第14話

文字数 3,612文字

 香穂を発見した時、すでに下半身には死斑が出現していたという。その死斑の状態から見て、おそらく死後三十分から一時間。それを聞いて、法子は酷く取り乱したらしい。あと一時間、三十分早く様子を見に行っていれば止められたかもしれない、救えたかもしれない。様子がおかしい娘を部屋で一人にさせず一緒にいてやれば、と。なまじ本好きだと分かっていただけに、一人にしてしまった。
 死因もあるが、自殺の原因が分からないため、赤の他人を香穂に近付けさせたくない。そう、輝彦は言った。誰が香穂を自殺に追い込んだのか知らないが、殊勝な顔をして手を合わせられるのはまっぴらごめんだと。ただ、君には参列して欲しいと言ってくれた。
 葬儀社との打ち合わせの結果、翌週の火曜日に通夜、水曜日に家族葬での告別式を執り行うことになった。
 きちんと平静を装っていられたのか分からないけれど、かろうじて月曜日と火曜日は出勤し、通夜に参列。水曜日の朝、会社に連絡を入れた。祖母が亡くなったと言って。祖父母が亡くなった時の忌引き休暇は三日。ちょうど金曜日までなので、土、日を入れると計五日間の休みだ。
 一方、香穂の死は、月曜日には経理部全体に知れ渡っていた。おそらく部長、課長クラスは知っていただろうが、死因は伏せられたまま、家族葬で執り行うこと、香典や弔電などは不要であることが伝達されたそうだ。また、香穂は自殺する四日前、週明けの月曜日から欠勤していたことが分かった。これは川口からの情報で、彼だけならず営業二課にも大なり小なり衝撃を与えた。
 そして、葬儀当日。
 親類一同が会する中、怜司は輝彦と法子にぜひと頼まれ、火葬にも同行させてもらった。
 火葬には一時間ほどかかる。怜司は控室を抜け出し、正面玄関から外へ出た。外の新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んで、長く吐き出す。昔ほど減ったとはいえ、完全に見えなくなったわけではない。両親の時もそうだったが、特に斎場は故人の「思い」が強すぎて、どれだけ気を付けていても「視えて」しまう。どこからか感じる視線。周囲をうろつく妙齢の女性や中年男性。走り回る幼い子供。中には、悲しげな顔で棺を見つめる年配女性もいた。けれど、そこに香穂の姿はなかった。
 両親と香穂。二十四の身空で三度だ。三度も、大切な人を失った。
「俺は、死神か」
 自嘲的な笑みと共に吐き出した言葉は、誰にも聞かれることなく空気に溶けた。
 骨上げ、お清めを終え、精進落としの会場へ向かう。ここ最近では初七日法要も火葬後に執り行うのが一般的になってきており、遠方からの参列者もいたため例に漏れず執り行われた。そのあと精進落としが行われ、一時間ほどでお開きとなり解散。
 親族らの見送りが終わったあと、輝彦に誘われ自宅へお邪魔することになった。
 午後四時頃。自宅近くまで来た時、門の前に誰かが立っていることに気付いた。スーツを着た、怜司と同じ年頃の女性。あら、と声を上げたのは法子だ。知人らしい。
 門前で車を停め、法子が降りると彼女は深々と頭を下げた。怜司も続けて降りる。
千鶴(ちづ)ちゃん」
 その名前には、聞き覚えがあった。小林千鶴(こばやしちづ)。香穂の「読書好きの幼なじみ」だ。黒髪を一つに結び、涼やかな目鼻立ちは快活そうな印象を受ける。家が近所で、香穂とは同級生。今は、大阪にある小さな出版社で編集者をしていると聞いた。
「ご無沙汰しております」
 はきはきとした口調に爽やかな笑顔は、法子に抱えられた骨壷の入った桐箱を見ると、すぐに消えた。
「香穂……」
 小さく呟いて目を細め、千鶴は桐箱を遠慮がちに撫でた。法子が小さく鼻をすすった。輝彦が駐車スペースに車を入れて出てくると、千鶴はぐっと歯を食いしばり、意を決したように真っ直ぐな視線を上げた。
「お疲れのところ恐縮ですが、お渡ししたい物があって来ました」
 千鶴は怜司を見やった。
「里見怜司さんですね。香穂からお話は伺っています。貴方にも」
 強い眼差しに鬼気迫るものを感じ、怜司は訝しげに目を細めた。
 一階の和室の祭壇に桐箱を祀り、手を合わせるとリビングに移動する。
「おじさんたち、そのままじゃ落ち着かないでしょう。着替えてきてください。その間、キッチンお借りしますね」
 そう言った千鶴のお言葉に甘えて、輝彦と法子は慌ただしく二階へと姿を消した。勝手知ったる桂木家なのか、千鶴はキッチンに入ってお茶の支度を始める。これだけで、彼女がどれだけ香穂と親しかったのかよく分かる。
 まさか、喪服でここに来ることになるとは思わなかった。締め切られた縁側の窓辺に立ち、怜司はぼんやりと外を眺める。あの日と同じ、真っ赤な椿に、名前の知らない白や濃い紫の花が咲いている。ハクとフクが足音もなく側に来て、ちょこんとお座りをした。どことなく元気がない。
「香穂は」
 不意に千鶴が口を開き、怜司は振り向いた。
「とても、幸せそうでした」
 湯を沸かすそばで急須に茶葉を入れながら、千鶴が寂しげな笑みを浮かべた。
「里見さんとどんな話をしたのかとか、里見さんがああしたこうしたって、いちいち報告してくるんです。こっちは締め切り間近で忙しいっていうのに」
 千鶴は小さく肩を震わせた。
「私の名前、千の鶴って書くんです。子供の頃、おばあちゃんみたいだってよくからかわれて、自分の名前が嫌いだったんですよ」
 突然話題が逸れて、怜司は首を傾げた。
「鶴は、霊鳥や瑞兆の鳥だと言われています。縁起の良い名前だと思いますけど」
 不思議に思いつつ言うと、千鶴は驚いたように瞬きをし、ふと笑った。
「香穂も、同じことを言ってくれました。鶴は縁起の良い鳥なの、たくさん幸せになりますようにってパパとママがつけてくれたんだから馬鹿にしちゃ駄目って、すっごい剣幕でいじめっ子に怒鳴ったんです。多分、本か何かの受け売りだと思うんですけど。もう、馬鹿にされたことよりそっちの方が嬉しくて、号泣しちゃいました。それから、自分の名前が好きになったんです」
 はにかんだ千鶴に、怜司は自然と口元を緩めた。からかいすぎて怒ることはあったけれど、怒鳴った姿を見たことはない。でも、友達を庇って怒鳴る幼い香穂の姿が、容易に想像できる。彼女は確かに、優しい女性だった。
「里見さん、あの子の体質はご存知ですよね」
 ええ、と怜司が頷くと、湯沸かし器からぽこぽこと湯の沸く音が聞こえ出した。
「あの体質のせいで、だんだん人付き合いや恋愛に臆病になってしまって、なかなか一歩を踏み出せなかったんです。だから、合同の飲み会の翌日、お礼がしたいって声をかけたと聞いた時は驚きました。あの子なりに頑張ってるんだって。でも、断られちゃったって落ち込んでましたけど。ああ、責めてるわけじゃないんです。逆です」
「逆?」
 怜司が問い返すと、千鶴はええと微笑んで頷いた。
「下心なく、香穂を気遣ってくれたってことでしょう? 嬉しかったんですよ。あの子、何気に人気あるから」
 あの行動をそんなふうに捉えるとは。確かに下心はなかったけれど、打算はあったのに。
 予想外の解釈に、怜司は少し後ろめたい気持ちで目を落とした。そんな怜司の態度を、千鶴は照れていると取ったようで、くすりと笑った。ボタンがぱちんと跳ねた湯沸かし器を持ち上げる。
「断られて落ち込んで、でも気になるの、どうしようってすごく悩んでました。だからね、私あの子に言ったんです。一回断られただけで、その理由があんたの体質だって決めつけるのは、その人に失礼じゃないのって。私の名前をあんたが良い名前だって言ってくれたように、その人も受け入れてくれるかもしれないでしょって。そしたらあの子、まあ悩みはしたみたいですけど、開き直って押しまくったみたいで」
 急須に湯を注ぎながら、千鶴は笑いを噛み殺して肩を震わせた。香穂の押しの強さは彼女の助言がきっかけか。もしかすると、書店で会う前から声をかけようとしていたのかもしれない。けれど勇気が出なかった。そんな時に、同じ作家が好きだと知った。
 千鶴はふと笑いを収め、湯沸かし器を置いた。急須の蓋を閉め、眺めたまま続ける。
「付き合うことになったって聞いた時は、すごく嬉しかったです。ただ、結婚前提で同棲するって聞いた時は、さすがにちょっと早いんじゃないのって思いましたけど」
 苦笑いを向けられて、怜司は苦笑いを返した。やっぱり早かったか。
「でも、あの子言ったんです。きっとこの先、里見さん以上に一緒にいて安心できる人はいない。好きになれる人はいないって。すごく真剣に」
 どこか呆れたような、けれど嬉しそうに微笑んだ千鶴に、怜司は目を丸くした。香穂も、同じように思っていてくれたのか。
「だから、香穂が幸せそうだからいいかって。でももし香穂を泣かすようなことがあったら絶対許さないって、そう、思ってたんですけど……」
 千鶴は、言葉尻を小さくして急須に目を落とした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み