第2話

文字数 4,470文字

「さあ、次は大河くんね」
「あ、はい。お願いします」
 場を仕切り直した夏美の声に、各々が気を取り直して訓練と勉強に戻っていく。
 縁側の下を覗いて気が付いた。靴の横に置かれたゴミ袋の中にうっすらと見えるのは、とぐろを巻いた柴と紫苑の長い髪の毛だ。ぞわっと全身が粟立った。普段は体の一部として認識しているせいだろうか、切るととたんに不気味に見える。
 大河は素早く目を逸らし、訓練用のスニーカーを履いて椅子に腰を下ろした。首にタオルを巻かれ、上からケープをかけられる。目の前では、宗史と晴、昴と華と夏也の二対三の手合わせが始まった。
「首、苦しくないかしら」
「大丈夫です」
 頷くと、夏美は大河の髪をひと房すくい取った。
「どうしようかしら。リクエストある?」
「俺、髪型とかあんまりこだわりないんで。極端に短くなければ特に」
「そうねぇ……」
 夏美は前に回り込んで、じっと大河の顔を見つめた。こんなに見つめられると照れる。大河は瞬きをするついでに視線を逸らした。
「髪の色が綺麗だから、あまり短くするのは勿体ない気がするわねぇ。襟足は伸びちゃってるから切るとして、大河くん、髪をセットしたりする?」
「いえ、しません」
 即答した大河に、夏美はあらと意外そうな顔をした。朝起きてよほど寝癖がついていない限り、適当に櫛を通して終わりだ。お洒落に敏感な高校生のようにワックスでセットするだのカットするだのという考えは、大河にはない。面倒臭い気持ちが先に立つ。
「そうなの? もったいない。ショートレイヤーとか似合いそうなのに」
 しょーとれいやーとは何ぞや。
「高校生だしワックスなしならやっぱりマッシュよね。ナチュラルマッシュで爽やかにいこうかしら」
 マッシュは分かるが、残念ながら細かい区別は付かない。自然栽培されたマッシュルームしかイメージできないのだが、どんな髪型だ。柴と紫苑はこんな感覚なのだろうか。
「襟足は短くしちゃうけど、構わない?」
「はい」
 何が何やら分からないので、大河はとにかく頷いた。皆の髪を切っているのなら間違いはない。
「じゃあ切るわね」
「お願いします」
 夏美は霧吹きで髪を湿らせた後、ブロックごとに分けてクリップで止めていく。
「そういえば、皆の髪は夏美さんが切ってるって聞いたんですけど。いつもここで切ってるんですか?」
「大体ね。弘貴くんたち学生は、学校の帰りにうちに寄ってくれたりもするわ。あ、そうだ。樹くん、そろそろ伸びてきてるんじゃないかしら」
「ああ、寝起きはライオンみたいになってますよ」
「もう、前が見えないと危ないから面倒臭がらずに言いなさいっていつも言ってるのに。まったくあの子は」
 ぼやきながらハサミを動かす夏美に、大河は短く笑った。彼女にかかれば樹もあの子呼ばわりだ。
「夏美殿」
 不意に声をかけたのは紫苑だ。
「大河くん、ちょっと待ってね」
「はい」
 離れた夏美を追いかけるように、大河は振り向いた。しゃがんでくれる? と臆することなく柴に要求し、躊躇いなく髪に触れて後ろや左右の長さを確認する夏美を見て、気付いた。まただ。また、気付くのが遅かった。
 少し距離を取って全体のバランスを確認すると、夏美は満足気に頷いた。
「うん、いいみたいね。自分で見てどうだった?」
「新鮮で良いな。頭が軽くなった」
 夏美は朗らかに笑った。あの長さだとキロ単位で重そうだ。
「気に入ってもらえて嬉しいわ」
「紫苑共々、世話になった。礼を言う」
 背後に控えていた紫苑が会釈をした。
「いいのよ、このくらい。私も楽しかったしね」
 ふふ、と笑って振り向いた夏美と目が合った。柴と紫苑の元へ、お勉強タイムが終わった藍と蓮が駆け寄り、遊ぼうとせがんだ。茂が続いて出て来て、腰を下ろすと置いていた影正のノートを開く。
「どうしたの?」
「あ、いえ……」
 曖昧な笑みを浮かべ前を向き直る。横を、藍と蓮に手を引かれた柴と紫苑がすり抜けた。
 庭の端に植わった桜の木へと向かう柴たちを眺めながら、大河はおずおずと口を開いた。
「あの、夏美さん」
「なあに?」
 湿って束になった髪がケープを滑り落ちる。大河は視線を落とし、ぼそぼそと言った。
「今さらなんですけど、柴と紫苑のこと、怖くなかったですか?」
 頼んでおいて今さら聞くのは勝手だと思うが、二人が鬼だと宗史から聞いていたはずだ。皆がいるとはいえ、じかに触れて髪を切ることに恐怖心がないわけではなかっただろうに。
 そんな大河の予想に反して、夏美はあっけらかんと言った。
「怖くなかったわよ、全然」
「え……」
 大河は視線を落としたまま目を丸くした。クリップが外され、髪がはらりと落ちた。
「どうしてですか?」
「どうしてって、宗一郎さんや宗史もだけど、皆が大丈夫って判断したんだもの。信じて当たり前じゃない」
 店のように鏡がないため夏美の表情は分からないが、そう言った声はとても穏やかだった。宗一郎や宗史、寮の皆への信頼の証。そういえば、夏美や律子、桜は内通者のことを知っているのだろうか。
「それにね、宗一郎さんから聞いたのよ」
 夏美はうふふふと含み笑いを漏らした。
「柴と紫苑はすっごい美形だって」
「……は?」
 間違っていないから否定はしない。けれど、それ関係ある? と言いたい。
「美形って聞いたら見てみたくなるじゃない。しかも鬼でしょ。美形な鬼の髪を切るなんて、貴重な経験だもの。昨日から楽しみだったのよね。それに、鬼の髪を切った人なんて、世界中探してもきっと私くらいだもの」
 浮かれた雰囲気がひしひしと伝わってくる。
 まさかこんな答えが返ってくるとは思わず、大河はふっと小さく噴き出した。陰陽師家当主の妻だとはいえ普通の女性だ、とばかり思っていたけれど、甘く見過ぎていた。さすが、宗一郎が見染めた人だ。
「確かに」
 肩を震わせて同意した大河に、でしょ? と言いながら、夏美はサイドのクリップを外した。
「それにほら、宗史から昨日のことを聞いていたから」
「ああ、朝の」
「そう。もう皆大笑い。今日も帰ったら様子を話すように言われてるんだけど、笑い死にしないかしらねぇ」
 するんじゃないですか、とはさすがに言えない。大河は空笑いで聞き流すことにした。
「桜もね、あの子ほとんど外に出られないから、いつも宗史の話を楽しみにしてるのよ」
「……宗史さん、どんな話をしてるんですか?」
「そうねぇ、例えば……大河くん、全身筋肉痛は大丈夫? 樹くんにいじめられたんでしょ?」
「いじめ……っ」
 大河は声を詰まらせ、凛々しい顔をして昴に指導する宗史をこっそり睨み付ける。
「別にいじめられたわけじゃないです。筋肉痛も昨日より良くなりました」
 むっと唇を尖らせて反論すると、夏美はくすくす笑った。
 やっぱり余計なことを言っていた。ということは、これまでのことも全て夏美たちに伝わっているのか。人をネタにしやがって、と憎たらしく思いながら話しを逸らす。
「桜ちゃんと律子(りつこ)さん、元気ですか?」
「ええ、元気よ。お義母(かあ)さんはもちろんだけど、桜はいつもと比べて調子の良い日が多いわ。これも大河くんのおかげかしら」
「俺?」
 何もしていないのだが。首を傾げる代わりに目をしばたくと、夏美はええと頷いた。
「笑うと免疫力が上がるって聞いたことない?」
「初めて聞きました。ストレス発散になるのは知ってましたけど」
「それもあるけど、最近では医学的に実証されているらしくて、病気の予防や治療にも取り入れられてるそうよ。桜は体の機能自体が弱いから当てはまるのか分からないけど、でも実際調子の良い日が多いのは確かなの。もしかしてそのせいかしらって、お義母さんと話してるのよ」
 大河は宗史へ視線を投げた。まさか、それを分かって話しているのだろうか。
 だとしたら、ネタになるくらい何でもない。桜に良い作用をもたらし、元気になってくれるのならいくらでもネタになる。
「そうだとしたら、嬉しいです」
 そう言ってはにかんだ大河に、夏美が相好を崩した。
 お前今の反則だろ、どこがだ、と何があったのか喧嘩を始めた宗史と晴に華たちの笑い声が重なる。
 桜の木の下では、柴たちが上を見上げていた。藍と蓮にせがまれ、柴が地面を蹴ってふわりと跳んだ。かなり上の方で鳴いていた蝉を素手で鷲掴みにしたらしい、うきうきした顔で待ち構えていた藍と蓮に手を広げて見せた。息巻いて鳴いていた蝉は、それはそれは驚いたことだろう。
 藍と蓮が覗き込み、そろそろと手を伸ばす。と、ジジッと鳴き声を上げた蝉が、一瞬のうちに羽を広げて飛び去り、咄嗟に蓮が見上げたまま駆け出した。
「おい、走ると転ぶぞ」
 紫苑が声を張って注意を促すと、皆が動きを止めて見やる。とたん、派手に転んだ。見事なスライディングだ。あらあら、と夏美はのんびりと呟き、縁側で茂もおやおやと暢気な声で言った。こんな時は一目散に駆け付けるはずの華と夏也も、一瞬驚きはしたが、あーあと残念な声を漏らす宗史たちと一緒になって様子を見守っている。
 柴と紫苑がいるから大丈夫。そんな空気が伝わって、大河は頬を緩めた。
「転ぶと言うたであろう」
 紫苑が溜め息交じりに言いながら歩み寄り、蓮の両腕を掴んでひょいと立ち上がらせた。今にも泣きそうな顔をした蓮の前でしゃがみ込み、砂まみれの服をはたいてやる。
「怪我はないか」
 そう問うたとたん、蓮の顔がくしゃりと歪んだ。あ、泣くかなと思った時、紫苑が再度溜め息をついて立ち上がった。蓮を反転させ、両脇を掴んで高く抱え上げる。
「泣くな。()()が簡単に泣くものではない」
 蓮を肩車しながら、そう諭す。長身の紫苑に肩車をされれば相当眺めはいいだろう。すぐに涙が引っ込んだようで、蓮は紫苑の頭にしがみつくようにして笑い声を上げた。それを見て大きな目をキラキラさせた藍に袖を引っ張られ、柴が同じように肩車をしてやる。
 笑みを浮かべて宗史たちは訓練を再開し、茂はノートに目を落とした。
「鬼だってこと忘れそうになるわね。大河くん、目をつぶってくれる?」
 夏美に言われて、大河は目を閉じた。
 降り注ぐ夏の日差しを掠めるように吹く、ぬるい風。蝉の合掌に重なるのは、どこからか聞こえる赤ん坊の泣き声だ。宗史たちの動きに合わせて、地面を蹴る音と荒い息使いが届く。茂がノートをめくる微かな紙擦れの音と、ハサミの音が同時だった。藍と蓮の笑い声に、柴と紫苑の落ち着いた話し声。
 そろそろ、弘貴たちが宿題を終わらせて下りてくる頃だ。樹と怜司は昼過ぎにならないと起きてこない。今日の訓練はどうするんだろう。独鈷杵と体術もしたいけれど、新しい真言も覚えたい。
 やりたいことも、やらなければいけないこともたくさんある。それでも、このまま時間が止まればいいのに、なんて歌の歌詞みたいな言葉が浮かぶ。
 そうすれば――、
「はい、終わり」
「そろそろ終わりにしましょう」
 夏美と宗史が同時に告げた終了に、大河は現実に引き戻された。ゆっくりと瞼を上げ、強い日差しに何度か瞬きをする。
 ――考えなくてすむのに。
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