第3話

文字数 2,942文字

         *

 幼い頃、影正に口酸っぱく言い聞かせられた。
『地獄の釜の蓋が開くと言ってな、お盆の間はあの世から死んだ人が家族に会いに戻ってくるんだ。ご先祖様もいるが、中には悪戯をする幽霊もいる。足を引っ張って、海の中に引きずり込もうとするんだ。だから、お盆の間は絶対に泳ぐんじゃないぞ』
 と。あとから知ったのだが、お盆の時期はクラゲが増えるため、子供が泳がないよう大人が考えたただの口実らしい。実際に、お盆の時期を過ぎると浜辺にはたくさんのクラゲの死体が上がっていた。
 地獄の釜の蓋が開く、という言葉も、地獄の鬼もその日ばかりは仕事を休むのだから我々も休みましょう、という意味らしい。知った時はなぁんだと思ったが、あの口実は、今となっては軽視できない。
 先日の会合で、宗一郎は地図を前に淡々と説明した。地図上を滑る指を、ローテーブルを囲んだ全員の視線が追いかける。
「この巨大結界は、結界外の悪鬼の侵入を防ぐと同時に、ここ、出雲大社や霊峰・富士から伸びる龍脈を通して日本各地を守護している。巨大結界以外にも結界は張られているが、ここが崩れれば力は大きく失われ、多くの封印されていた悪鬼が解き放たれる。特に、霊峰・富士の裾に広がる青木ヶ原樹海だ。自殺スポットとして有名なこの場所は、結界の影響もあって未練を残した自殺者の霊が留まりやすい。巨大結界崩壊後は、全てが解放される」
 心霊スポットや自殺スポットは、有名どころからローカルな場所まで、日本各地に点在する。単なる噂レベルの場所もあるだろうが、廃ホテルやアミューズメント跡地などのように、実際に「いる」所もあって、自殺スポットならなおさら。陰陽師が代々人知れず封印した場所もあるだろう。
「さらに」
 宗一郎が続けた。
「お盆だ。亡者が現世に戻り留まる事が出来るのは最終日、十六日の午前零時から二十四時間。亡者たちを千代の力で悪鬼化すればどうなるか、想像に難くない。その邪気に感化、あるいは取り込まれ、悪鬼化する浮遊霊も出てくるだろう。邪気を纏った人々は取り憑かれ、攻撃性や凶暴性が増し、中には食われる者も出てくる」
 宗一郎の落ち着いた低い声と相まって、怪談を聞いているような不気味な空気が漂った。刑事組が強張った顔で、ごくりと喉を鳴らす。
 そんなことになれば、大騒ぎどころではない。ありとあらゆる事件が多発し、突然の失踪や、目の前で消える瞬間を見る者もいるだろう。世間では様々な憶測が飛び交い、警察へ通報や捜索願が殺到する。これが、全国規模で発生するのだ。
 こちらへ戻ってくる亡者に加え、各地の悪鬼に青木ヶ原樹海の浮遊霊。それが、全て。想像するだけで寒気が走り、大河は自分の腕をさすった。
 紺野が硬い声で言った。
「つまり、敵の狙いは結界の破壊ですか」
「間違いありません。千代の力がどの程度か測り切れていませんが、廃ホテル以上の悪鬼を従わせることができるのは、先程の柴の証言で証明されています。さすがに一度にこれらすべてとは思えませんが、千代が大量の亡者を悪鬼化し、他の悪鬼や浮遊霊を引き寄せ従わせることができるとしたら、近畿を中心に日本は混沌とした時代を迎えることになります」
 敵の狙いはつまり、戻ってくる亡者を悪鬼化し、同時に結界を破壊すること。成功すれば、とんでもない数の悪鬼軍団が誕生するというわけだ。
「そこで、私と明とで、平城京跡から巨大結界を発動させます」
「発動?」
 下平が聞き返し、ええと宗一郎は頷いた。柴と紫苑を見やる。
「彼らには効果が薄いようですが、先程説明したように、巨大結界はこのままでも効果があります。しかし、発動させることで最大の効力を発揮するんです。先程の錫杖(しゃくじょう)は、媒体としてその際に使用します」
 へぇ、と大河と刑事組が驚きの声を漏らした。あれは魔を祓うだけでなく、媒体としても使えるのか。宗一郎が話を戻した。
「本来なら、襲撃は十五日の夜。だがおそらく、十四日に前倒ししてくるだろう」
「十四日?」
 思わず反復したのは大河で、柴と紫苑も不思議そうな顔をしている。樹たちや刑事組からは、「ほら、奈良の」「十五日っていえば」「あー、あれか」と察したような会話が聞こえてくる。
「大河は知らないか」
 何を? と言いたげに首を傾げる。
「熊野本宮大社や伊弉諾神宮でも慰霊祭が取り行われるが、五山送り火――大文字の送り火と言った方が分かりやすいか?」
「ああ、はい。知ってます」
 戻ってきた魂をあの世へ見送るための行事だ。反対に、迎えるために炊く火を「迎え火」といい、刀倉家でも、精霊馬(しょうりょううま)と共に毎年庭で行っている。
 こくりと頷いた大河とは反対に、柴と紫苑は首を横に振った。昔から行われている行事ではないらしい。
「公的な記録が残っているわけではないので諸説あるが、奈良時代の744年、東大寺の前身である金鐘寺(こんしょうじ)が行った万灯会(まんとうえ)という燃灯供養が起源だと言われている。今でも、各寺院で行われている」
「まんとうえ?」
 大河が聞き返し、柴と紫苑はあれかと腑に落ちた顔をした。
「たくさんの灯明(とうみょう)を灯して仏や菩薩を供養し、罪を懺悔し、滅罪を祈願する法会(ほうえ)だ。戦国時代になると盛んに行われ、次第に『五山送り火』として催されるようになった。要は万灯会が大規模になった形だが、あれは京都だけの行事ではない」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ。規模に違いはあるが、秋田、岩手、神奈川、山梨、高知、そして奈良だ」
「へぇー」
 京都の専売特許的なイベントだと思っていたが、あちこちで行われているのか。よくよく考えれば、亡者の魂をあの世へ送るためのものなのだから、不思議なことではないのだ。
「問題は、開催される日時だ。奈良の大文字は、終戦記念日に合わせて十五日に行われる。点火時間は午後八時」
 ヒントから答えを導けと言わんばかりに言葉を切られ、大河はうーんと悩ましい声を漏らした。奈良、大文字、十五日――。
「あ、観光客?」
 閃いた顔をすると、宗一郎が満足そうにそうだと頷いた。
「夏休みということもあって見物人は多く、奈良市内の各所で見ることができる。例えば奈良公園の浮御堂、興福寺、奈良県庁の屋上、そして平城京跡だ。施設は閉館するが、公園は二十四時間営業で、敷地内には十時まで営業しているレストランもある」
「そうか、なるほど……」
 ちょうど日が沈み、悪鬼の活動が活発になる時間に大勢の観客が集まってくる。そして当然、敵側は結界の発動を阻止しにくる。二十四時間営業なら、終わったとたん観客が一斉にいなくなるなんてないだろうし、関係者もいる。加えてレストラン。営業時間が十時まででも、閉店作業で従業員はそれ以降も残るはずだ。
 大騒ぎになる上に、下手をすれば犠牲者が出る。大勢の前で戦闘を繰り広げるわけにはいかない。それは標的基準のある敵側も同じだろう。とすれば、一日前倒しで襲撃するしか方法がない。
 敵側の狙いをまとめると、こうなる。
 十四日の夜、結界を破壊して効力を失わせ、解放された浮遊霊を悪鬼化する。こちらは、当然悪鬼の調伏に奔走することになる。そして十六日午前零時。戻ってきた亡者を千代の力によって悪鬼化、あるいは悪鬼に取り込ませれば、巨大な悪鬼軍団の出来上がりだ。
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