第12話

文字数 2,330文字

 ムードも何もないプロポーズをしてから、ゆっくり、少しずつ動いた。
 安いに越したことはないけれど、二人で家賃を折半するのなら、会社から近い部屋を借りられるかもしれない。香穂と条件を話し合い、賃貸会社のHPを回り、良さそうな物件があれば参考としてプリントアウトする。互いに一人暮らしで、まさか家電や家具を全て新居に持ち込むわけにはいかず、怜司が処分することになった。以前住んでいたマンションから持ち込んだため、古かったからだ。必要なものと処分するもの、買い替えるもの。リストに書き込みが増えるたび、実感が増していく。
 妥協は少ない方がいい。何度か物件を見て回る中、二月上旬、長岡京市にある香穂の実家へも挨拶に行った。交際を始めて、一年が経とうとしていた。
 両親と香穂の三人家族。以前は父方の祖母と同居していたらしいが、四年前に他界。現在は両親が二匹の猫と一軒家で暮らしていた。
 二匹の猫は怜司を見るなり毛を逆立てて威嚇し、化け物でも見たように脱兎のごとく逃げ去ったけれど、香穂の両親は大げさなくらい歓迎してくれた。
 真っ白な方がハク、茶トラの方がフクというらしい。物陰で身を寄せ合う二匹に見守られ――正確には警戒心丸出しで監視されながら挨拶を済ませた。専業主婦の母親・法子(のりこ)は明るくてしっかり者、父親の輝彦(てるひこ)は某大手飲料会社に勤めており、少々頑固そうだが誠実な印象を受けた。
 父親ならば、一人娘の恋人を査定するのは仕方ない。どこでどう出会ったのか、香穂のどこを気に入ったのか、仕事では何をしているのかなど、質問攻めだった。そして両親の話に及んだ時、法子が「あなた」、香穂が「お父さん」と叱責気味に咎めた。事前に香穂が話していたらしい。構いませんよと笑うと、輝彦は言った。
「今度、ご挨拶に伺ってもいいかい?」
 と。
 それがどういう意味なのか、すぐに分かった。亡くなっている両親のことも考えてくれる。それが、とても嬉しかった。
「はい、もちろん。両親も喜びます」
 互いに緊張も解けた頃、輝彦が閃いたようにそうだと席を立った。一旦席を外し、リビングに戻ってきたその手には、一眼レフカメラが収まっていた。
「記念に一枚撮ろう。寒いけど天気が良いから」
 目尻に皺を寄せて縁側を指差す輝彦を見て、法子が呆れ顔で溜め息をついた。
「お父さん、最近友達の影響でカメラ始めたのよ。撮らないでって言ってるのに、勝手に撮って友達に見せるの。おちおちすっぴんでいられないわ」
 まったく、と言いながら唇を尖らせるその顔は、香穂にそっくりだ。
「……何ごとも素が一番だ」
「やめてちょうだい。この年ですっぴんを見せられるのは女優さんくらいよ」
 いや、今のは遠回しにすっぴんでも綺麗だと褒めているのでは。そう思ったが、男としてそっぽを向いた輝彦の気持ちは分からなくもないので黙っておいた。
 縁側から庭へ出る輝彦と、キッチンでお茶を新しく入れ替える法子を見比べて、怜司と香穂はこっそり顔を見合わせて笑った。
「二人とも、こっちに来て座って」
 手招きをされ、揃って縁側に腰を下ろす。さすがにこの時期はまだまだ寒い。けれど暖房と緊張で少々暑かったせいもあり、寒くはあったが熱は落ち着いた。怜司はサンダルを借りて足を投げ出し、香穂は横座りだ。ピントを調節しているのか、輝彦がレンズ部分を微調整している。
 怜司はぐるりと庭を見渡した。陽射しが降り注ぎ、しかし身を縮めるほどの気温の中で、庭木や植えられた花々が色鮮やかに咲き誇っている。花にはちっとも詳しくないが、赤いのは多分椿。白や濃い紫の花は何だろう。一画に、何かが枯れたままのプランターが放置されているのはご愛嬌だ。
 香穂は、ここで生まれ育った。庭で遊び、この縁側で昼寝をし、花壇の世話もしたかもしれない。そこら中から、幼い香穂の笑い声が聞こえてくるようだ。
 と、ずっと物陰に隠れていたハクが、そろそろと近寄ってきた。香穂にすり寄り、膝の上を陣取る。窓が開いているのに逃げないのか、と感心する怜司の方に尻を向け、首だけで振り向いた。香穂に背中を撫でられながら、こいつは誰だといった目で見据え、一度尻尾を振る。ぺしっと太ももに当たった。
 あっちに行けと言われているのだろうか。動物を飼ったことがないので分からない。はて、と考えていると、今度は背中を丸めたフクが近寄ってきた。そろそろというより、じりじりと距離を縮めてくる。不意に振り向くと、停止ボタンを押されたようにぴたりと動きを止めた。しばし見つめ合い、怜司が前を向くとそろりと動く。すぐに勢いよく振り向くと、またぴたりと止まる。前足が片方上がったままだ。
 なかなか面白い。これまで考えもしなかったけれど、ペットオッケーの物件も検討してもいいかもしれない。
 くくっと喉を低く鳴らして笑う怜司を、香穂が嬉しそうに微笑んで見つめていた。
「お待たせ。二人ともいいかい?」
 輝彦が声をかけると、ハクがするりと香穂の膝から下りた。どうやら写真は嫌いなようだ。フクと二匹揃ってソファに飛び乗った。
 怜司と香穂は互いに少しだけ身を寄せ合い、レンズに視線を投げる。
「いくよー。はい、チーズ」
 久々に聞いた「チーズ」。ふっと笑みがこぼれた瞬間、シャッターが切られた。
「お、いいね。一発オッケーだ。俺の腕も上がってきたかな」
 満足そうに笑って自画自賛する輝彦に、香穂と法子のくすくすとした密かな笑い声が上がる。
 そのあと、すぐに印刷された写真を受け取り、猫二匹に猫じゃらしで遊んでやると、少しだけ懐いてくれた。温かい陽射しが降り注ぐリビングに、途切れることのない笑い声。
 隣には香穂がいて、幸せとは、普通とはこんな感じなのかと思った。
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