第5話

文字数 3,627文字

「あー、萌ちゃんだ!」
 不意に少女の声が響いたと思ったら、萌の背後から突撃する勢いで抱き付いた。きゃっと可愛らしい悲鳴を上げて前へ傾いだ萌に、慌てて茂たち三人が腰を上げる。しかし、さすが若いだけある。咄嗟に踏ん張って耐えると、萌はもうっとぼやいて少女を振り向いた。
「あっちゃん、何度言えば分かるの。危ないでしょ」
「だってー、萌ちゃん最近来てくんないから」
「お仕事がちょっと忙しかったの。ごめんね。でも、落ち着いたからまた来るよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「約束だよ。ねぇねぇ、今日はお菓子ないの?」
「あっちゃん、ほんとはそれが目的でしょ」
「えー、そんなことないよー」
 えへへと笑った少女に、萌は嘆息して肩を落とした。と、今度は二人組の少年たちが駆け寄ってきた。
「萌ちゃんだ。お菓子は、お菓子!」
「あんたたち、あたしとお菓子、どっちが目的?」
「お菓子!」
 声を揃えた少年たちに、萌がこらっと声を張り、茂たちがどっと笑い声を響かせた。
「おーいお前ら、萌姉にお菓子ばっかねだってんじゃねぇぞー」
 割って入ったのは勇介だ。手にフランクフルトを持っている。
「ほらほら、そろそろ花火の時間だろ。好きなの取られちまうぞ」
「あっ、ほんとだ。あっちゃんも一緒に行こうよ」
「うん。萌ちゃん、あとでね」
「はいはい」
 三人の少年少女たちはひらりと身を翻し、人混みへと消えた。
「萌姉、なんか食べた?」
「それがまだなんだぁ。何か残ってる?」
「焼きそばとフランクフルトとたこ焼きがラスイチだった」
「嘘っ、早く言ってよ!」
「教えに来たのに何で俺が責められるの?」
 全部食べる気だろうか。若いですねぇ、と顔を見合わせる茂と越智を、萌がそわそわしながら振り向いた。
「じゃあ、あたしちょっと行ってきます。佐伯さん」
 茂は笑いを噛み殺して顔を上げた。
「あとで会えればいいんだけど、一応。弘貴くんと春くんに、お礼を言っておいてください。二人のおかげで、佐伯さんに会えたので」
「うん、分かった。伝えておくよ」
 頷くと、萌と勇介は会釈をして背を向けた。
「いいですねぇ、若いって」
「食べられる時に食べておいた方がいいですよね」
「そうそう。年を取ると、食べたくても食べられませんから」
「そうなんですよねぇ」
 互いに五十代ではあるが、まだ現役の年代なのにしみじみと言って頷き合う二人に、秘書は苦笑いだ。
 茂は手の中の名刺に目を落とした。
 春平と弘貴がいなければ、萌と出会えなかった。もし出会っていなければ、今の彼女はなかったかもしれない。勇介に萌、子供たち。そして越智。たくさんの人に慕われて、心配されている。
 茂はきゅっと唇を結び、顔を上げた。
 同じく名刺を眺める越智の瞳は、とても嬉しそうだ。脳裏をめぐる萌との思い出に、思いを馳せているのだろう。
 彼は、幼い頃から現社長の父親に連れられて施設を訪問していたと聞いている。春平たちが預けられた時のことも知っているのだ。だとしたら、春平のことをよく知っているだろう。
「あの、越智さん」
「はい」
 越智が我に返ったように顔を上げた。
「春くんのことで、ご相談があるのですが」
「春平くんですか? 何でしょう」
 越智は名刺を内ポケットにしまい、茂も失くさないようにサマージャケットのポケットに丁寧にしまった。改めて向き直る。
「実は、今――」
 春平が大河に抱いている感情を、本人に任せてはいけない気がした。彼が自分自身を弱いと思っているのは、柴と紫苑が来た翌日の会合で分かっている。卑下や自信のなさは、いずれ霊力を封印する要因になりかねない。もう、事件から外れればいいだけと言える状況ではないところまで来ている。今のところ訓練に励んではいるが、この先、事件から外れたいと言ったとしても、身を守る術を失うのは危険すぎる。
 万が一、春平が命を落とすようなことになれば、悲しむ人がたくさんいる。
 あまり詳しく話す時間はない。できるだけ簡潔に伝えると、越智はふむと一つ唸って唇に手を添えた。
「確かに、四年間陰陽師として頑張ってきたプライドはあるでしょうね。しかし、もっと根本的なものが原因ではないでしょうか」
「根本的、というと」
 越智は添えていた手を離し、視線を上げた。
「茂さんは、春平くんが施設に預けられた理由をご存知ですか?」
「いえ、さすがに……」
 戸惑った顔をした茂に、越智は少しだけ嬉しそうに笑った。春平への気遣いを喜んでいる笑みだ。
「少々語弊はありますが――」
 越智はそう前置きをして、顔を曇らせた。
「彼は、ここに置き去りにされたんです」
「え……?」
 茂は目を丸くし、掠れた声を漏らした。
「置き去りと言っても、藍ちゃんや蓮くんとはまた別なんです。預けられた原因は、経済的な理由でした。春平くんが二歳の時に両親が離婚し、母親が引き取りました。しかし定職に就いておらず、収入も不安定だったようで。次第に追い詰められて、何度か……暴力を」
 茂は息をのんだ。香苗は、入寮当初は頑なに体術訓練を拒んでいた。性格のせいでもあるのだろうが、もしかしてとは思っていた。春平も初めは同じだったのだろうか。香苗の生い立ちを聞いて、どう思っただろう。
「暴力を振るうこと自体が問題ですが、怪我をさせたりする程ではなかったそうです。ですが、このままでは殺してしまいそうだと言って、母親が市役所の福祉課へ相談に来たそうです。そこから児童相談所の調査が入り、一時保護を経てここへ。離れる時、彼女は泣きながら謝っていました。ごめんねと、必ず迎えに来るから待っていてと。しかし、会いに来ていたのは初めの二カ月ほどで、四、五回だったと聞いています。その後、ぱったりと音信不通に。行方が全く分からなくなりました。もし亡くなっていれば、警察や病院から連絡が来るでしょうから」
「それで、置き去り……」
 ええ、と越智は悲痛な顔で頷いた。
 想像する。涙ながらに告げた母親の言葉を信じ、健気に待つ小さな春平を。会いに来た母親に喜び、けれど別れの時間はすぐにやってくる。遠ざかっていく母親の背中を、春平はどんな気持ちで見送ったのか。もう母親は来ないと悟った時の悲しみや絶望は、察するに余りある。
「――そうか」
 閃いたようにぽつりと呟いた茂に、越智はもう一度ええと頷いた。
「おそらく、怖いのではないかと。弘貴くんや夏也ちゃん、大河くんたち皆に、置いて行かれることが」
 茂は唖然とした顔で視線を落とし、口を覆った。
 どうして気付かなかった。何でもないように施設のことを口にし、今でも顔を出しているとはいえ、彼が預けられたのは事実なのに。
 現実問題、施設にいる子供たち全員が親を慕っているわけではない。中には、親から逃げるために、自ら警察や児童相談所へ来る子もいるという。このひまわり園にもいるのだ。親には二度と会いたくない、と言い切る子供が。だがおそらく、春平は違う。
「少し、心配ですね……」
 ぽつりと越智が呟いた。
「時々いるんです。どうせ自分なんかいらないんだと口にする子が。口にしなくても、そう思っている子もいると思います。実際、卒園児童の中には社会に馴染めないことをきっかけに、思い悩む子もいます。自分はどうして生まれたのか、生きる意味はあるのか、と」
 ぎゅっと胸が痛くなり、茂は眉を寄せた。
 まだ燻っている。三年前に感じた、この世に一人取り残されたような酷い寂寥や空虚、そして深い絶望が。大人でも耐え難いあの感覚を、子供たちが感じているのか。
 もしかすると春平も――いや、弘貴もそうだったのかもしれない。
 施設で起こった心霊現象は、自分たちのせいかもしれないと分かっていたと聞いている。特に春平は、それを後ろめたく思っているように見えた。迎えに来ない親、子供たちを怯えさせてしまう力。思い悩む原因は、十分だ。
 だがそんな時に、「陰陽師」という役割が与えられ、生きる意味を見つけた。だから三年前、霊符が反応したとはいえ、弘貴は唐突に提案し、春平は便乗した。本来なら、先に宗一郎と明に相談して然るべきなのに。
 ――だとしたら、今の状況はことさら危険だ。
 華は別として、初めは、弘貴や夏也と同じ位置にいた。それが、茂、香苗、樹、怜司、美琴と次第に仲間が増え、どんどん追い越されていく。さらに、普段の訓練に加え、独鈷杵と秘術の会得を求められる。そして、大河の存在。地道に歩み、積み重ねてきた四年の月日をいとも簡単に埋められてしまう、虚しさ。
 資質や向き不向きもあるし、訓練時間の差も大きい。それらを理由に、仕方ないと押し込めていた感情が、ここへ来て無視できないほどに膨れ上がった。置いて行かれるかもしれない恐怖と焦り。自分は弱いという卑下、自信のなさや劣等感。
 それらはいずれ、生きる意味をも奪いかねない。
 茂はぐっと歯を食いしばった。早急に手を打たなければ。
「しげさん、越智さーん」
 不意に弘貴の声が届き、茂は我に返った。
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