第10話

文字数 3,269文字

「付き添っていただいて申し訳ありません、玄慶様」
 木のてっぺんからてっぺんへ飛び移りながら、紫苑は眉尻を下げた。隣を行く玄慶が、ちらりと一瞥する。
「構わん。ちょうどよい気晴らしになる。気にするな」
 疲れ気味の顔で深々と溜め息をついた玄慶に、紫苑は苦笑いを返す。含まれた意味は、おそらく柴のことだろう。これが他の者なら「無礼な!」と激怒するところだが、柴と玄慶の関係を聞いた今では、その不躾な言い草も納得できる。だが一つだけ。暁覚が玄慶の補佐役に就いたばかりの頃、
『柴主の徘徊癖と玄慶様の豪胆すぎる性格はどうにかならんか。有事の際は毅然としておられるのに、普段は何故あんなにゆるいのだ。いや知ってたぞ、知ってたけど改めて考えるとあの変わりようはおかしくないか!?』
 と酷く追い詰められた顔で吐露していた。これまで隊の長という、あくまでもいち兵士だったのが、補佐役に就いたことでこれまで以上の責任がのしかかり、頭を悩ませているようだった。
 暁覚の気持ちは、正直に言えば分からないでもない。もう日課のようになっているあの賭けは、実のところ玄慶が言い出しっぺだ。明らかに面白がって上の者が始めれば、下の者は当然便乗するだろう。大人たちのおもちゃにされるのは不本意だが、自分たちにもおこぼれが回ってくるので黙っている。そして柴は、少し目を離した隙にふいといなくなることがある。以前、川辺で昼寝をしているところを見つけた時は、めまいがするほど血の気が引いた。そして心の底から改めて思った。自分がしっかりしなければと。
 紫苑からしてみれば、柴と玄慶、どっちもどっちと言ったところなのだが、間違ってもそんなこと口にはできない。それに、暁覚の言葉を借りるなら、普段はゆるいからこそ、皆のあの笑顔と穏やかな空気があるのだ。
 柴や玄慶や行毅、そして根城の仲間。彼らに、どれだけ救われただろう。
「父上、母上。お久しぶりでございます」
 紫苑は墓の前に膝をつき、摘んできた一輪の白い花を添えた。両手を合わせ、心の中で根城での暮らしぶりを報告する。
 かつて暮らしていた集落には、時折こうして玄慶に付き添ってもらい訪れている。
 初めて訪れたのは、餓虎との戦が終わってしばらく経ってからだ。夜襲を受けて全滅したあの日以降、ここは餓虎の縄張りとなっていた。だがその餓虎が壊滅し、再び柴の縄張りとなった。しかし、一度全滅した集落は、当然住む者がいないため再建されることはない。そうなると訪れる者がいない。近くには川が流れ、木の実が生り、片して修繕すればかろうじて使えそうな寝床もあり、しかも柴の根城からは距離がある。見つかることはない。とでも思ったのだろう。どこぞの野鬼が入り込んで根城にしており、食い散らかされた人の残骸がそこらに転がっていた。
『ここを三鬼神・柴主の縄張りと知っての狼藉か。野鬼ごときが足を踏み入れてよい場所ではない。覚悟はできておろうな』
 そう言って総勢三十名ほどの野鬼をあっという間に一掃した玄慶の強さは、左手を失くしても依然として変わらなかった。
 あの一件が野鬼の間で噂されたのかどうかは分からない。だがあれ以降、野鬼が集落に入り込んだ形跡はなく、今では墓も、寝床も、仲間と共に食事を囲んだ広場も。一面に雑草がはびこり、苔が生え、今にも全てを飲み込んでしまいそうな勢いだ。柴や行毅が同行してくれる時もあるし、来るたびに墓の雑草はできるだけ抜いているけれど、それでも間に合わない。やはり、あの頃のまま、というわけにはいかないようだ。
 紫苑は伏せていた瞼をゆっくりと持ち上げた。
「また、来ます」
 ひと言告げて腰を上げる。
「紫苑」
 不意に、背後にいた玄慶が口を開いた。立ち上がりながら振り向くと、玄慶は墓へ向けていた視線をついとこちらへ寄越した。
「あの時の宣言通りだな」
 何のことか分からず、小首を傾げる。
「覚えておらんか。いずれ追い付くと言っただろう?」
「あ」
 助けてもらった時のことだ。今思えば、よくもあんなに堂々と言えたものだ。柴と玄慶に追い付くなど、おこがましいにも程がある。
「私などまだまだ。柴主や玄慶様には到底及びません」
 宣言通りと評価してくれた嬉しさと自覚している未熟さに、紫苑はどこか複雑な顔で視線を逸らした。
「当然だ。俺や柴主と容易に肩を並べられるわけがなかろう。並んでもらっても困る」
 言っていることが正反対なのだが。困惑した視線を上げると、玄慶が不遜な顔でこちらを見下ろしていた。くっと一つ喉で笑い、だがと続ける。
「ここへ来るごとに、俺は少しずつ早く走っていた。お前はそれに難なく付いてきた。気付いていたか?」
「いえ……、そうでしたか」
 全く実感がない。そんなふうに試されていたなんて。紫苑が目を丸くすると、玄慶は短く笑った。
「確かに、今のお前では柴主はおろか、俺にすら到底及ばん。だが、あの速さに難なく付いて来られるようになったのは事実だ。正直、こんなに早いとは思わなかったぞ。お前はまだ強くなる。今とは比べ物にならんくらいにな」
「そんな……身に余るお言葉です」
 褒められるのはもちろん嬉しいが、褒めすぎではないか。紫苑は顔を赤く染め、また複雑な顔をして視線を泳がせた。
「そこでだ。そろそろ、お前には話しておかねばと思ってな」
 突然の話しの転換に、玄慶を見上げて小首を傾げる。
「何でございましょう?」
「俺と柴主が同じ集落の出だという話は、覚えているか?」
「はい」
 ずいぶん前のことだ。例のごとく柴がふいといなくなり、あちこち探し回っている最中に、突然玄慶の怒声が耳に飛び込んできた。何ごとかと急いで声のする方へ行くと、玄慶がものすごい剣幕で怒鳴り散らしていたのだ。
『これで何度目だ、柴! 皆がどれだけ心配するか考えろ。いい加減三鬼神としての自覚を持て、この阿呆!』
 心臓が止まるほど驚いた。柴を呼び捨てた上に阿呆呼ばわりするなんて。あまりの衝撃に硬直していると玄慶がこちらに気付き、別段隠すことではないからと説明してくれた。同じ集落の馴染みであることや、根城に来ることになった経緯まで。時折気安い態度や物言いが覗くのはそのためかと、やっと合点がいった。ちなみに、あれから柴の徘徊癖は少しだけ改善した。あくまでも少しだけだが。
 あれと玄慶の真剣な眼差しに、どんな関係があるのだろう。
 紫苑が小さく頷くと、玄慶はおもむろに口を開いた。
「柴主のことだ――」
 誰一人いない静かな集落で語られた柴の「秘密」は、これまで感じたどんな衝撃よりも、衝撃的だった。
 ざあっと春のぬるい風が吹き抜け、山桜の花弁をさらう。薄紅色に染まった幻想的な風景の中、紫苑は二の句が継げずに、ただ立ち尽くした。
 不意に獣が草木を掻き分けて走り去る乾いた音がして、はっと我に返る。
「それは……真の話ですか……」
 何とか絞り出した問いに、玄慶はすんなり頷いた。
「ああ。里や集落を含め、若い連中はともかく、ほとんどの者が知っている。おそらく隗や皓もな。当時は、三鬼神同士の戦も頻繁にあった。どこからか漏れても不思議ではない」
 戦で思い出した。
「もしや、餓虎との戦のあと、五日も眠ったままでおられたのは」
「定かではないが、影響はあるだろうな」
「では……、柴主が、時折お一人でどこかへ行かれるのは……」
「おそらく」
 端的な肯定に、紫苑はゆっくりと視線を落とした。
 餓虎との戦のあと、柴が五日間の眠りから覚めたあの日の夜。広場で一人佇んでいたのは――あの時感じた不安は、もしや。
 こんな話は、集落にいた頃も根城に来てからも、一度も聞いたことがない。父と母は知らなかったのだろうか。だが、調べればすぐに真偽が分かるような嘘をつくほど、玄慶は馬鹿ではない。そもそもこんな嘘をつく理由がない。だとしたら、嘘偽りのない、全て真実。嘘なら問題になるが、真実ならば噂くらい耳にしてもおかしくない。それなのに一切聞かないのは、おそらく新たに知った者の間で混乱を招く恐れがあるから。ならば何故。
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