第10話

文字数 3,090文字

「俺からもいいですか」
 不意に、紺野が口を開いた。ええ、と宗一郎が頷く。
「加賀谷について、確認したいことがある」
 怯え竦んだまま動かない草薙たちを見下ろしたまま、紺野は言った。
「さっき、金を払って口止めしたと言ったな。つまり、加賀谷は自ら進んで協力したわけじゃねぇんだな」
 三人がばらばらに、しかし確かに頷いた。
「何をネタに脅した」
「……と、取引を……」
「草薙製薬との取引か。協力しなければ打ち切ると?」
 草薙は、小さく首を縦に振った。紺野が渋面を浮かべる。
 草薙製薬のような大企業との取引が打ち切られれば、ダメージどころか倒産、多額の借金を背負うことになるだろう。経営者はもちろん、働いている社員やその家族を路頭に迷わせる。そうさせないために、加賀谷は従った。従わざるを得なかった。
 加賀谷という人物のイメージが、塗り替えられていく。
「加賀谷は、事件のことをどこまで知ってたんだ」
「ひ、必要な情報を、流していただけだったので……」
「詳しくは知らなかったんだな?」
「はい」
「もう一つ。北原を襲った理由は何だ」
 一瞬妙な間が開いて、草薙が目をしばたきながら顔を上げた。
「襲った……?」
 尋ね返されて、紺野は怪訝そうに目を細めた。
「知らねぇのか」
「ああ……」
 本当に何のことか分からないといった顔だ。北原の件は敵側の独断らしい。紺野は難しい顔で口を閉じた。
 と、離れの玄関の方から、ざりざりと砂を踏む音が聞こえてきた。タイヤで砂を擦る音に似ている。
 全員の視線の先に姿を現したのは、柴だ。その後ろから、車椅子に乗った年配の男性と、車椅子を押すスーツ姿の中年男性が続いて出てきた。二人ともスーツ姿だ。
 年配の男性は、スーツの上からでも分かるほど細身で、白髪をセンター分けし、優しげな垂れ目に眼鏡をかけ、青いアグレットがついたループタイを着けている。椅子の右前足にはホルダーに入った杖。上品で物腰が柔らかそうな、紳士然とした男性だ。中年男性の方は、すっきりと短い黒髪で前髪を斜めに流し、少々面長の顔に太めの眉、涼やかな目、鼻は高く彫りが深い。こちらは堅物そうな雰囲気だ。
 なんでそんなとこから、その人たち誰。と大河たちが頭にハテナマークを飛ばす一方、草薙たちと縁側の氏子らが一様にどよめいた。
「おっ、親父……っ、兄さんも……!」
「おじい様、伯父さん……!?」
 動揺したのは草薙と龍之介。二に至っては大慌てで正座する有り様だ。
「え、え……?」
 草薙の父親と兄。ということは、どうなる? もう情報過多で脳みそが上手く回らない。大河は目をしばたきながらきょろきょろと視線を泳がせる。弘貴たちも困惑顔だ。
 柴が足を止めて振り向き、道を譲るように横へ避けた。すると年配男性は柴を見上げ、中年男性は車椅子を止めた。年配男性が、深い皺を刻んでにっこりと笑う。これっぽっちも怯えた様子がない、愛嬌のある笑顔だ。
「柴、手を貸してくれて助かったよ」
「いや。ご自愛なされよ」
「うん。どうもありがとう」
 何やら和やかな会話を聞きながら、一体何があった、と困惑と混乱が走る。状況がさっぱり分からない。柴がこちらへ足を向け、男性二人は宗一郎たちの元へ向かう。
 ふと、柴が黒く染まった地面に目を止め、ぐるりと視線を巡らせた。柴主、と紫苑が小声で呼びかけながら柴の元へ駆け寄り、大河たちから少し離れた場所で耳打ちする。状況説明だろう。
 一方、男性二人には宗一郎が先に声をかけた。
一介(いちすけ)さん、一信(いっしん)さん。お呼び立てして申し訳ありません」
「いいえ、宗一郎様。お詫びするのはこちらの方です」
 一介が年配男性で、一信が中年男性だろう。一介が答え、一信が車椅子を草薙らの前で停めた。そして、揃って草薙へ視線を投げる。とたん、ぴりっと空気が張り詰め、草薙たちが大仰に体を震わせ姿勢を正した。まるで子供が親に叱られる時の態度だ。優しげだった一介の目は険しくなり、静かな怒りが浮かんでいる。
「話は全て宗一郎様から伺った。先程の話もな」
 ぐっと草薙たちが息を詰まらせた。
 物陰に隠れて聞いていたらしい。ついさっきまで柔らかな声だったのに、今は怖いほど威圧感がある。草薙たちの顔は強張って恐怖の色が浮かび、視線は縫い止められたように一介を見据えている。
「この――」
 一介は小さく呟くと、一拍置いてまなじりを吊り上げた。
「愚か者がッ!!」
 その細い体のどこからそんな声が出るのかと思うほどの声が、庭に響き渡る。思わず影正にどやされた時のことを思い出し、大河はぴしっと背筋を伸ばした。すみません! と口から飛び出るところだった。
「数々の非道な行いだけでは収まらず、加賀谷家のご子息を脅迫し罪を強要した挙げ句、こともあろうに土御門家のご当主を手にかけるとは何たる蛮行! お前たちは草薙家の恥さらしだッ!」
 押し潰されそうなほど迫力のある声。外なのにびりびりと空気が震えている。心で悲鳴を上げているなと分かるほど、草薙たちの顔が青く硬直した。
(したなが)
「は、は、はい」
 一信に見下すような目で呼びかけられ、二が震えた声で返事をする。
「失望した」
 短いその一言には、巨石のような重みがあった。二は目を見開いたまま息を詰め、ゆっくりと俯いて肩を震わせた。
 一信は視線を滑らせて、草薙と龍之介を見やる。
「先日、宗一郎様から連絡と資料を頂き、本社(こちら)で改めて調べさせた。その後、緊急役員会を開き、満場一致で一之介の解任、龍之介と二、共謀した花輪節子の解雇が決定した。一之介と龍之介においては、会社での権限はもちろん、私財を全て没収。草薙家から追放する」
「そ、そんな……っ」
「全部って……っ、じゃあ俺たち今からどうやって……!」
 身を乗り出した草薙と龍之介に、一信が不快気に眉根を寄せた。
「どうやって? よくもそんな甘いことが言えるな。まだ自分が犯した罪の深さを実感していないのか。真面目に働くなり野垂れ死ぬなり、好きにしろ」
 静かに低く問う声は、それゆえに重く、草薙と龍之介を黙らせた。
 完全に見限られた。草薙と龍之介が沈黙すると、一信は車椅子の背面に備えられた小物入れから茶色の封筒を、上着の内ポケットから万年筆を取り出した。それを持って草薙に歩み寄る。
「今すぐこれに署名しろ。お前に拒否権はない」
 言いながら差し出された封筒を、草薙は震える手で受け取った。法的な書類だろうか。草薙はのろのろと、しかし観念した様子で封筒を開け、透明なクリアファイルを取り出した。そして挟まれている紙を見て、絶句した。
 息を詰まらせ、クリアファイルが曲がるほど強く握り締め、小刻みに手を震わせる草薙の横から龍之介が覗き込む。
「え……っ」
 草薙の手からそれをひったくり、クリアファイルに挟まれている一枚の紙を取り出して舐めるように目を通す。
「お前たちのしたことを知れば、当然の選択だ。見たとおり、陽子(ようこ)さんの署名、捺印はされている。今頃、荷物をまとめているだろう。慰謝料などの話は弁護士を通して行われる。二度と会いたくないそうだ」
 一信は一旦言葉を切り、重い口ぶりで言った。
「泣いていたぞ。被害者の方に申し訳ないと言ってな」
 離婚届、だろうか。告げられた言葉に、草薙はがっくりと肩を落として両手を地面についた。龍之介も、ファイルを見つめたまま唖然としている。
 これで、草薙たちは本当に何もかも失ったことになる。草薙という名の地位や権力、金や家族も。
 こんなに落胆するくらいだ。陽子に対して愛情はあったのだろう。それなのに、欲に溺れてしまった。彼らは、いつ、どこで道を踏み外したのだろう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み