第13話

文字数 3,495文字

 妙子を立ち去らせた数分後に、救急車と応援の警察官が到着。救急隊員によって岡部が運ばれ、熊田と佐々木は発見時の状況を説明した。別の事件の被疑者の捜索中に偶然見つけた、と。
「おそらく腎臓病ではないかと思われます。種類が多いので、詳しくは検査をしてみないと何とも」
 周囲に漂う強烈な臭いに顔を歪めた救急隊員の答えに、熊田と佐々木は顔を曇らせた。
 腎臓の主な働きは、血液をろ過し老廃物と必要なものを分け、尿を作ることだ。また尿の量を調節して体内の水分量を一定に保つ役割もある。ゆえに、腎臓が何らかの理由で冒され機能が低下すると、尿となった老廃物が排泄されなくなり、水分が体内に溜まる。さらに進行すると、体からアンモニアの臭いがするらしい。あの様子では治療はおろか、検査すらしていないだろう。
 引き継ぎを終わらせ、熊田と佐々木は廃屋をあとにした。無言で駐車場まで戻り、警察や鑑識車両を横目に車に乗り込む。
 とたん、同時に溜め息が漏れた。沈黙が落ちた車内に、外から騒がしい声が届く。
 あの事故の内容は、もちろん紺野から聞いていた。長い警察官人生で、悲惨な事件や事故も目の当たりにしてきた。だからといって慣れるものではないが、今気分を重くしている原因は、そこだけではない。
 妙子は、岡部の言葉を聞いてどう思ったのだろう。六年もの間、単独で岡部を探すほどだ。寮の者たちと同様、過去に何かあったのかもしれない。そしておそらく、栄晴に救われたのではないか。もしそうだとすると、よく飛び出してこなかったものだ。
 また彼女は、どこまで明たちに報告するのだろう。もうしているかもしれない。明はすでに右京署へ任意同行されているだろうから、するのなら宗一郎だ。そして彼から、晴や陽はもちろん、きっと宗史へも伝わる。
 六年もの間逃げ続けた上に、ほとぼりも冷めているかと思った、などと言ったと聞かされる彼らの心境は、察するに余りある。
 熊田はもう一度息をつき、気持ちを切り替えた。いつまでもこうしているわけにはいかない。何より、自分以上にまいっているのは佐々木の方だ。
 俯いて膝に抱えたショルダーバッグの上で両手を握り締めたまま、じっと唇を噛んでいる佐々木を見やり、熊田は痛々しげに目を細めた。彼女の父親を殺害した犯人は、二十年以上逃げ回っている。この世のどこかで、のうのうと生きているのだ。引き継ぎの間は気丈に振る舞っていたが、重ねるなという方が無理だろう。
「……佐々木、大丈夫か?」
 静かに声をかけると、佐々木は我に返ったように顔を上げて振り向いた。
「あ、はい。すみません、だい……」
 大丈夫です、という言葉を飲み込んで、佐々木は嘆息した。
「……ずいぶん前に、諦めたつもりだったんですが」
 やっぱりか。先日、下平に自分も被害者遺族だと告げた言い方から、そうだろうとは思っていた。けれど、独自で探して犯人を見付けた妙子たちを目の当たりにすれば、気持ちが揺れるのは当たり前だ。
 駄目ですね。そう呟いて佐々木は自嘲気味に笑い、ふいと車窓へ視線を投げた。
 かける言葉が見つからない。何を言っても気休めにすらならないだろう。
「……熊さん」
「うん?」
 ぽつりと呼ばれて振り向くと、佐々木はしばらく窓の外で忙しそうに動く警察官たちを眺めてから、よし、と一人ごちた。
「あたし、もう一度調べてみます」
 はっきりと力強く宣言し、佐々木は振り向いた。
「あの頃には気付けなかったことが、今だからこそ気付けるかもしれません。あ、もちろんこの事件が終わってからですよ。今はこっちが優先です」
 そう言った佐々木は、迷いが吹っ切れた力強い眼差しをしていた。
 捜査資料は、当時の状況を詳細に記した記録はもちろん、凄惨な現場や被害者の遺体写真も残され、遺留品として血痕が付着した衣服やその他多くの押収品もある。遺族としてそれらを見るのは、苦痛でしかないだろうに。
 いくら警察官とはいえ、かなり神経を擦り減らす。
 熊田は伏せ目がちに嘆息した。紺野といい佐々木といい。どうしてこう、自分の後輩は自ら苦行の道を選ぶのか。
「ったく、お前らは」
 今度は盛大な溜め息をついて、熊田は内ポケットを探った。
「よし分かった。何か協力できることがあったら、俺も手を貸す。その時は言えよ? 一人で抱え込もうとすんな。いいな」
 引っ張り出したメモをひらひらと振ってそう言い聞かせると、佐々木は目を丸くして、肩を竦めてはにかんだ。
「ありがとうございます」
 照れ臭そうに笑った佐々木にほっと胸を撫で下ろし、熊田はメモを手渡した。
「宮沢さんから、一度連絡くれって言われたんだよ。とりあえず引き上げるから、かけてみてくれるか」
 シートベルトをし、エンジンをかけながら言うと、佐々木は首を傾げた。
「ええ、分かりました。何ですかね?」
「さあなぁ。でもまあ、確認したいこともあるしな」
「ああ、岡部の居所ですか」
「ああ」
 後方を確認しバックする。気付いた制服警察官の誘導に従って道路に出ると、軽く会釈をし、熊田は来た道をゆっくり引き返した。
「多分、下平さんの部下と同じで『主』に会ったんだろうけど、一応聞いてみてくれ」
「了解です」
 佐々木はメモを見ながら番号を入れ、携帯を耳に当てた。すぐに繋がったようで、もしもしとワントーン高い佐々木の声が車内に響く。
 妙子の携帯で間違いないか確認してから名前を告げた。
「はい、神社を出て引き上げてきたところで……え? ええ、構いませんが……、少々お待ちください。――熊さん」
「うん?」
 佐々木が携帯の下の部分を手の平で押さえて熊田を振り向いた。
「宮沢さんが、今から会えないかと」
「今から? そりゃあ、別に構わんが……」
 熊田は逡巡し、サイレンを聞きつけて集まった野次馬を見て、速度を落とした。
「分かった。今どこにいるか聞いてくれ」
「はい」
 佐々木も神妙な顔で頷き、電話口に戻った。
 妙子は、熊田たちが入った方とは逆の、南側の道から出たらしい。JR奈良線の藤森駅で待っていると言った。
 近くに大学と大きな病院はあるが、周辺は住宅街だ。サークルか何かの集まりか、大学生らしき集団や、ベビーカーを押した主婦、中学生くらいのジャージ姿の集団も見える。
 妙子は、夏の日差しを避けるように、エントランスの屋根の下で静かに佇んでいた。
 信号のない横断歩道を少し過ぎた辺りで停車し、佐々木が車を降りる。すると妙子はすぐに気付いて軽く会釈をしながら、小走りで駆け寄った。
 横断歩道で両側を確認して渡った妙子を、佐々木が後部座席のドアを開けて迎え入れる。
「すみません、お待たせしました」
「いえ、とんでもありません。こちらこそ、突然のことで申し訳ありません」
 互いに気遣いながら二人が車に乗り込み、熊田が妙子を振り向いた。
「暑かったでしょう。とりあえずどこかに入りますか。俺たちも喉乾いたしな」
「賛成です。構いませんか?」
 振り向いて笑顔で尋ねた佐々木に、妙子は「はい」と頷いて笑顔を見せた。神社にいる時より、少し力が抜けたようだ。
「じゃあ、そうだな……」
 熊田はふと思い立ち腕時計を確認した。昼には少し早い時間だが。
「宮沢さん、お腹空いてませんか」
「あ、はい。実はちょっと……」
 素直に白状し、照れ臭そうに笑った妙子に思わず笑みが漏れる。この灼熱の中、水分は摂っていただろうが、山を登ったのだ。しかも熊田たちより前に神社に到着していた。朝早くから動いていたに違いない。
「では一緒に昼飯でもどうですか」
 予想外の提案だったらしい、妙子は一瞬目を丸くして、しかし嬉しそうに笑った。
「いいんですか? じゃあ、ご一緒させていただきます」
「よし、決まりですね。佐々木」
「今調べてますよ」
 佐々木を振り向くと、すでに携帯をいじっていた。周辺の店を調べているらしい。熊田は苦笑いをして体勢を戻す。
「俺は優秀な部下を持って鼻が高い」
「あたしは熱しやすい先輩を持って大変です」
「それが俺の個性だからな」
「あたしから言わせれば、熊さんも紺野くんも大差ありません」
「やめろ、あいつと一緒にするな」
「何言ってるんですか。あたしが何度仲裁に入ったと思ってるんです」
「すまん、悪かった。あの頃は俺もまだ若かったんだ」
「それこそやめてくださいよ、老けた気になります。あ、熊さんが好きなファミレスありますよ。十分もかかりません」
「お、マジか。宮沢さん」
 嬉しい報告に顔を輝かせて振り向くと、妙子が口に手をあてがって肩を震わせていた。何かおかしなことでもしただろうか。熊田と佐々木は小首を傾げて顔を見合わせた。
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