枚、下座に二枚の座布団が敷かれている。使われた形跡がない。まるで、誰かが来ることを分かっていたかのようだ。それとも普段から準備されているのだろうか。
 紺野が眉をしかめたと同時に、障子が開いた。
「すみません、お待たせしました」
 少々緊張感の薄い声と共に入ってきた男を見て、紺野も北原も呆気に取られた。
「来客があったもので」
 端正な顔立ちに、にこにこと人好きのする笑顔を浮かべているのは、眼鏡をかけた爽やかな好青年だ。すっと伸びた背筋に着物姿が様になっている。二十八歳には思えない、妙な貫禄がある。
 もっとひょろりとした頼りげのない男を想像していただけに呆然と見つめていると、彼は小首を傾げた。
「どうされました?」
 二人揃って我に返り、あわてて警察手帳を出す。
「京都府警、捜査一課の紺野です」
「ききき北原です」
 どもり過ぎだ北原、と心の中で突っ込む。
「土御門明と申します。どうぞ、お座りください」
 手を差し出され、各々手帳をしまいながら座布団に正座する。明も上座に腰を下ろした。
「今日お越しになったのは、鬼代神社の件でしょうか?」
 突然の直球で、紺野はぴくりと眉を上げた。
「もうご存じで?」
「ええ。昨日、昼のニュースで知りました。日本の警察は優秀だと聞いていますので、今日あたりいらっしゃるのではないかと思っていました。当たりでしたね」
 確かに、事件は昨日の昼間にニュースで報道された。だが、現場の奇妙さから報道規制が敷かれ、ほぼ情報は公表されていない。現場と被害者名くらいだ。
 ただ、矢崎徹と関係があった彼なら、携帯の履歴や銀行口座から自分に辿り着くと予想できる。それで突然の訪問にもかかわらず簡単に通され、この部屋も準備されていたのだろう。ならば、警察が来る理由も分かっているということになる。ここは変に遠回りするより、彼に倣って直球で聞くのが正解だ。
 紺野が口を開きかけた時、障子の向こうから家政婦の女性の声が届いた。
「失礼致します。お茶をお持ち致しました」
「どうぞ」
 明が即答し、障子が静かに開く。女性が正座のまま頭を下げ、ガラス製の湯飲み茶碗を三つ乗せたお盆を持って立ち上がった。
 聞かれても問題はないが、自然と口をつぐんでしまう。目の前に置かれた麦茶が入った湯呑み茶碗に、微かに頭を下げる。北原は、ありがとうございます、とご丁寧に礼を告げている。
 女性が辞すると、紺野はひとまず尋ねた。
「今の方は、家政婦さんですか」
「ええ。宮沢妙子(みやざわたえこ)さんです。父の代から、通いの家政婦さんとしてお世話になっています」
 そうですか、と納得する紺野の隣で、北原が自前の手帳を取り出してメモをする。
 先代からならば、土御門家の内情にも詳しそうだ。あとで話を聞いてみるか、と頭の隅で考えつつ、紺野は本題を切り出した。
「では早速ですが、率直にお尋ねします」
「はい」
 再びにっこりと笑顔を浮かべる明に、紺野は若干の苛立ちを覚えた。何だ、こいつのこの余裕は。
「まず形式的な質問から。昨夜の午前二時頃は、どこで何を?」
「アリバイですか。その時間なら、自室で休んでいました」
「証明してくれる人は……」
「いません。家族の証言は証拠にならないんですよね」
 想像通りの答えだ。午前二時など、普通の生活をしているのなら寝ている時間だ。そもそも本人から得られるアリバイ証言などあてにならない。だがこの程度ならあとで鑑識に周辺の監視カメラを調べさせれば確認が取れる。紺野は続けた。
「では、鬼代神社の宮司である矢崎さんとは、どのようなご関係で? できるだけ詳しくお聞きしたい」
 真っ直ぐ、挑むような視線を向けてみるが、明の表情は一向に変わらない。度胸があるというよりは、むしろ年上を相手にすることに慣れているように見える。
「登記簿を確認していただければすぐに分かることですが、鬼代神社の責任役員に代々土御門家当主が名を置いているんです。私は父が亡くなってから引き継ぎました」
 矢崎徹の携帯に名前が残っていたのはそのせいか。
 神社仏寺は基本、宗教法人として登記されている。宗教法人は宗教者と信者で構成され、責任役員を三名以上置き、うち一名を代表役員としなければならない。その一人に明も名を連ねているということだ。陰陽師を名乗る土御門家がどんな形であれ神社に関わることは不思議ではないように思える。陰陽道は神道、道教、仏教などから影響を受けた結果だということくらいは知っている。
「では、その時からのお知り合いですか」
「いえ。父の代から存じ上げております。祭事の際など、父に連れられて時々足を運んでおりましたから」
「なるほど。ひと月ほど前に連絡を取っていらっしゃいましたが、その時はどんな用事で?」
「いえ、これと言って特に。ただの定期連絡です」
「定期連絡? と言うと?」
「神社の様子や経営状況について、月に一度、報告を入れていただいていました」
 神社の経営についてはまったくの素人だが、役員に名を連ねているとそういう連絡が入るものなのだろうか。
「その時に何かおっしゃっていませんでしたか。誰かと揉めているとか、何か困っているとか」
 ふむ、と明は顎に手を添えて思い出す体勢に入った。
「そうですねぇ……特には。いつも通り連絡内容をお聞きして、世間話を少々。天気の話や娘さんの進路、ああ、あと少女誘拐殺人事件の話をしましたね。娘さんがいらっしゃるので不安だと」
 ぐ、と紺野と北原が同時に息を詰まらせた。六月から京都市内で起こっている凄惨な事件だ。警察は未だ犯人の目星すら付けられずにいる。担当ではないが、刑事としてそこは突っ込まれたくない。
「現在、鋭意捜査中です……」
 視線を逸らしそう呟いた自分の声はいたたまれない声だったに違いない。そうですか、と責めるでも嫌味でもない明の声にさらにいたたまれなくなる。
 紺野は気を取り直すように咳払いをして続けた。
「えー、貴方は、矢崎さんに毎月百万もの振り込みをされてますが、それはどういったお金でしょう?」
 尻尾を出すならここだと紺野は踏んでいた。毎月毎月、欠かすことなく月初めに必ず土御門明名義で振り込みがされている。矢崎徹の妻は神社関係者だと知らされていたようだが、まるで給料のように百万もの金を振り込み続けるなど、何か特別な理由があるとしか思えない。捜査会議でもそこは重要視された。
 挑むような視線を向ける紺野に、明はそれでも落ち着いた表情を崩さなかった。
「お二人は、鬼の存在を信じていますか?」
「…………は?」
 予想もしなかった突飛な質問に、二人同時にとぼけた声が出た。伝承上の鬼という意味なのか、それとも抽象的に使用する鬼という意味なのか、とっさに理解できなかった。ついでに質問の意図も分からない。
 ぽかんとする二人に構わず、明は話を進める。
「平安の時代、この京の地で戦がありました。それはそれは凄惨な戦で、幾人の犠牲が出たのかさえ把握できないほどでした。ただ、その戦は人のみによるものではなく、人対鬼対悪鬼の三つ巴でした。その時、悪鬼を率いていたのが千代(ちよ)という名の少女の姿をした悪鬼です。一説によると、彼女は平安よりずっと以前から悪鬼として存在していて、人間の体を乗り移って生きながらえていたと言われています。けれど戦で安倍晴明により魂は調伏され、肉体は丁寧に荼毘に付されました。しかし、悪鬼が乗り移っていた肉体の骨はそれだけで邪気を帯びるため、晴明によって厳重に封印の呪を施され、のちに建立された神社にて丁重に祀られました。ただし、その神社に悪鬼の骨が祀られていると知られるわけにはいきません。後々、悪用せんとする輩がいないとも限らないからです。そこで晴明は、表向きは干ばつを救った神を祀る神社とし、安倍家の下、隠密裏に管理することにしました。その時、当時共に戦った陰陽師の一人を宮司をとして指名しました。それが、矢崎家の祖です」
 明はそこで言葉を切ると、にっこりと笑って二人を見た。まるで子供に昔話を話し聞かせ終わった親のように見えるが、試されているようにも見える。紺野は口を一文字に結んだ。
「えーと……つまり……?」
「待て、北原」
 手帳から顔を上げた北原の言葉を遮った。参考人に試されて引き下がるようでは、刑事は務まらない。紺野は顎に手を当て、ゆっくりと確認するように言った。
「つまり、鬼代神社は村を救った神を祀るためではなく、その悪鬼の骨を封印し隠すために建てられた神社だった。表向きは宗教法人だが、その実、土御門家の管理下にあった。定期連絡も異常がないかの確認のため。そして、毎月矢崎さんの口座に振り込まれていた金は、鬼代神社維持のための資金だった。つまり、彼は土御門家に雇われていた、と」
「そういうことです」
 明は満足気に笑って頷いた。どうやら合格点らしい。だが、信憑性に欠ける。
「そのお話、矢崎さんはご存知でしたか」
「もちろん」
「では証拠は?」
 紺野が怪訝な顔で尋ねると、明は笑顔を浮かべたまま答えた。
「この話は、悪鬼の骨を秘匿する目的から書物には一切残されておりません。そのため、真偽については証明できかねます」
 つまり、証拠がない。
 開き直ったような笑顔ではっきりと宣言され、紺野の眉間にさらに皺が寄った。
 それでは話にならない。矢崎徹との関係は神社の責任役員同士だったと説明が付くし証拠も揃う。だが、金の説明がつかない。ただのおとぎ話のために毎月百万もの金をつぎ込むなど誰が信じるか。それにおそらく、あの疑問もそこに繋がる。
 紺野はそうですかと表面上納得した体を装い、続けた。
「では、神棚の後ろにあった穴について、何かご存知ですか」
「ええ」
 明は当然のように答え、溜め息交じりに続けた。
「私に尋ねるということは、そこには何もなかったということですね」
 明から、崩れることのなかった笑顔が消え神妙な表情が浮かんだ。
「……何があったんですか」
 明は一瞬目を閉じ、ゆっくりと開いた。
「箱ですよ。悪鬼・千代の骨が入った、木箱です」
 そう来ると思った。おとぎ話を聞いている時から薄々予想はしていたが、本当にそう返ってくるとは。いい年した大人が、しかも警察がそんな話しを信じると本気で思っているのか。馬鹿にされている気分になる。
 紺野は苛立ちを根性で抑えつつ、畳みかけた。
「箱を見たことは?」
「いいえ」
「何故、見てもいない物を断言できるんですか」
「代々、そう言い伝えられているからです」
 何だ、その盲目までの信仰心は。苛立ちを感じ取ったのか、隣で北原がはらはらと見守っている気配を感じ、紺野は乱暴に頭を掻いた。
 金の流れも、穴に隠されていた物も、全ておとぎ話が史実だと前提での話で信憑性がない。だが、この様子では問い詰めても無駄だろう。紺野はさらに続けた。
「失礼ですが、ここ最近矢崎さんとの間で何か揉めていたということはありませんか。例えば、報酬のこととか」
「いいえ。ありません」
「過去には?」
「いえ……ああ、一度だけ」
「あるんですね?」
 出た、と思った。やっと手掛かりが掴めると。だが。
「揉めたわけではないのですが、矢崎さんから金額が多過ぎる、申し訳ないと言われたことがあります」
「は? それはつまり、減額しろと?」
 ええ、と明は苦笑した。
「兼業されている宮司が多いのはご存知ですか?」
「ええ、まあ」
「先ほども申しましたように、矢崎家は悪鬼の骨を守護する守人です。その立場から、鬼代神社では宮司の副業を禁止しております。しかし、神社の経営だけで生活は立ち行かないのが現状です。そこで土御門家は、ご家族の生活費の保証もしてきました。しかし、矢崎さんはその額が多いと。こちらからすれば、貴重な物を守っていただいている立場ですから、少々多いくらいが妥当だと思っていたのですが。ですので、何かあった時のための蓄えとして使って下さいと提案しました。父にも同じことを言ったら同じような答えが返ってきたそうです。やっぱり親子ですねと言いながら、納得していただけましたよ」
 苦笑いを浮かべる明に、はあと気の抜けた返答しかできなかった。
 理由はどうであれ、もらう金が多いから減らせと言う奴がいることに驚いた。世の中金が全てとは思わないが、あって困るものでもない。明の言うように、家族を持つ大黒柱なら尚更だ。
 それだけ、矢崎徹は謹厳実直な人物だったということか。
「他に、何か思い出せることはありませんか」
「……いえ、特にありませんねぇ」
 逡巡して答えた明に、そうですかと言って今度は紺野が逡巡する。
 ふと、矛盾を感じた。
「土御門さん」
「はい」
 湯飲み茶碗を持ち上げかけた手を止め、明が視線を向けた。
「さっきのおとぎ……いえ、お話ですが、秘匿するために文献など残されていないと仰いましたね」
「ええ」
「では、どうして我々にその話を?」
 明は一口麦茶を飲み下すと、湯飲み茶碗を静かに茶托に置いた。
 彼らからすれば、時代を超えて秘匿してきた重要なものだ。それをこうもあっさり他人に漏らすものだろうか。やはりまったくのでたらめだからか、それとも何か目的があるのか。
 じっと見据える紺野の視線に、明は笑みを浮かべた。
「支障がないと判断しました。正直なところ、警察の方があの話を鵜呑みにするとは思っておりません。ですが、こちらとしては箱の安否を確認する必要があります。私が鬼代神社と深く関わりがあると分かれば、そちらから何かしらの反応があると考えました」
 要するに、紺野は見事に誘導尋問に引っ掛かったというわけだ。
 確かにあの話を鵜呑みにしたわけではない。だが、あの話を聞いてぽっかりと開いた穴に何があったのか推測し尋ねたのは確かだ。それと同時に、明自身の潔白も証明される。
 毎月百万も金を渡す理由として「ただの責任役員」では薄すぎる。だが「雇っていた」となれば別だ。代々守り続けている物を守ってもらう「報酬」としてならば、体裁としてはまだマシだ。そして、自分の管理下にある物をわざわざ殺人を犯してまで盗む奴はいない。適当に理由を付ければ済む話だ。
 あのおとぎ話が史実ならば。
 紺野は歯噛みして髪を掻き回した。何もかも、あのおとぎ話が軸であり発端になっている。全てが曖昧だ。それについてももどかしいが、それ以上に素人の誘導尋問に引っ掛かった自分が腹立たしい。
「すみません、試すような真似をしてしまって。ですが、どうしても箱の安否を確認しなければならなかったので。申し訳ありません」
 不意に頭を下げた明に、紺野も北原もぎょっとして腰を浮かせた。
「え、いえ。そんな謝ることではありません。そちらも事情があるようですし……」
「そそそそうですよ。それに、辻褄は合います」
 久々に口を開いたかと思えばとんでもないことを口にしてくれた。北原っ、と小さく叱咤すると、北原は、はっと口をつぐんだ。何度も言うが、おとぎ話が史実ならば辻褄は合う。だがそれを刑事が認めては立場がない。あくまでも現実的に物事を判断しなければならないのだから。
 お前なぁっ、と脇腹を小突いていると、明が顔を上げて小さく笑い声を上げた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると助かります」
 そう言いながらくすくすと笑う明の顔は、年相応に楽しそうだ。まったくお前は、と最後に小さく叱咤し、ふと思いついた。
 もしも、だ。もしも、北原のように他の者があの話を知って信じたとしたら、どうするだろう――いや、馬鹿馬鹿しい。
 紺野は口の中で呟いた。信じたとしても殺人を犯してまで手に入れる価値があるとは思えない。自分の人生を無駄にするだけだ。他にまだ聞かなければならないことがある。紺野は頭を切り替えた。
 意外と笑い上戸なのか、明は笑いを堪えるように口元を覆っている。紺野が強めに咳払いをすると、肩を竦めて居住まいを正した。
「では、矢崎さんの交友関係について何かご存知ですか」
「そうですね……ご家族のことはよく聞きましたが、ご友人のお話はあまり。近くに住む方は時々参拝されていたようですが」
「そうですか……」
 その程度の話は参考にすらならない。この辺りが引き際だろうか。とりあえず矢崎徹の人となりは分かったし、明との関係も判明した。ただ、金についてはさすがにどう報告すべきか。それとももっと突っ込むべきだろうか。
 そう思っていると、障子の向こう側に影が滑り込んできた。形からさっきの家政婦だ。
「お話し中、失礼します。明さん、そろそろお時間ですが」
「ああ、もうそんな時間ですか。分かりました」
 明がそう言うと、家政婦は静かに立ち去った。
「すみません。この後、出掛ける用事がありまして」
「ああ、そうですか。では、最後に一つだけ。貴方から見た矢崎さんは、どんな方でしたか」
「とても真面目で正直な方でしたよ。常に穏やかで、ああ、そう言えば怒ったところを見たことがないですね。父が亡くなり私が家を継ぐ際にも、色々と励ましていただきました。尊敬するべき先達者です」
 べた褒めだ。だが、近所の住民も似たようなことを言っていた。金の話といい、よほどの人格者だったのだろう。
 紺野は「そうですか」と呟き、息を吐いた。
「分かりました。長々とすみません、ご協力感謝します」
「いいえ。また何かあればいつでも仰ってください。協力は惜しみません」
「ありがとうございます。失礼します」
 軽く会釈をし立ち上がると、北原も慌てて手帳をしまい会釈をして後に続く。一旦廊下に出て、もう一度会釈をして障子を閉める。入って来た時と同じにこやかな笑顔で見送られ、二人同時に小さく息を吐いた。
 玄関へ続く長い廊下を行きながら、北原がぽつりと言った。
「これ、どう報告します……?」
 北原の危惧は正しい。まさか聞いたまま報告を上げるわけにはいかない。叱責されるか失笑されそうだ。
「そうだな……」
 腕を組んで唸る。ふと視界に入ったのは、取次ぎの間で待つ妙子だった。そうだ、彼女にも話を聞かなければ。女は総じて噂話とおしゃべりが好きだ。それと「ここだけの話」が。
 紺野は妙子に期待を抱きながら取次ぎの間に入ると、会釈をしながら声をかけた。
「あの、少しよろしいですか」
「はい?」
「宮沢妙子さん、でよろしかったですね?」
「はい」
「貴方は先代の頃からこちらで家政婦として働いているとお聞きしましたが、間違いありませんか」
「ええ。間違いありません。それが?」
「一応、関係者全員にお聞きしていますので、ご協力ください。すぐに終わります」
「構いませんよ」
 妙子は、訪ねた時よりかは幾分自然な笑顔を浮かべた。好感触だ。何か出るかもしれない。
「形式的な質問ですので、すみません。昨日の午前二時頃はどこで何をしていらっしゃいましたか」
「家で寝ていました」
「お一人ですか」
「ええ。両親ももうおりませんし、主人は病気で早くに亡くなりました。子供も自立しておりますし」
「ああ、すみません」
「いいえ」
「ご自宅は近くですか」
「はい。ここから徒歩で十五分くらいです」
「なるほど。宮沢さんは、矢崎さんと面識が?」
「ええ、もちろん。先代からこちらでお世話になってますから、何度か」
「どんな方でしたか」
「どんなって、とても朗らかで、親しみやすいと言いますか。穏やかな方でしたよ」
「そうですか。あの、土御門さんと矢崎さんの間で、何か気付いたことはありませんか。例えば、揉めていたとか。些細なことでも構いません」
 初めて妙子があからさまに表情を変えた。きょとんと目を丸くしてしばたいている。
「明さんと矢崎さんがですか? まさか、そんな様子はありませんし、お話すら聞いたことありません」
 これは本当に驚いている顔だ。長年働いているのなら主人の機微にも敏感だろう彼女が、心当たりはないと言う。これは本当に、明は白か。
 期待していた分少々落胆したが、すぐに終わると宣言した以上、これ以上突っ込めない。むしろ食い下がっても何も出なさそうだ。
「そうですか、分かりました。ありがとうございました」
「いいえ」
「あ、ここでいいですよ。失礼します」
 門まで見送ろうとした妙子にそう告げて、紺野はさっさと玄関を出た。
 すみません失礼します、と北原が丁寧に礼を告げ静かに玄関を閉める音を背中で聞きながら、紺野は敷石を歩く。一歩進むごとに、自然と眉間に皺が寄った。
 結局分かったことと言えば、明と矢崎徹の関係性だけだ。それも、登記簿で証明される責任役員の関係だけ。おとぎ話での繋がりは論外だ。
 しかし、おとぎ話が作り話だとして、一体何を隠しているのだろう。神棚の後ろに穴があったのは事実だ。とすれば、あそこに何かが隠されていたのは間違いない。明は悪鬼の骨と言っていた。単純に考えて、麻薬か。だとしたら麻薬を巡って反社会的勢力との抗争か何かか。あそこまでするのだから新種ドラッグかもしれない。ならば犯人の目的はそれだった可能性が高い。よくよく考えれば矢崎徹の、やけに良い評判しか出てこないのも不自然だ。表では善人、裏では悪人、なんて手垢が付き過ぎた構図だ。毎月の振り込みも、その売買の報酬かもしれない。
 紺野は低く唸った。
 そう考えれば辻褄は合うが、ならば現場の異常性はどう説明する。本殿の外から中へ突き破られた屋根、不明な侵入経路、遺体から抜かれた心臓は器具が使用されていなかったと鑑定結果が出ている。人が人の皮と肉と骨を素手で突き破って心臓を抉るなんてこと、できるはずがない。
 さて、どうするか。
 唸りながら通用口を出ると、北原がそう言えばと口を開いた。
「登記簿は一応確認するとして、今からどうします? 一旦戻りますか」
 キーレスで車の鍵を開けながら言った北原の言葉に、ドアハンドルに掛けた手が止まった。
 責任役員は三名以上、うち一名を代表責任者として登録する。ならば、少なくともあと一人は責任役員がいるはずだ。何か事情を知っているかもしれない。
「でかした北原」
「はい?」
「すぐに登記簿を確認する。署に戻って申請手続きだ」
「え、あ、はいっ」
 慌ただしく車に乗り込み、ドアを閉める。
 殺害方法が分からないにしても、矢崎徹を殺したのは確実に人の手によるものだ。ならば必ずどこかに突破口がある。
 人一人殺しておいて完全犯罪なんざ認めてたまるか。
 北原はきっちり後方確認してウインカーを出してゆっくりと発車させる。
「飛ばせ!」
「ええっ。俺安全運転派なんですけどぉ」
「うるせぇ早く行け!」
パワハラですー、と呟いた声が聞こえ、じろりと睨みつける。
 延々と続く白い壁が流れる車窓に視線を投げると、サイドミラー越しに小さくなる数寄屋門が目に入った。
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