第5話

文字数 3,563文字

「うるせぇ黙れッ!!」
 怒りを吹き飛ばすほどの怒声を上げたのは、晴だった。びりびりと震える空気に一様に体を震わせ、しん、と水を打ったような静寂に包まれる。反射的に振り向いた晴の顔付きは、まさに憤怒そのものだ。驚きすぎて、一瞬で頭が冷えた。
 一斉に視線を向けられた晴は、俯いて眉間に皺を寄せたまま、深く長く息を吐き出した。ゆらりと顔を上げ、見下した目付きで草薙親子と二を見下ろす。ぞくりと全身が粟立つような、冷酷な眼差し。自分へ向けられたものではないと分かっていても、体が竦む。
 静かで、激しい怒りだ。
「さっきはもういいかと思ったけど、気が変わった。選択肢は二つだ。俺らに殺されるか、紫苑に食われるか。今すぐ選べ」
 死以外の選択肢がない。龍之介がぱくぱくと口を動かし、逃げようと四つん這いになったが、腰が抜けているのかこれっぽっちも進んでいない。
「そ、宗一郎様……!」
 竦み上がっていた草薙が、身を乗り出して片手を地面に、もう片方は胸の辺りに当てて必死に懇願する。
「私は賀茂家のためを思って奴らと手を組んだのです! 安倍晴明は賀茂忠行様の弟子でございました。にもかかわらず、子孫共はその地位を奪取し賀茂家を排除した! あまりにも……っ」
「いつの話をしている」
 宗一郎の冷淡な声が遮った。
「そんな大昔の因縁に囚われ、今の利得を放棄するほど私は愚かではない」
 利得というと少し冷たく聞こえるけれど、それだけでないことは明白だ。そうでないと、六年もの年月をかけて真実を追いかけたりしない。
 長い歴史を持つ両家の間で、どんな因縁があったのか知らない。土御門家が賀茂家を排除したのが事実ならば、対立していた時期があったのだろう。けれど今、どう見ても関係は良好だ。賀茂家のためなんてただの建前だ。そもそも、横領や龍之介の犠牲となった香穂や女性たちの件に、そんな建前は通用しない。全ては私利私欲に走った故の愚行にすぎない。
 冷静に一蹴され、草薙の顔が絶望に染まってゆく。
「草薙さん」
 草薙が大仰に体を震わせた。
「ご存知の通り、ここにいる晴は明より霊力が強く、陰陽師としての才は彼の方が上だ」
 思ってもみない暴露に、え、と紺野を含めた大河たち寮の皆が思わず晴を振り向いた。
「だが、それだけで務まるほど、当主の座は甘くない。晴はその器になかった。だからこそ明が当主の座に就いた。しかし、霊力が強いことに変わりはない。そして怜司」
 一斉に怜司へ視線が注がれる。
「現在、寮の中で最強を誇る樹に次ぐ実力者は彼だ」
 現在、という言葉に、樹がわずかに不満そうな顔をした。
「さらに大河」
 突然名指しされて向けられた視線に、大河が目をしばたいた。
「宇奈月影綱の霊力を受け継いだ彼の霊力量がどれほどのものか、想像できるでしょう」
 草薙の顔が、醜いほど恐怖に歪む。
「龍之介さんに弄ばれた女性、矢崎徹氏、鬼を復活させるため器にされた者、食料として生贄にされた者、廃ホテルで悪鬼に食われた者。これだけでも相当な数になる。加えて貴方がたは、明たちの父親であり、私の友人でもある栄晴を手に掛け、怜司の婚約者を死に追いやり、大河の祖父を殺害した。さらにご子息は、私の愛娘を拉致しようと企てる始末。これほどの咎、どう償っても償いきれるものではありません。さあ――」
 宗一郎の口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
「ご決断を」
 ひっ、と草薙親子が引き攣った悲鳴を上げ、二が最後のあがきとばかりに素早く腰を上げて駆け出した。けれどすぐに紫苑が反応し、二の進行方向へと跳んで着地した。一歩一歩迫って、こちらへと追いやってくる。堪えかねたように、龍之介が地面に伏せて体を丸めた。
「俺は悪くない、悪くない! まだ死にたくねぇ!」
 この男の価値観は、どうなっているのだろう。自分が犯した罪を突きつけられてもなお、自分は悪くないと言う。この男は、本当に人間なのか。
 ふと、大河は違和感を覚えた。
 確かに草薙親子も二も、許そうとは思えない。けれど、さすがに殺しはしないだろう。ここには紺野もいるし、目撃者が多すぎる。いくら宗一郎の影響力が強くても、草薙たちが救いようのない奴らでも、罪悪感に耐え切れない者はきっと出てくる。横領の証拠と共に、警察に引き渡すのが正攻法だ。だとしたら、このやり取りは何だ。謝罪の言葉を引き出すのが目的なのだろうか。何せ、ここまで一度も謝罪の言葉を口にしていないのだから。
 それとも、他に何か目的が――。
 あ、と大河は口の中で呟いた。草薙たちは、敵側と通じている――まさか。
 不意に、草薙が痺れを切らしたようにこちらへ鋭い視線を投げた。
「い、い、いつまで黙って見ているつもりだ、どうにかしろ!」
 は? と数名を除いてほとんどの者が首を傾げる。そして大河は、視線を辿って勢いよく振り向いた。
「――昴!!」
 真夏の暑さも、湿気も、人の気配も、遠くの方から聞こえてきた車の走行音も、何もかもがこの世から消え失せ、その名前だけが鮮明に耳に飛び込んできた。
 静まり返ったというよりは、いっそ時間が止まったと言った方がしっくりするほど、誰もが動きを止めた。まるで静止画のように。
 やがて時間を動かしたのは、昴がついた呆れ気味の嘆息だった。
「思ってたより粘ったなぁ」
 独り言のように呟いた昴の二の腕を、右は紺野、左は美琴(みこと)ががっしり掴んだ。
「あれ、意外。美琴ちゃんも知ってたんだ」
「はい」
 微笑みを浮かべた昴の問いかけに、美琴は険しい顔で端的に答えた。ふぅん、と相槌を打ち、昴は大河たちへ視線を巡らせる。
「逆に、大河くんは知らされてなかったみたいだね。あと弘貴くんと春くん、香苗ちゃん。夏也さんは知ってると思ったんだけど、こっちも意外だな」
 へぇ、と余裕の笑みを浮かべる昴から隣にいる宗史を振り向くと、小さく頷かれた。草薙たちは敵側と通じている。だから、内通者に助けを求めさせるために草薙たちを追い込んだのだと思っていたのだが。宗史の反応からすると、すでに分かっていたようだ。しかも、紺野まで。
「す、昴さん……? 何言って……」
「来ます!」
 弘貴の言葉を遮ったのは、庭へ飛び込んできた椿の声と、感覚に触れた禍々しい気配。
「式神、鬼各一体、それと悪鬼です!」
 衝撃と緊張が走り、空気が一気に張り詰める。美琴を除いた独鈷杵の使い手は一斉に霊刀を、椿と志季はそれぞれ刀を具現化した、その時。
 庭木の向こう側から、月光に照らされた人影が二体、庭を半分覆い尽くすほどの巨大な悪鬼が空中に現れた。
「何だよ、あのでかさ……!」
「人に見られてるんじゃ……っ」
 弘貴と春平が驚愕の表情を浮かべ、夏也と香苗は声もなく唖然と悪鬼を見つめている。
「皆様、中へ! 早く!」
 座敷の中から律子の険しい声が響いた。夏也と香苗がはっと我に返り、呆然とする氏子と秘書らをせっついて誘導する。また草薙たち三人は、どうやら敵と通じていたとはいえ目にするのは初めてらしい。巨大な悪鬼に目を丸くしたまま動こうとせず、二に至っては膝から崩れ落ち、恐怖に呆然自失している。
 人影は、庭木を飛び越えて緩やかな弧を描き、庭へ向かって下降した。一人は髪の長い女で洋服、もう一人は褐色の肌をした着物姿の男だ。男の方は、おそらく鈴を負かした大地の眷族神。女の方は、頭に小さな角が見える。――(こう)だ。
 大河たちが目視し霊刀を構えた直後、離れの屋根の上から(せん)右近(うこん)が、地面に着地した男と皓へ一直線に突っ込んだ。閃は男の顔面に右拳を繰り出したが、片手であっさり掴まれた。だが、その腕を掴み返支えにし、ふわりと浮いて足を縮ませると、男の腹にあてがい思い切り向こう側へ蹴飛ばした。男は数メートルほど後ろへ滑る。
 一方、皓へと突っ込んだ右近は、ぶつかる直前に刀身が透き通った刀を具現化し、横一閃振り抜いた。皓はとんと地面を蹴って避け、宙でくるりと一回転した。右近は振り向きながら足を踏ん張って止まり、即座に地面を蹴って皓へ突っ込む。皓が地面に着地する直前、右近の強烈な蹴りが皓の顔面を捉えた。皓は腕を立ててそれを防いだが、勢いで寮と離れの間仕切りの方へ数メートルほど横滑りした。
 そして悪鬼はというと、突如真っ二つに分裂し、隙間から人を落としながらこちらへ向かってきた。一つは縁側へ、一つは草薙らの側にいる怜司たちへ無数の触手を伸ばす。
 しまった、縁側ががら空きだ! 大河は咄嗟に印を結ぶ。間に合うか。
「全員、避けなさい」
 不意に背後から宗一郎の指示が聞こえ、反射的に体が反応した。縁側から晴が庭へ飛び下り、宗史と陽、椿と共に右へ、大河と弘貴と春平、昴たち三人は間仕切りがある左へ飛び退いた。
 そして樹だけは、悪鬼から落ちてきた人物――平良の元へ駆け出した。
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