第18話

文字数 3,560文字

「俺、部屋に荷物置きに行きたいのに……」
 乱暴に扉が閉められる音を聞きながら、大河は困ったように呟いた。賀茂家での前例もある、今行くと八つ当たりされそうだ。そもそも護符を描く邪魔にもなる。後でもいいか。
「どうした大河、手ぇ洗いに行かねぇのか」
「あ、行く」
 晴に促され、皆の後ろをついて行く。
 洗面所へ入ると、ちょうど華と香苗が洗濯物を仕分けし終わったところだった。三台ある洗濯機はフル稼働しており、籠にはまだ洗濯物が山積みになっている。今日の分の洗濯物のようだ。四つの蛇口が並んだ洗面台の前に列を成し、順に手を洗っていく。
「あ、ちょうど良かったわ。晴くん、今日の服とか下着、こっちに置いておいていいのかしら」
「ああ、悪いけどそうして。いちいち持って来たりすんの面倒だからさ」
「分かったわ。宗史くんの分も?」
「いいんじゃね? 何があるか分かんねぇし」
「了解。よし、とりあえず戻りましょう」
「はい」
 二人の服リネン庫でいいかしら、そうですね、と思案しながら華と香苗は洗面所を後にした。先に手を洗い終えて出て行く樹たちと入れ替わりに、藍と蓮を連れた昴が入ってきた。
 大河は手を洗いながら、静かに安堵の息を吐いた。
 藍と蓮がいなくなった時、華に迫られた香苗がずいぶん怯えていたから気になっていたが、大丈夫そうだ。きっと、戻ってから華は香苗に謝っただろうし、香苗も華の気持ちを分かっているはずだ。
 と、ふと思い出した。しまった、忘れるところだった。
 大河はタオルで手を拭きながら、隣で手を拭く晴を見やった。
「ねぇ、晴さん」
「うん?」
「俺、忘れないうちに荷物部屋に置いてきたいんだけど、ついて来てよ」
「は? 何で」
「だって、宗史さんたまに八つ当たりしてくるから。今機嫌悪いし」
「あー、あいつ大河にはそういうことするよな。不憫な奴」
 憐みの眼差しを向けられた。
「八つ当たりしやすい? 俺」
 洗面所を出ながら尋ねると、晴は喉を鳴らして笑った。
「そういうことじゃねぇよ。なんつーかな、甘えてんだよ、あいつ」
「宗史さんが、俺に?」
 意外な答えに大河は目を丸くして晴を見上げた。
「お前さ、あいつのこと賀茂家次期当主って認識してねぇだろ」
「え?」
 突然の質問に、今度は目をしばたいた。
「あれ? そう言えばそうだよね、してなかった」
 宗一郎の長男なのだから当然のことなのに、一度も考えたことがない。不思議そうに首を傾げる大河に、晴がふっと笑った。
「次期当主なんて立場にいるとさ、色々あるわけよやっぱり。お前みたいに、そういう目で見ねぇ奴は一緒にいて楽なんだろ」
 あいつあんまり口に出さねぇけどな、と晴は呟くように付け加えた。
 言われてみれば、宗史をそんな風に見たことなかった。宗史は宗史で、陰陽師の先輩で、仲間で、尊敬し見習うべき部分がたくさんある人、としか。
 細かいことは分からないが、心構えや振る舞い、それこそ実力が問われるのだろう。宗史は、生まれた時からその立場にいる。賀茂家当主として、あの宗一郎の後を継がなければならない。自分が同じ立場にいたらと想像するだけで、プレッシャーで押し潰されそうになる。
「あいつのことだし、度が過ぎるようなことはしねぇだろうから。ちょっとくらいは多めに見てやれよ」
 な、と乱暴に髪を掻き回された。
「ほら、荷物持ってこい。あいつ護符描いてたんだろ、もう終わってんじゃねぇの?」
「あ、うん」
 大河は晴を廊下に残してリビングに入った。皆、縁側やソファやダイニングでくつろぐ体勢に入っており、どうやら今日の訓練は休止のようだ。雨に濡れた上にかなり走り回ったのだ、疲れているだろう。
 荷物を回収しながら、ふと気付いた。
 そうか、晴は元次期当主候補だったのだと。今は明が当主の座に就いているが、それまでは次男とは言え候補の一人だったのだ。宗史の気持ちは、痛いほどよく分かるだろう。
 八つ当たりが甘えなら、宗史は晴に一番甘えていると思う。
 昴と藍、蓮と入れ替わりにリビングを出て、他愛のない話をしながら部屋の前に着くと、大河はそろそろと扉を開けた。隙間から、姿勢正しく机に向かっている宗史の背中を覗き見る。
「お前、どんだけ怖がってんだよ」
「だって」
 ああもう、と言って痺れを切らした晴が扉を押し開けた。
「おい宗、終わったか?」
 やめて! と喉まで出かかった叫びを根性で飲み込んだ。確かに宗史の立場も分かる。あの宗史に実は甘えられているかもしれないと思うと嬉しい。しかし八つ当たりは八つ当たりだ。できるだけ避けたいと思うのが人の心情だと思う。
 そんな繊細な心を無視し開けられた扉の向こうで、宗史が振り向いた。
「ああ、ちょうど良かった。終わったぞ」
 いつも通りの反応に、大河は安堵の息を吐いた。この様子だと八つ当たりはなさそうだ。ほっと息を吐いて部屋に入る大河に、晴が苦笑を漏らした。
「何枚か予備も描いたから、もし何かあったらすぐに交換して」
「分かった。ありがとう」
 大河は机の開いている場所に荷物を置き、護符を覗き込む。やっぱり綺麗だ。
「それにしても、お前ここどうにかならないのか」
 呆れ顔で机の上を見やる宗史に、大河はへらっと笑った。端にきちんとまとめられているのは、影正のノートと昴と美琴の手本、茂から手を入れられた真っ赤な霊符と筆ペンくらいで、宿題の問題集やプリントの束、書き損じた霊符の半紙、開けっ放しの筆箱に転がった消しゴムや定規、イヤホンは雑に積み上げられ、もうカオスだ。
「色々とやること多くて」
「こう散らかってると集中できないだろう。少しは片付けろ」
「あっ、ちょっと待った」
 ぼやきながら腰を上げようとした宗史を、大河は慌てて押し止めた。
「どうした?」
「何か話あんだろ、お前」
 ベッドの端に腰を下ろした晴が言った。
「話?」
「うん。バレてた?」
 宗史を椅子に戻し、大河は晴の隣に腰を下ろした。
「そりゃな。荷物部屋に置くのなんていつでもいいのに、わざわざついて来いって言われちゃあな」
 へへ、と笑ってごまかしてから、大河は一拍置いて口を開いた。
「今日さ、藍と蓮を探しに出る前に、樹さんの指示で皆の部屋を確認したんだ。その時に見たんだけど――」
 大河は、あの時に見た部屋の光景を話した。見て、自分がどう感じたか、どう思ったか。
 話し終わると、二人は低く唸った。
「まあ、不自然と言われればそうだが……」
「なくもねぇよな」
「そう、俺もそう思った。だからどうしようかなって迷ったんだけど」
「報告したのはどうしてだ?」
「宗一郎さんが前に言ってたから。皆の安全のためだって」
 賀茂家で会合があった時の台詞だ。少しでも疑わしいと思った時は速やかに報告しろ、それは皆の安全のためでもある、と。正論だと思った。だから報告することを選んだ。
「でもさ、一つ分からないことがあって。皆は知らないのかなって」
「ああ、個室は唯一のプライベート空間だからな。掃除も自分ですることになってるみたいだぞ」
「そっか。それなら知らなくてもおかしくないか」
 誰にも邪魔をされない自分だけの空間。その自由な空間があんな風になるのは、やっぱり――。
 途中まで考えて、大河は小さく頭を振った。今はまだ分からない。宗史も晴も、なくはないと言った。それに仕事の時も思ったではないか。自分が聞けなかったことをさらりと華に聞いた樹に驚いて、考えすぎなのかもしれないと。今回も、初めて見た光景に驚いて、考えすぎているだけなのかもしれない。
「とりあえず、報告は上げておく。大事な情報の一つだからな」
「そうだな。俺からも伝えとくわ」
「うん」
 言いながら腰を上げた二人につられて腰を上げる。
「話は変わるが、今日中に真言五つ暗記するんだろう。大丈夫なのか?」
「夕飯食べてすぐ風呂入ってやる。死ぬ気で頑張る。じゃないと明日独鈷杵の訓練できないから」
「知恵熱出るんじゃねぇの?」
「子供じゃないから!」
「晴、お前いい加減にしておけよ」
「何言ってんの。宗史さんだってさっき墨の話した時、使うのはまだ先だってからかったくせに」
「何だよ、お前も人のこと言えねぇじゃねぇか」
「からかってない。事実だ」
「余計傷付くわ!」
 油断した、ここで八つ当たりがきたか。
 部屋の扉を閉めながら、大河は隣の扉に下がるプレートをちらりと見やった。
 間違いであって欲しい。けれどもし、もしも間違っていなかったら、止めたい。止めなければならない、絶対に。
 大河は、先を行く宗史と晴の背中を小走りに追いかけた。
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