第11話

文字数 5,067文字

「下平さん」
「うん?」
「もう一つ、話してないことがあるんです」
 そう言って、冬馬は俯いたまま語った。弱味を良親に握られていた、と。
「おい、それ大丈夫なのか?」
「はい、今日は福岡にいるので。調べればすぐに分かります。さすがに県外まで追わせたりはしないでしょう。追ったとしても移動は車ですし、常に誰かが同行してます。手を出す隙はありません」
 そうか、と下平は息をついた。今日が実行日だったのは不幸中の幸いだ。もし彼らが京都にいたらどうなっていたか、考えただけでもぞっとする。
「お前はどうなんだ。何かやらされたりとかしなかったのか」
「それが特に」
 下平は怪訝そうに眉をひそめた。
「本当か?」
「本当ですよ。時々牽制してきましたけど、それだけです。俺も戸惑いました。脅すようなことを言っておいて何もしてこないのなら、どうしてわざわざ俺に言ったのか。……あいつの考えていることは、よく分かりません」
 そう言って冬馬は溜め息をついた。弱味を握り脅しておきながら何もしない。冬馬を狙った理由もはっきりしない。良親は、一体何がしたかったのだろう。
「ああ、そうだ」
 冬馬が独り言のように呟き、携帯を尻ポケットから取り出した。とたん、溜め息を漏らした。
「どうした」
「いえ、液晶が割れてます。壊れてはないですけど」
 買い替えだな、と面倒臭そうに一人ごちた。散々殴られたと言っていたからその時だろう。液晶を操作していた冬馬が、ふっと短く噴き出した。
「リンとナナからの着信がすごいですね。メッセージも。サイレントにしてたんで気付きませんでした」
「あー、俺が榎本に送ってやれって言ったきりだからな。何だって?」
「無事保護してもらった報告と、いつでもいいから連絡が欲しいと」
「すぐしてやれ」
「はい」
 冬馬はすぐに携帯を耳に当てた。リンは冬馬を好いている。今日は怖かっただろうし、声を聞いて安心したいのだろう。
「もしもし冬馬さん!? やっと連絡来たぁ――――!」
 繋がるや否や、鼓膜を直撃したリンの声に冬馬が携帯を離した。元気で何よりだ。
「ナナ、ナナ! 冬馬さんから、早く早く!」
 リンがナナを呼ぶ声が漏れ聞こえ、下平はぎょっとした。
「おい、なんであいつら一緒なんだ。どこにいるんだ」
 送ってやれと言ったのに、榎本は何をしている。声をひそめて尋ねると、冬馬はスピーカーに切り替えた。
「リン、お前今どこだ?」
「あたしの家だよ」
「冬馬さん、ナナです。実は、榎本さんに送ってもらったんですけど、リン一人暮らしだからちょっと心配で。泊まることにしたんです」
「ナナのお泊まりセット一式置いてあるから大丈夫!」
 それは心配していない。下平は嘆息し、もしや携帯の着信履歴は榎本一色になっているのだろうかと不安にかられた。明日何を言われるか、想像したくない。
「それならいい。怖くなかったか?」
「ちょっとだけ。でもナナが一緒だったから平気だったよ」
「そうか。連絡遅くなって悪かったな。まさか昨日の今日でこんなことになるとは思わなかった。どうしても外せない用事があったんだ」
 一瞬、沈黙が流れた。下平と冬馬が同時に首を傾げる。
「用事って、何?」
 さっきまでとは打って変わって落ちたトーンの声に、下平はピンと来た。用事と聞いて何故すぐそっちに考えるのか謎だが、恋は盲目という。恋愛中の脳は総じて分析が難しい。
「用事って何? 冬馬さん」
 ちょっとリン、とナナの窘める声がする。
「……彼女、できたの?」
 悲しげな声に、冬馬が少々困った顔をした。冬馬がリンをどう思っているのか知らないが、連絡してやれと言って先にリンの方へかけてやるくらいには気にかけているようだ。
 さてどう答えるのだろう、とにやにやしながら待つ。こういう場合、何故か何度違うと否定しても素直に信じてくれない。不安ゆえの疑心なのだろうが、その不安と疑心を取り除くまでがなかなか手間もかかるし面倒なのだ。いや、そもそも冬馬とリンは恋人同士ではない。悩む必要があるのか。
 と、ちょうど赤信号で停車して、冬馬が計ったようについと携帯を出してきた。見やると、じっと上目遣いで訴えられた。
 まあ、それが一番手っ取り早いか。下平は嘆息した。
「リン、ナナ、俺だ」
 信号を気にしながら電話口に出ると、あれっ、と二人が驚いた声を上げた。
「下平さん?」
「何で下平さんが冬馬さんと一緒にいるの?」
 そう来るだろうと思っていた。下平は迷うことなく答えた。
「ちょっとな、捜査に協力してもらってたんだよ。今その帰りだ」
「捜査って?」
「言えるわけねぇだろ」
 少し考えれば分かることを突っ込むところがリンだ。あ、そっか、と納得するとナナが言った。
「下平さん、今日はありがとうございました。助かりました」
「いや、いい。お前らが無事で良かった」
「ご心配おかけしました。でも、一日であたしたちの職場までどうやって調べたんでしょうか」
「あ、確かに。昨日会ったばっかりなのにね」
 二人は、つけ狙っていた男は草薙の仲間だと思っている。下平は、さあなぁと濁した。
「まあ、警察官と顔見知りってのは分かっただろうしな」
 ナナの方は撒いたけれど、リンを尾行していた男は榎本たちに保護される場面を見たはずだ。その後どうしたのかは知らないが、生き残った仲間と連絡を取り合って話を聞いたかもしれない。さすがにすぐには信じないだろうが良親と譲二、他の仲間が本当にいなくなったと分かればおのずと実感するだろう。
「でも油断はするなよ。ああいうボンボンはプライドが高くてしつこいって昔から相場が決まってんだ。しばらく注意しとけ」
「はい、分かりました」
「はーい」
 リンの軽い口調はいまいち不安だ。良親の件は終わったが、龍之介に反抗したことは事実だ。本当に狙われないとも限らない。
 と、リンがこちらに聞こえるくらい盛大に安堵の息をついた。
「でも良かったぁ、冬馬さんに彼女できたのかと思っちゃった。びっくりした」
 リンにとって今はそちらの方が重要らしい。冬馬が呆れたような困ったような顔をした。
「ね、どこに行ってたの? それも言っちゃ駄目?」
「いや、そのくらいならいい。宇治だ」
 信号が青に変わり、発車させながら下平が答えた。
「えー、いいなぁ。じゃあ下平さん、冬馬さんとドライブしてるんだ」
「捜査だっつっただろうが」
「捜査が終わったら、帰ってくるまでドライブみたいなものじゃないの?」
「仕事中だ!」
 こいつの思考回路はどうなっている。噛み付くように反論すると、冬馬とナナの笑い声が響いた。嘘の理由に何故ここまで必死にならなければいけないのか。疲れる、と下平がぼやくと、冬馬が携帯を引っ込めた。
「リン、ナナ」
「何?」
「はい」
 冬馬は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「今度、智也と圭介も誘って、皆でどこか行くか」
「え……っ」
 リンが短く驚いた。そして。
「行く行く、絶対行く! やった、冬馬さんとデート! なに着て行こう!」
 甲高いリンの歓声と、苦しい苦しい、とナナのくぐもった声が聞こえた。いつものようにじゃれ合う二人の様子が目に浮かぶ。微笑ましくも思えるが、リンを気に入っている智也が少々不憫にも思えた。リンの眼中には冬馬しか映っていない。
「冬馬さん、いつ!? いつ行く!?」
 すっかり興奮したリンに、冬馬がそうだなと逡巡した。
「お前たち、休み申請だろ。二人で決めていい。俺たちは適当にシフト調整できるから、決まったら早めに教えてくれ」
「分かった!」
「分かりました」
「それと、行きたいところも決めとけよ。あいつらにも言っとくから」
「はーい」
 良い子の返事に、冬馬が小さく笑った。
「じゃあな、ちゃんと戸締まりして寝ろよ」
「うん、分かってる。ありがと」
「おやすみ」
「……うん、おやすみなさい」
 言葉とは裏腹に、まだ切りたくない、とリンの声が言っていた。なんというか、聞いているこっちが照れ臭い。まるで恋人同士の会話を盗み聞きしている気分になる。
 リン切るよ、ん、と二人の会話が小さく聞こえた。
「じゃあ、お疲れ様です、おやすみなさい」
「ああ」
 ナナの律儀な挨拶を最後に、通話が切れた。デートならぬ出掛ける提案は、冬馬なりの二人への謝罪、そして智也と圭介への感謝の気持ちか。
 冬馬は携帯を握ったまま、脱力するように息を吐いた。
「安心したか?」
「ええ。けど、草薙の件はまだ油断できません。ありがとうございました、言ってもらって」
「いや。もしなんかあったら言えよ」
「ありがとうございます。あ、そこで停めてください」
 冬馬が指定した場所は、本当に晴明神社のすぐ側だった。下平はゆっくりと路肩に寄せて停車する。どう見ても単身者向けのマンションではない。一介の店長が払える家賃レベルの物件とは思えないが。
「お前、本当にここに住んでんのか?」
 パーキングブレーキを入れながら尋ねると、冬馬はシートベルトを外しながら答えた。
「オーナーの持ち物なんです。以前はオーナーが住んでいたらしくて、遊ばせておくのももったいないから使えと。家賃もいらないと仰るんで、助かってますよ」
「は――、なるほどねぇ」
 なんと太っ腹な、と感嘆の息を吐きながら、ノブが言っていたことを思い出した。こんな待遇を受けていれば、冬馬がオーナーのお気に入りだと言われるのも頷ける。
「そうだ、下平さん……」
 ドアハンドルに手をかけた冬馬が振り向いて、不意に止まった。
「ん、何だ?」
 じっと凝視してきたと思ったら、いえ、と呟きおもむろに携帯を取り出した。
「一つ頼みたいことがあるんです。後日連絡するので、携帯の番号を教えてもらえますか」
「構わんが、頼みたいこと?」
 冬馬から頼みごとなど今まで一度もない。特に断る理由もないが、一体何だ。携帯を操作しながら下平が首を傾げると、冬馬は赤外線ポートを合わせて苦笑いを浮かべた。
「別に変なことじゃないですよ。……樹に、渡して欲しい物があるんです」
「樹に?」
 ええ、と頷き、冬馬は携帯を引っ込めた。何かは言うつもりがないらしい。出入りしていた頃の忘れ物だろうか。
「今日は本当に色々とありがとうございました。ご迷惑をおかけしてすみません」
「もう気にするな。それより、部屋まで行けるか?」
「大丈夫ですよ。意外と心配症ですね」
「そりゃあんな姿見てりゃあな。体調戻らなかったらすぐ病院行けよ」
「はい、そうします」
 冬馬は車から降りると、腰をかがめて覗き込んだ。一瞬躊躇うように薄く唇を開き、ぽつりと尋ねた。
「あの……良親は……」
 どこか後ろめたそうに視線が泳いでいる。無言で首を横に振った下平に、冬馬はそうですかと目を伏せた。冬馬が後ろめたく思う必要はないのに。どんな心境で、最後の最後に尋ねたのだろう。
 冬馬は何かを振り切るように視線を上げ、少しぎこちない笑みを浮かべた。
「じゃあ、お気を付けて。おやすみなさい」
「おお、おやすみ」
 ドアが閉められ、軽く会釈した冬馬を確認してから、下平は車を発車させた。サイドミラー越しに、ペットボトル片手に冬馬がゆっくりとした足取りでマンションへ向かっていく姿が見えた。
 晴明神社の第一の鳥居の前に、こんな時間に観光か、鳥居に携帯を向ける男女の姿がある。樹は、冬馬と一緒に参拝したりしたのだろうか。
 あの頃の二人の姿が脳裏を掠め、下平は眉根を寄せた。
 冬馬がいれば樹もいる、樹がいれば冬馬もいる。いつからか、それが当たり前のように思っていた。互いが隣にいることが当然のように、一切の違和感なく共にいた。だから、あの時見逃したのは間違いではなかった。そう思っていた時もあった。けれど三年前、樹が姿を消してから後悔した。やはり間違いだったのだ、と。
 では、今は?
 感情をどこかに置き忘れたように無表情だった樹が、笑顔を見せた。あれは作ったものではない。あの時見逃していなければ、三年前のことは起こり得なかった。けれど、あんなことがあったからこそ今の樹がいる。そう思うのは、都合が良いだろうか。
 樹を、冬馬を傷付けた事実は変わらないのに。
 赤信号で停車し、下平は未だ出せない答えと共に、一気にコーヒーを飲み干した。
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