第4話

文字数 1,772文字

 と、尻ポケットで携帯が震えた。尚は弾かれたように体を起こして素早く引っ張り出すと、メッセージを読んで相好を崩した。こんな状況で不謹慎だとは思うが、逆を言えば気合いが入る。
 明と宗一郎の声をBGMに、尚はいそいそと返信した。
 途切れ途切れのやり取りをする間に、天高くそびえ、色濃く鮮やかになってゆく炎は、まさに火柱だ。不意に、シャン、と錫杖がひとりでに鳴った。とたん、五芒星を囲んでいた円から、黄金色の壁がわずかにせり上がった。シャン、シャン、とリズムを刻むように鳴るたびに、壁が少しずつ形成されていく。当主二人の額には汗が流れ、頬を伝い顎から滴り落ちては狩衣を濡らす。護摩木をくべ、時折、どちらかが中断しては汗を拭って水分補給をする。
「……あれって、大丈夫なのかしら」
 いくら結界といえども酸素は通すし、声も聞こえる。多分熱もこもらない。しかし、煙はどうなのだろう。分かっていて発動させているのだから大丈夫なのだろうが、傍から見ているとちょっと不安になる。まさか途中で二酸化炭素中毒になったりはしないだろう。
「煙は物質、なのかしら……?」
 尚の小さな疑問と共に、熱を残したまま、徐々に陽が落ちてゆく。
 目が覚めるほど鮮やかだった青空が、徐々に大火のごとく真っ赤に燃え、白い雲を焦がす。夕映えを背景に、大極門が影絵のように黒く映し出された。
 普段なら、夜の帳が降りる頃、大極殿や朱雀門、朱雀門ひろばにある復元遣唐使船がライトアップされ、幻想的な光景を見ることができるのだが、今日ばかりは静かにただそこにある。
息をのむほど禍々しい美しさは、やがて闇を連れてくる。
 弓のように細い月が東の空に浮かんだ頃、シャン、シャン、と等間隔で澄んだ音色を暗闇に響かせていた錫杖が、不意に止んだ。明と宗一郎の周りに結界が形成され、闇の中に浮かび上がった。
 二十四時間散策自由なのだから、そこらじゅうに外灯が設けられているのかと思いきや。結界と炎の明かりがなければ何も見えないくらい、見事に真っ暗だ。
 ひとまず結界は間に合ったかと安堵したのも束の間、感覚に触れた気配に、尚が顔を上げた。
「来たわね」
 立ち上がりながらポケットから独鈷杵を引っ張り出す。闇に覆われた空を見上げ、近付いてくる気配の方を注視した。朱雀門の方から、黒の上に黒を重ねたような、巨大な漆黒の塊がこちらへ向かってくる。幅は朱雀大路をゆうに超えているように見える。夜空が移動しているような錯覚を覚え、背中にぞくぞくとした悪寒が走った。
 じらすように速度は遅く、悪鬼特有の低い唸り声が距離と比例して大きくなっていく。
そして、大極門を越えた辺りでそれを捉えた瞬間、ぞくっと全身が粟立ち、反射的に霊刀を具現化した。結界の光にほのかに照らされたのは、悪鬼を先導する、小柄な少女。
覚悟も予想もしていたけれど、この距離で押し潰されそうなほどの邪気というのは初めてだ。気配だけで、膝を付きそうになる。
 尚は、はっと息を吐くように笑った。意思に反して、嫌な汗が頬を滑り落ちた。
「やあねぇ。飛べるなんて聞いてないわよ」
 移動する際は悪鬼の触手を利用、とだけだ。まさか悪鬼を羽の代わりにするなんて。こうなると、空中戦になる。体術は通用しまい。
「ま、見た目は小さい女の子だし、術の方がまだマシかしらね」
 中身が悪鬼とはいえ、見た目があれでは肉弾戦は躊躇しそうだ。贄になった当時が少女だったとはいえ、まさかそれを考慮した上で器を選んでいるのだろうか。だとしたら質が悪い。
 何にせよ――。
 尚は腰を落とし、霊刀を構えた。
 月は細く、光は頼りない。光源は、井桁の炎と結界の輝きだけ。闇に紛れられると視認できない不利な状況は想定内。敵の狙いは明と宗一郎。二人は結界で守られている。そう簡単には破られないだろう。ならば、やることは一つだけ。
 千代が動きを止め、視線を巡らせた。悪鬼がゆっくりと流れ込んでくる。立ち昇る煙を避けるように、悪鬼がドーナツ状に尚たちの頭上を覆った。
 ――絶対に負けられない理由がある。
 深紅の瞳が尚を捉え、千代がゆらりと腕を上げた。
「ノウマク・サマンダ・ボダナン・アギャナウエイ・ソワカ」
「行け」
 真っ赤な炎を纏わせた霊刀が夜空へ向かって振り抜かれ、同時に、低い咆哮を上げながら悪鬼が一斉に襲いかかった。
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