第7話

文字数 4,289文字

 沈黙を破ったのは、男だった。すいと滑るように移動した男の視線は小田原に向けられていて、大河は道を開けるように横に避けた。
 目の前で止まった男を真っ直ぐ見据える小田原の顔には、驚きも怯えもない。
 男が、ゆっくりと大きく口を開いた。それを小田原は瞬きもせず注視し、しかし、しばらく考え込むと申し訳ない顔をした。
「あっ」
 その様子を見て、大河はボディバッグから携帯を引っ張り出して急いで検索をかけた。画面に表示し、携帯を男に向ける。そこには、五十音表。
 ああ、と小田原と男が感心する。男の透明な指が、画面を差した。こ、め、ん――ごめん。怖がらせて、ごめん。
 小田原は一瞬声を詰まらせ、
「いえ、そんな……」
 小さく呟いて、泣きそうな顔で男を見上げて小さく首を横に振った。男はもう一度画面に視線を落として指を滑らせる。か、ん、は、つ、て――頑張って。
 小田原が涙を堪えるようにぐっと唇を結び、引き締めた顔を上げる。
 同じ女に騙された、二人の男。一人はショックのあまり不注意で事故死し、一人は、生きている。
「ありがとうございます」
 ほんの少しだけ震えていた声は、それでも改めて決意を胸に抱いたような、力強い声だった。
 男は満足気に頷いて小さく深呼吸をすると、少年を振り向いて移動した。宗史と晴が左右に避けた。
 男は立ち止まり、自分を見上げてくる少年を見下ろした。愛しさと、切なさと、申し訳なさが混じった複雑な色をした瞳が、ゆらりと揺れる。ゆっくりと開いた口が紡いだのは、たった三文字の言葉だった。三度だけ口を開いて、男は閉じた。
 少年はまるで睨むように男を見据え、盛大に溜め息をついた。
「あのさ。謝るくらいなら初めからあんなくだらねぇ女に引っ掛かんじゃねぇよ。アホ親父」
 眉尻を下げ、呆れ顔で笑って悪態をついた少年に、男は申し訳なさそうに肩を竦めた。
「昔からお人よしっつーか、ぼーっとしたとこあったけど、まさか女に騙されるなんて……」
 少年は一拍置いて、俯き加減で呟いた。
「ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、母さんの若い頃に似てたよな」
 思いもよらない言葉が飛び出して、大河たちは目をしばたいた。
 高校生の息子がいるのなら、若くても男は四十手前くらいだろう。ないとは言えないが、金の話を持ち掛けられていたのなら、さすがに疑ってもいいのではと思うくらいの年の差だ。それでも信じたのは、亡くなった妻の面影があったから。もちろんそれだけで惹かれたわけではないだろうが、彼は、沙織の向こう側に妻の姿を見ていた。だが、その結果が――。
 少年が視線を上げた。
「親父のことだから、母さんの代わりにして悪いなーとか思ってたんだろ。親父が母さんにベタ惚れしてんの知ってるし、だからしょうがねぇとは思うよ。でも、いくら見た目がちょっと似てるからって、あんな女が代わりになるわけねぇだろ。見る目なさすぎ。つか母さんに失礼。大体、自分を騙した女に罪悪感なんて覚えてんじゃねぇよ。お人よしにも程があるわ、馬鹿」
 男が姿を現していたのは、息子を守るためだけではなかったのか。しかし、こればかりは少年に同意だ。大河だけでなく、宗史や晴、さすがに小田原も呆れ顔をしている。男は面目なさそうに頭を掻いた。
 少年はもう一度大きく息を吐いて、にっと歯を見せて笑った。
「安心しろよ。もう殺してやろうとか思ってねぇし。それに、俺は親父みたいにくだらねぇ女に引っ掛かったりしねぇから。俺がしっかりしてんの知ってんだろ」
 自画自賛した少年に、男は少し寂しそうな顔で笑った。そして、しっかり者の息子へ手を伸ばし、頭を撫でた。
「人前でやめろって。子供じゃねぇ」
 そう言いながらも振り払う素振りを見せない少年は、俯いて撫でられるがままだ。決して感じるはずのない温もりを、少年も感じているのかもしれない。
 やがて男は、名残惜しそうに手を離した。顔を上げた少年をじっと見つめ、目を伏せる。ゆっくりと瞼を持ち上げ応接セットとデスクの間まで移動すると、大河と宗史、晴を順に見やった。
 (しげる)の時は、恵美(めぐみ)真由(まゆ)も自らあの世へと旅立った。けれどピアノの時の女性同様、男は自ら成仏することはないようだ。何か他に、心配事でもあるのだろうか。
「よろしいですか?」
 宗史が穏やかな声で尋ねた。男は不思議そうな顔をする少年を見つめ、一瞬躊躇うように一呼吸置いた。どれだけ強がっていても親からしてみれば子供は子供で、しかも母親もおらず、まだ高校生だ。逝くことに躊躇わないわけがない。
 けれど、安心しろと、息子が言う。
 男が、こくりと小さく頷いた。
 それを見届け、宗史は了承の言葉の代わりに目を伏せ、大河に視線を投げた。
「大河」
「……うん」
 本音を言うと、あまり気が進まない。
 握っていた携帯をしまいながら一歩一歩、床を踏みしめるように男の前へ進み出る大河を見て、首を傾げた少年が宗史と晴を見上げた。
「これから、あの世に送る」
「は?」
「あの……っ」
 小田原が申し訳ない顔で口を挟んだ。
「ごめん……。実は、僕が頼んだんだ……除霊師」
「え、除霊師……?」
 うん、と小田原が頷くと、少年は大河の背中に視線を戻した。
 背中に視線が刺さって、動けない。父親を目の前で除霊されるなんて、どんな気持ちだろう。気持ち悪いと言った香苗の父親の言葉が、脳裏を掠った。
 足を止めて俯いた大河を、男は心配そうに見下ろして、少年に視線を投げた。その視線を受けた少年はもう一度大河の背中を見据え、ふぅん、と相槌を打った。
「いいよ、お前なら」
 あっけらかんとした声に、大河は勢いよく振り向いた。宗史と晴、小田原も驚いた顔で少年を見た。
「むしろ早く送ってやってよ。母さんのとこにさ」
 にっと笑ってそう付け加えた少年に呆気にとられ、しかしすぐに大河は顔を引き締めて頷いた。
 母さんのところへ――面影を求めるほど愛した人の元へ送り届けて欲しい。父親は息子の、息子は父親の気持ちを汲んだ。それに、応えなければ。
 大河は男へ向き直り、ポケットから霊符を取り出した。指に挟んで、左手の人差し指と中指を唇に添える。見上げると、男が微笑んだ。
 大河は霊符を男の胸の辺りに掲げ、息を吸って真言を丁寧に声に乗せる。愛した人とまた会えますようにと、願いを込めて。
「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ。帰命(きみょう)(たてまつ)る、愛執済度(あいしゅうさいど)道途光明(どうとこうみょう)光許嚮導(こうきょきょうどう)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)
 霊符が大河の声に反応して指から離れ、男の胸の前で自立し、纏っていた仄かな光で彼を包み込む。大河は踵を返して小田原の側で足を止め、再び振り返った。
 スーツの色を基調にした紺色の淡い光の粒子が、男の足元から舞い上がる。ネクタイの緑色に、ワイシャツの白。ピンクや黄色、紫にオレンジ。色とりどりの粒子はとても綺麗だけれど、以前と違って、少し切ない。
 少年は目を丸くして、光に飲み込まれるようにして消えていく父親の姿を見つめている。父親の目に、じわりと涙が浮かんだ。それを見た少年が、呆れた顔でふっと笑う。
「親父」
 少年は一呼吸置いてから、にっと歯を見せて意地の悪い笑みを浮かべた。
「あの世で思う存分母さんに叱られろ」
 父親は虚をつかれた顔で何度か瞬きをすると、分かりやすく狼狽した。笑い声を上げた少年に縋るような目を向ける。
「自業自得だ、ばーか」
 別れの場に似合わない悪態をつく少年と、肩を竦めて笑みを浮かべる父親。そんな光景は酷く切なくて、大河はこぼれそうになった涙を、唇を噛んで必死に堪えた。
 天井へ昇る光の粒子は、霊符と共にゆっくり父親を連れていく。首、顎、唇、鼻、そして目。
 完全に消え去るまで、少年は父親から目を離そうとしなかった。睨むような険しい顔で、体の横で握った両手を強く握り締め、最後の粒子が空に溶けるまでじっと、そこに立ち尽くしていた。
 少年と男は、本当に仲の良い親子だったのだろう。少し頼りない父親と、しっかり者の息子。母親を亡くした時から、二人で力を合わせて生きてきた。また小田原も、確かに少々頼りない感はあるが、見た目もいいし優しい。どう考えてもモテそうなのに、恋愛には縁がなかったと言った。それだけ演技に夢中だったのだ。
 夢を語りながら、そんなに甘い世界ではないと言った小田原の言葉が脳裏をよぎる。
 恋も夢も、どれだけ真剣でも、叶わないかもしれない可能性があることを一番理解しているのは、本人だ。もちろん叶える前提で努力をしているのだろうけれど、それでもいつも頭の片隅にあって、些細なことで自分を信じられなくなって、心が折れそうになる。叶わないかもしれない恐怖と闘っているのは、誰でもない本人なのだ。
 それでも人は誰かを好きになるし、夢を追う。そんな人を、悪意を持って馬鹿にして笑う資格も、ましてや騙して奪う権利など、誰にもない。
 最後の粒子が弾くように消えてから、少年が脱力するように息をついた。
「なあ」
 不意に声を上げ、大河を見た少年に視線が集まる。
「お前、名前は? フルネーム」
 視線を向けられて、大河は自分で自分を指差した。
「俺?」
「そう」
「……刀倉大河」
 小首を傾げて答えた大河に、少年はにっと歯を覗かせて笑った。
「俺、早坂翔太(はやさかしょうた)。実は、俺もオスクのファン」
「えっ、ほんと!?」
「ほんとほんと。一番好きな曲はトワイライト」
 アルバムに収録されている曲で、黄昏という意味のタイトルとは裏腹に、ライブでは滅多に演奏されない激しい曲だ。あの曲を知っているのなら、間違いない。
「だからさ、さっきのお前の質問の意図全部分かった。それに、俺ら初対面だろ。あんな風に怒ってくれる奴って、なかなかいねぇからさ。こいつなら親父のこと任せても大丈夫だって思えた。ありがとな」
 ありがとな――その一言が、自信になる。
「ううん。俺の方こそ、ありがと。信じてくれて」
 照れ臭そうに笑った大河に、少年――翔太は笑みを返すと、小田原に視線を移して頭を下げた。
「すんません、迷惑かけて」
「あ、ううん。僕の方こそ……その、まさかお父さんだとは思わなくて……」
 除霊を依頼した責任を感じているのだろう。眉尻を下げた小田原に、頭を上げた翔太がふっと噴き出す。
「そんなん当たり前じゃないすか。責任感じないでください。すげぇ迷惑かけたの、俺らなんすから……」
 ふと翔太が顔を曇らせると、宗史が口を開いた。
「早坂くん」
「え、あ、はい」
「俺たちも上に報告を上げなければいけない。簡単でいいから、経緯を説明してくれないか」
「はい」
 一度睨まれているからか、翔太は緊張の面持ちだで頷いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み