第8話

文字数 4,349文字

 部屋に籠ってそろそろ一時間が経過しようとした頃、
「あ――――っ、無理、もう無理!」
 背をもたれ、大河は天井に向かって降参の声を上げた。
 香苗のことが気になって暗記どころではない。持ち前の集中力もさっぱり発揮できず、未だ一つの真言も覚え切れていない。
 大河は盛大に溜め息をつき、体を起してそろそろと携帯に手を伸ばした。GPSの地図を開き、同じ位置に留まったままの青丸の印を見つめる。茂たちを示す印も、それぞれ指示された地域の道路をゆっくりと進んでいる。これに加えて柴と紫苑、閃と右近もいる。何も起こらないことがもちろんだが、何か起こっても十分対処できるメンバーだ。それに志季と椿を向かわせることだってできる。大丈夫、心配ない。
 そう分かっているはずなのに、昨日の香苗の泣き顔が脳裏に焼き付いて離れない。
 大河は、携帯を握る手に力を込めた。
 今頃、香苗は何をさせられているのだろう。部屋の掃除、食事の支度、買い出し。そんなことをしながら、あの父親と女に罵倒されているのだろうか。
 白くなるほど唇を噛み、大河は覚悟を決めたように勢いよく立ち上がった。
 知られたくないという香苗の気持ちを無視することになるのは、分かっている。けれど香苗は、公園で助けようとしてくれた。あれが演技だろうとなかろうと、助けようとしてくれたことに間違いない。それでも内通者が彼女である可能性は消えない。そうだったとしたら、許せる自信はない。
 けれど今は、仲間だ。
 部屋に籠って約一時間。覚える真言は五つだが、宗史たちが様子を見に来るのは、おそらく一時間半か二時間後。弘貴と春平と、夏也の訓練もしているだろう。
 抜け出すなら今だ。
 霊符一式とお守り、独鈷杵をポケットに突っ込んで、クローゼットからボディバッグを出し財布を確認する。斜め掛けにして携帯を鷲掴みにしたところで、はたと気付いた。寮にいるのに携帯を持って移動するわけにはいかない。かといって電源を切れば速攻で宗史たちにバレる。けれど、土地勘がない京都を移動するには携帯は不可欠だ。どうする。
 大河は逡巡し、積み上げてある宿題の山からノートを引っ張り出した。適当なページを開き、ペンを取って表示された住所を走り書きする。その辺の人に聞けばなんとかなるだろうし、地図を買えば路線図を見ながらだって行ける。ただ心配なのは、柴たち人外組だ。香苗の自宅近くで待機しているかもしれない。上手く隙をつければいいが、見つかった場合は即座に捕まって小言を言われ、寮に強制送還させられて宗史らの説教を食らうだろう。しかし、その程度のことは二度目の処分込みで覚悟はできている。
 メモしたページを破って適当に折り畳むと、前に回したボディバッグの外ポケットに押し込みながら扉へ足を向ける。ゆっくりと、泥棒のように静かに、少しずつ扉を開く。隙間から誰もいないことを確認し、そろそろと出てから慎重に扉を閉めた。第一段階クリア。
 できるだけ足音をさせずに廊下を小走りで進んでいたところに、背後で「あ」と息を吐くような声が耳に飛び込んできた。息を詰まらせて大仰に体を震わせ、大河は瞬時にその場で足を止めて硬直した。
「お前……」
 弘貴の声だ。大河はしまったと顔を歪ませた。訓練中なのになんで部屋にいるんだ。だが、香苗の元へ行きたがっていた弘貴ならきっと分かってくれる。そんな希望的観測を思いながら振り向くと、髪から水を滴らせた弘貴が何故かこんもりと膨らんだリュックを抱えていた。
 しばしの沈黙が流れ、今度は春平の部屋の扉が開いた。こちらもまた濡れた髪でリュックを抱えている。ばっちり目が合い、へらっと笑う。
「なんだ、考えることは同じか。行くぞ」
 弘貴が小声で促し、大河と春平はこくりと頷いた。
 まさに抜き足差し足忍び足で三人はゆっくり慎重に、極力足音をさせずに、けれど急いで階段を下りた。幸いにもリビングダイニングの扉は閉め切られていたため、大きな音をさせなければバレることはない。靴下のまま土間に出て、競うようにスニーカーに履き替える。
 いち早く履き終えた弘貴が、じりじりと玄関扉を開けた。刀倉家の古い玄関扉とは違い、同じ引き戸だが大きな音はしない。むしろスムーズに溝を滑る。半分ほど開き、体を横にしてするりと通り抜けた弘貴に続いて、春平と大河がくぐった。閉めようとすると、弘貴に「いいから開けとけ、急げ」と急かされ、大河は少々申し訳ない気持ちを押し殺して門へと駆け出した。
 しばらく走ると、先行していた弘貴がコンビニの前でやっと足を止めた。背中を丸め、両膝に両手をついて喘ぐように息をする。やがて三人は長く息を吐きながら体を起こした。
「なんとか成功?」
 大河は来た道を振り向いて確認する。追手は来ていない。弘貴と春平も携帯を置いてきたのだろうか。
「安心してる場合じゃねぇぞ。すぐバレるだろうから、とっとと行かねぇと志季と椿にとっ捕まる」
「確かに、それは言えてる……」
 式神が追手ではどう考えても逃げ切れない。あの居残りメンバーでも逃げ切れる自信はないが。大河は、宗史ら四人に追いかけられる様を想像し、遠い目をした。説教より怖いかもしれない。
「とにかく、俺ら着替えるからさ、悪いけど飲み物頼んでいいか? 麦茶がいいわ」
「分かった。春は?」
「お願いしていい? 僕も麦茶で」
「了解」
 コンビニのドアを開けると、軽快な入店音と同時に漂った冷えた空気に、思わず顔の筋肉が緩んだ。生き返る、と一人和む大河を置いて、弘貴と春平は店員に声をかけトイレへと入って行く。
 大河は、大型の冷蔵庫から麦茶を三本取り出し、レジに並んだ。
 春平は行かない方がいいと言っていたのに、結局来てくれた。やはり放っておけなかったのだろう。そういえば、弘貴と春平は何故あんなに濡れていたのか。まだ訓練の途中のはずだから、シャワーではなく汗。異常なほど濡れていたが、大丈夫だろうか。
 スポーツドリンクじゃなくていいのかな、と思案しながら袋を断り、会計を終わらせてドアの横で大人しく待つ。五分ほど経ってから二人がトイレから出てきた。二人ともリュックを背負い、すっきりした顔だ。
「よし、準備完了。行こうぜ」
 麦茶を受け取りながら早々にドアを開けて、コンビニを後にする弘貴に続く。
「そういえば、二人とも携帯は?」
「置いて来たぞ」
「確実にバレるからね。あ……」
 はたと気付いた春平に不安気な視線を向けられ、大河は苦笑した。
「住所メモって置いてきた」
「あ、メモしてきたんだ。良かった、時間なくて一応覚えたつもりなんだけど、不安だったんだ」
 いつ暗記なんかしたのだろう。さすが春平だ。
「それで、どうやって行くの? バス? 電車?」
「それなんだけどさ、大河。お前、金持って来てるよな」
「え? うん」
「バスと電車だったら一時間半くらいかかるんだよ。だから、金額聞いて払えそうだったらタクるつもりなんだけど」
「そんなにかかるの? 分かった。こっちに来てから全然使ってないし、大丈夫」
「よっしゃ、決まり」
 力強く頷いて、三人は一斉に駆け出した。
 住宅街を抜けて片側二車線の大きな道路に出ると、弘貴と春平は遠くへと視線を投げた。
「近くにタクシー会社があるから、通ると思うんだよなぁ……」
「捕まらなかったら、駅の方まで行くしかないね」
 日々哨戒をしているだけに詳しい。大河もきょろきょろと視線を動かす。
「あっ、いた!」
 春平が声を上げ、大きく手を振った。フロントガラス越しに見える表示灯は空車の文字が赤く点灯している。タクシーはゆっくりと速度を落としながら路肩に寄り、大河たちの前で停車した。そうだメモメモ、と大河は慌てて鞄からメモを引っ張り出して弘貴に渡す。弘貴は、自動で開いた後部座席から腰をかがめて上半身を入れ、振り向いた中年の運転手にメモを差し出した。
「あの、この住所に行きたいんですけど、代金ってどのくらいかかりますか?」
「どれどれ」
 差し出されたメモを受け取り、運転手はそうですねぇと逡巡した。
「五千円前後ってところですかねぇ。道路状況にもよりますから、はっきりとは言えませんけど」
 どうします? と言いたげな視線を投げられ、弘貴が体を起こして振り向いた。
「五千円前後だって」
「そのくらいなら大丈夫」
「僕も」
 五千円なら一人二千円払っておつりが来る。十分払える金額だ。三人は無言で頷き合った。
「お願いします」
「はい、ではどうぞ」
 弘貴、春平、大河の順に乗り込む。ちょうど良い温度に冷えた車内にほっと息をついた。
「この住所の辺りって住宅街ですよね。営業外の地域なので、近くまで行ったら道案内お願いしたいんですけど、どうですか?」
 改めてメモを眺める運転手に尋ねられ、春平が答えた。
「すみません、僕たちも初めて行くので……」
「じゃあナビに入れてもいいですか。そっちの方が確実ですから」
「お願いします」
 ちょっと待ってくださいね、と言いながら運転手は手慣れた様子で住所を打ち込む。その間に麦茶を喉に流し込んだ。
 何か目標物があるのか、あの辺か、と表示された地図を見ながら運転手は一人納得し、ゆっくりと発車させた。
 大河はゆっくりと流れ始めた街並みと人の流れを横目で見て、弘貴と春平を振り向いた。
「ところでさ、二人はどうやって抜け出してきたの?」
 抜け出してきたなどと、不穏な言葉を運転手に聞かれて勘違いされても困る。小声で尋ねた大河に、弘貴が自慢気な笑みを浮かべた。
「柔軟しながらこっそり打ち合わせして、めっちゃ水分摂ってめっちゃ動いてめっちゃ汗かいた」
「手合わせの最中に汗が飛ぶから、樹さん、すっごい嫌がってたよね」
 春平が苦笑いを浮かべてくすくすと笑った。
「怜司さんの眼鏡にも飛びまくったから、一度着替えて来いって言われたんだよ。狙い通り」
「それであんなに汗かいてて、麦茶にしたんだ」
 飲みすぎて飽きたのだろう。なるほど、と大河は苦笑した。
「でも、さすがにもうバレてんだろうなー」
「皆にも連絡行ってるかも」
「別に構わねぇよ、行ったもん勝ちだろ。いっそ手伝ってもらおうぜ」
 にっと白い歯を覗かせて笑った弘貴に、大河と春平は小さく笑いをこぼした。
 弘貴も春平も、香苗が内通者である可能性どころか、寮に裏切り者がいるなんてこれっぽっちも考えていないのだろう。だが、この二人なら、知っていたとしてもきっと同じことをした。
 大河は車窓に顔を向けた。
 ここで、香苗が内通者かどうか判明するかもしれない。そうでなくても、廃ホテルで宗史たちが言っていた。近いうちに事態が大きく動くと。その時には、確実に内通者が誰か分かる。
 いつか必ず来るその瞬間を思うと、酷く胸が痛んだ。
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