第16話

文字数 3,291文字

「……どうした?」
 車を発車させた榎本の横顔は、どこか浮かない顔だ。下平が尋ねると、榎本は逡巡してから口を開いた。
「菊池からしてみれば、理不尽だなと思って」
 ぼそりと返ってきた答えの意味は、何となく理解できた。
 雅臣は、これまでごく普通に生きてきた。聡い両親のもとで育ち、医者になる夢を持ち、良い友人にも恵まれた。けれどそれは、ある日突然奪われた。彼には一切何の責任もない、理不尽な理由によって。
 医者になるには、国家資格が必要だ。前科があっても試験を受けることはできるし、医師免許も付与される。ただし、最終的に付与の可否を決定する際、厚生労働大臣の下で相当期間保留、あるいは付与されない場合もあるらしい。だが事実、付与されないことはほとんどないと聞く。
 それでも雅臣は、おそらく諦めている。医者は、人の命を救う職業だ。心優しく真っ当な人生を歩んでいた彼が、殺人事件を起こしてなお医者を志すとは思えない。
 河合家は、菊池雅臣という一人の少年の人生を犠牲にして、立ち直ろうとしているのだ。
 下平は視線を前へ戻した。榎本の気持ちは分かるけれど。
「確かに、菊池がこんな事件に関わったのは尊たちが原因だ。けど、選択の余地はあった。選んだのは菊池自身だ。その点に関しては、あいつに責任がある」
 両親に問い詰められた時に全て話していれば、別の未来があった。分からなかったわけではないだろう。それでもこちらを選択したのは、彼自身なのだ。
「それは、そうですけど……」
 不満そうに呟いた榎本に、下平は言った。
「余計な情を挟むなよ。菊池は被疑者だ。捕まえねぇと、さらに被害者が出る」
「はい、それは分かっています」
 刑事であろうと人間だ。私情はどうしても湧く。しかも榎本は刑事になってまだ四カ月。割り切れというのは難しいかもしれない。けれど、あれこれ考えて情を挟み、いざという時に躊躇されると取り逃がすどころかこちらの身が危険だ。被疑者にどんな理由があろうと、捕まえるのが刑事の仕事なのだ。
 反発するように強く言い切り、そのまま口をつぐんだ榎本の横顔は、見るからに不満そうだ。こればかりは彼女が自分で割り切るしかない。下平はこっそり息をついて車窓へ目を向けた。
 雅臣が別の選択をしていたら、と思った時、同時に迷子事件の話しを思い出した。
 もし彼が犯人たちと会う前に樹たちと会っていたら、こんなことにはならなかっただろう。双子を襲った少年のように、ぎりぎりで間違いを犯さずに済んだかもしれない。似たような状況にありながら、出会う人や選択で、こうも差が出る。何ともやりきれない。
 そう考えると、蘆屋道元は非道な人物だ。人の気持ちを利用して自分の恨みを晴らそうとしている。しかも千年以上前の恨みだ。しつけぇな、やるなら一人でやってろとぶん殴ってやりたい。
 ――胸くそ悪い。
 下平はこれでもかと顔をしかめ、ふと思いついた。
「どうしたんですか?」
「ん、ちょっとな」
 慌ただしく携帯を取り出すと、熊田と佐々木からメッセージが届いていた。頼んでいた写真は、警察手帳の写真を映したものだった。なるほど、これが一番分かりやすい。ひとまず置いておいて一本の電話をかける。
 俺だ、今大丈夫か、と通話を始めた下平の話の内容を聞きながら、榎本が「あ、そうか」と一人ごちた。
 電話を切ると、今度は冬馬からメッセージが入っていた。例の件の詳細が、箇条書きで記されている。
・ライブハウス・四条Musaの近くのコンビニ
・八月四日の午前十二時頃
・三十代くらい
・百七十センチ前後
・後ろ髪は短いが、長い前髪で片目を隠していた
・痩せ型、目は細め
・ジーンズ、Tシャツ、スニーカー、黒のキャップ
 やはり、廃ホテルの事件の日だ。ライブハウス・ムーサは、下京区の四条通にある。営業時間は午後十時まで。目的のライブ後にたむろっていたのか、単に遊んでいただけなのか分からないが、目撃者が出る可能性はある。
 それにしても、目を片方だけ隠すなんて、ファッションか、それとも傷でもあるのか。下平はつらつらと目を通し、最後の一文で止めた。「おやすみなさい」。
「んん……?」
 思わずおかしな声を漏らしながら、ゆっくり首を横に倒す。
「どうしたんですか?」
 榎本がちらりと横目で窺う。
「んー、いや……」
 曖昧な返事に、榎本が怪訝な顔をした。
 これは、どう解釈すればいいのだろう。文字通り今から寝るのか。それとも寝ぼけているのか。時間を考えると後者だが、あの冬馬が寝ぼけてこんな一文を送るなんて想像できない。だとしたら、今から寝るから電話するなという意味かもしれない。とはいえ、何も返信をしないのもどうか。
 下平はしばらく考え込み、熊田と佐々木の写真と共に、「おやすみなさい」と書かれたペンギンのスタンプを送った。
 時間を確認し、携帯をオフにして内ポケットにしまう。
「榎本。冬馬から例の件の情報が入ったから、昼からそっちの捜査に行く。とりあえず、署に戻って飯だ」
「了解です。事件と関係ありそうですか?」
「さすがにこれじゃ分かんねぇなぁ」
 目を片方隠してたらしい、ファッションですかね、などとあれこれ詮索しながら署へ戻る。
 一旦車を戻してコンビニで昼ごはんを調達し、下平は榎本に弁当を預けて屋上で一服した。
下の喫煙所でもよかったかと、すっかり癖になってしまったことに一人で苦笑しながら課へ戻ると、何やら榎本が先輩の女性刑事に掴まっていた。手にはコンビニの袋を下げたままだ。
 戻った下平に気付いた榎本が、困惑顔で助けてくれと視線を送ってきた。
「どうした?」
 背後から声をかけると、女性刑事が振り向いた。下平から見て後輩に当たる。
「あっ、下平さん。大変、窃盗です窃盗」
「は?」
 驚いたように瞬きをする下平にずいと迫り、彼女は拳を握って真剣な顔で繰り返した。
「だから、窃盗事件なんですって」
 どこかの県で、巡査部長が同僚の財布から金を盗んでいたという事件があったばかりだが。いや、それ以前に窃盗事件は捜査三課の担当だ。
「どこで」
「ここです」
 ますます訝しげな顔をして、下平はとりあえず尋ねた。
「何を盗まれたんだ?」
「チョコバーです」
 食い気味に返ってきた答えに、目が白けた。課内がいつも通りのはずだ。ふと目が合った課長や同僚たちは無言で首を横に振り、榎本は顔を逸らしてこっそり呆れ顔だ。
「犯人はお前の腹だろ」
「あたしは食べてません」
 そんなきりっとした顔で言われても。下平は嘆息して横を素通りした。
「腹から手が伸びて勝手に食ったんだろ。榎本、俺たちもさっさと食って捜査に戻るぞ。っと、その前に電話だ」
「は、はい」
 下平さんひどーい、と投げられたぼやきを背中で聞きながら、下平は榎本から弁当を受け取った。
 これが現金やキャッシュカード類ならともかく、チョコバー一つで窃盗はないだろう。どうせどこかに転がったとか置き忘れたとか、もともとなかったとか、彼女の勘違いだ。二十代後半、人見知りがなく共感力が高いため、少年少女ともすぐに打ち解ける。報告書などの書類もそつなくこなす出来る刑事だが、食い意地が張っているのが玉に瑕だ。まさか悪鬼がチョコバーを盗み食いしたなんてことはあるまい。
 しょうもな、と呟いて弁当をデスクに置き、少年襲撃事件の捜査ファイルを開く。
 すぐに榎本と手分けをして少年襲撃事件の被害者二人の自宅へ連絡を入れると、野瀬家の方は歩夢が出た。尊の心配をしつつ、関わりたくないからと言って拒否された。もう一人の被害者の方は、母親だった。彼女は聴取に同席しており、カツアゲの件を知っている。あちらも大変でしょうからと同情の言葉を口にし、迷った結果、ならば電話でということに落ち着いた。
 それを菊池家へ伝えて昼食を済ませ、件のコンビニと周辺の店の防犯カメラ映像の回収に回っていた三時過ぎ。冬馬からメッセージが入った。
『写真確認しました。すみません。寝ぼけていました』
 なかなか可愛いところがあるではないか。笑いを噛み殺し、しかしスタンプは爆笑するペンギンを送り、再び回収に戻った。
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