第1話

文字数 2,228文字

 神苑から犬神の遠吠えが響き渡り、春平と弘貴は訝しげに眉を寄せた。反対に、雅臣の口元には歪な笑みが浮かんでいる。
「何だ?」
 弘貴の怪訝そうな呟きを聞きながら眉根を寄せた春平は、それが感覚に触れるなり目を瞠った。邪気がものすごいスピードで近付いてくる。
「まさか悪鬼を呼ん……」
 春平の言葉を、ピューと甲高い音が遮った。振り向くと、雅臣が空を仰ぎ、親指と人差し指を口に入れて息を吹いていた。指笛。
「しまった!」
 居場所を教えているのか。だが、雅臣に取り憑いていた悪鬼の気配が消えたことを察して犬神が呼んだにしては、数が多い気もする。それに、犬神はそんなに気が利くのだろうか。とは思うが、今はそんなことどうでもいい。また取り憑かれては元の木阿弥だ。
 邪気を察知したらしい。先程消えた擬人式神が、木々の隙間から飛び出してきた。
「弘貴、菊池をお願い!」
「了解!」
 にやりと不敵な笑みを浮かべ、弘貴が印を結んだ。九字結界で霊刀を防御し、真正面から挑む気だ。悪鬼を取り憑かせていない今の雅臣なら、擬人式神で翻弄し、霊刀を防いでしまえば体術で十分制圧できる。
青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ)勾陳(こうちん)帝台(てんたい)文王(ぶんおう)三台(さんたい)玉女(ぎょくにょ)!」
 弘貴は地面を蹴りながら九字結界を形成し、雅臣が霊刀を具現化しながら構えた。
 そして春平は、水天の霊符を取り出しながら参集殿の上、正殿の方角の空を仰ぎ見た。タイミングを間違えれば仕留め損ねる。慎重に邪気を感じ取らなければ。
「オン・ノウギャバザラ・ソワカ」
 二人分の砂を擦る音に、結界が火花を散らす痛烈な音が混じる。と、突如邪気が二手に分かれた。こちらと、もう一つは神苑の方。どうなっている。華と夏也が気になるが、ひとまず雅臣と悪鬼を制圧しなければ。そのためには集中だ。
帰命(きみょう)(たてまつ)る。鋼剛凝塊(こうごうぎょうかい)渾天雨飛(こんてんうひ)――」
 霊符が自立し、どこからともなく顕現した無数の水塊が春平を取り囲む。まだだ、もう少し。
「っらあッ!」
「ごふ……っ」
 気合いが入った弘貴の掛け声と雅臣の呻き声、それと、どごっとくぐもった打撃音が耳に届き、同時に悪鬼の塊が勢いよく滑り込んできた。寮に入ったばかりの頃、体幹を養うために使っていたバランスボールほどの大きさしかない。
斥濁砕破(せきだくさいは)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」
 ビュッ! と水塊が悪鬼へ向かって空を切る。蹴り飛ばされたらしい。春平の横を、雅臣がごろごろと参集殿の方へ転がっていった。体術だけなら間違いなく弘貴の方が上。このまま拘束できる――そう思ったのも束の間、春平は目を瞠った。
「なん……っ」
 悪鬼が弾かれたように分裂し、その間を水塊がすり抜けた。いくつか激突したが、ほとんどが素通りして夜空へと消えてゆく。そして残った悪鬼は雅臣へ向かって下降しながら再び融合し、風呂敷のように広がった。
 術を発動させて待機していたのが裏目に出たか。覆い被さるようにして飲み込まれた雅臣を見据え、春平は霊符を取り出した。このまま取り憑かせるわけにはいかない。囮のつもりだろう。擬人式神が悪鬼に向かって宙を切った。
「オン・シュチリ・キャラ・ロハ・ウン・ケン・ソワカ! 帰命(きみょう)(たてまつ)る、邪気剿滅(じゃきそうめつ)……っ」
 一部の悪鬼が触手を伸ばした。擬人式神全体に命中し、残骸がはらはらと地面に舞い落ちる。取り憑きながら触手が伸ばせるなんて。
「春!」
 とっさのことで反応が遅れ、真言を詰まらせて立ち尽くす春平の前に、九字結界を行使したままの弘貴が滑り込んだ。すんでのところで結界と触手が激突し、バリバリと派手な火花が上がる。
 もう一度。そう、春平が改めて霊符を構えた次の瞬間。
「うわっ!」
「げっ!」
 足首に触手が巻き付いた。しまった、影に紛れて足元を狙われた。そう思う一瞬の間に、ものすごい力で広場の奥へ引っ張られ、揃って体勢を崩す。手から霊符が落ち、尻もちをついたと思ったら地面すれすれを飛んでいた。続けざまに今度は逆方向、神苑の方へと引っ張られ、再び逆方向へ戻される。右へ左へ何度か振り回され、不意に触手が足から離れた。
「ぐっ!」
「だっ!」
 ドンッ! と、広場と神苑の間に植わった木々に背中から激突し、鈍痛が全身に走った。木々が揺れ、枝葉が降ってくる。どさりと地面に落ちた。
「く……っ」
 振り回されたせいで頭がくらくらする。背中の痛みに顔を歪め、眩暈を振り払うように小さく頭を振った。痛いことに変わりはないが、この程度なら骨折はしていない。ざっと砂を擦る音に、春平は上目づかいで雅臣を見やった。背中から触手を生やし、手に霊刀を携えた雅臣が悠然と近寄ってくる。
 さっきは雅臣がこちらへ逃げ込んだため仕方なく追いかけてきたが、触手から逃げるなら断然広い方がいい。それに、間違っても参集殿を破壊するわけにはいかない。
 雅臣を注視したまま、いってぇなこの野郎と悪態をついて腰をさする弘貴へ告げる。
「弘貴、一旦神苑に出よう。急いで」
「おうっ」
 否や中腰のまま駆け出し、左右に分かれて神苑へ向かう。
 外灯が点灯している分、広場より明るく様子がはっきり見て取れる神苑へ飛び出して、二人は目を剥いた。
「え……っ」
 正面、五十鈴川の方で華と真緒、右側で夏也と一体に減った朱雀が犬神と対峙している。鈴は真緒の実力を怜司と同等と評価していたが、見る限りでは華は十分渡り合っている。驚いたのは、夏也の方だ。犬神が熊並みに巨大化している。
 新たな悪鬼は援軍ではなく融合するために呼んだもので、それを雅臣が横取りしたのか。
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