第7話

文字数 6,538文字

 ペットボトルに口を付けかけた時、茂が縁側に出てきて昴の隣に腰を下ろし、大河は背中をつんとつつかれた。振り向くと、蓮が隣でしゃがみこんで独鈷杵を指差している。遊びたいのだろう。
「いいよ。でも落とさないようにね」
 蓮はこくりと頷いて独鈷杵を拾い上げ、大河を見上げた。
「ありがとうございます」
 満面の笑みで踵を返した蓮の小さな背中を、少しの驚きを持って見つめる。宗一郎の教育がしっかり効いているようだ。藍は昴の独鈷杵を借りたらしい。ソファの後ろで手合わせのまねごとを始めた双子に笑みを浮かべ、大河は庭へ視線を投げた。
 スポーツドリンクを喉に流し込みながら、訓練中の華と夏也を眺める。独鈷杵を握り、目を閉じた夏也の手は、仄かな金色の光に包まれている。霊力が集まっている証拠だ。華は腕を組んで右手を唇に添え、観察するように夏也の手元を見据えている。
「そう、そのまま維持して。ゆっくり、少しずつでいいわ。独鈷杵に霊力を吸い込ませるようなイメージ」
 華の誘導に従ってゆっくり、霊力がかろうじて目視できる速度でじわじわと小さくなっていく。と、集中力に限界がきたらしい、金色の光がふっと溶けるように消えた。大河たちから残念な声が漏れ、夏也が瞼を上げて長く息を吐いた。
「やっぱり、難しいですね……」
 無表情ながらも落ち込んだ声色に、華が腕を解いて夏也に歩み寄った。
「何言ってるのよ。昨日訓練始めたのにここまでできるなんて、さすがだわ。あたしなんか一週間以上かかったのよ。集中力が違うわねぇ」
「ありがとうございます」
 励ますように背中を叩かれ、夏也は微笑むように目を細めた。
「少し休みましょう。あと少しやって、そろそろお昼の支度もしなくちゃ」
「はい」
 すごい汗、と言いながらしっとりした夏也の髪を指ですくう華と、くすぐったそうに肩を竦める夏也を眺めながら、大河は緩みそうになる顔の筋肉を必死に堪えた。美人二人が戯れる光景は実に微笑ましい。
 樹と怜司に知られると危険人物認定するだろうことを考えながら、大河は横のタオルを二人に差し出した。
「ありがと、大河くん」
「ありがとうございます」
 華は、暑いわねー、とぼやきながら大河の隣に腰を下ろし、夏也はそのさらに隣に座った。
「そういえば、前から聞きたかったんですけど」
 不意に口を開いた大河へ視線が集まる。
「樹さんは大包平(おおかねひら)ですよね。皆の霊刀は?」
 興味津々な顔でまずは昴と茂を見る。
「僕は同田貫(どうたぬき)だよ」
「……たぬき?」
「たぬき!」
 省略した大河の声を耳ざとく聞いた藍と蓮が動きを止め、周りをきょろきょろ見渡した。
「どうを付けてあげて……」
 昴が脱力し、茂たちから笑い声が上がる。
「刀の名前だよ、動物のたぬきさんじゃないよ」
 体を捻った茂が言い聞かせると、藍と蓮は目に見えてつまらなそうな顔をして、手合わせの続きを始めた。昴が改めて大河を見やる。
「同じに田んぼの田、貫くで同田貫。大河くん、桃山時代に起こった文禄・慶長の役って分かる?」
「えっ」
 突然の歴史問題に咄嗟に身構えた大河に、茂と華から小さな笑い声が漏れた。聞き覚えはある。あるが果たして何だったか。にこにこ顔の昴に見つめられながら視線を宙に泳がせ、必死に記憶を掘り起こす。
「えーと、確か……と、豊臣秀吉……?」
「が?」
 かろうじて記憶に残っていた武将の名を出すと即座に続きを促され、大河は唸り声を洩らしてさらに捻り出す。
「……朝鮮半島? に侵略した?」
「正解」
 まさか刀の話題から歴史の問題を出されるとは思わなかった。心の底から安堵の息をつく大河に、茂たちからまた小さな笑い声が漏れる。
「その戦の時にね、加藤清正がたくさんの武具や装備の充実を図ったらしいんだけど、同田貫はその中の一つで、清正軍を支えた最強の武器って言われてるんだ。装飾もほとんどなくて一見質素だけど、地金もつんで波紋も綺麗なことから、清正の実直な性格が表れているって言われていて、剛刀と呼ばれる類の刀なんだよ」
 加藤清正はさすがに分かる。おお、と感嘆の声を上げた大河とは反対に、昴は顔を曇らせてふいと前を向いた。
「剛刀にあやかろうと思って選んだんだけど、まあね、結局は僕の霊力次第なんだよね……」
 憂いを帯びた目で遠くを見つめる昴に大河は首を傾げ、茂と華は苦笑し、夏也は不憫そうな目を向けた。
「昴くん、樹くんに霊刀を折られてるんだよ。一撃で」
「えっ、一撃?」
 誰に対しても容赦のない人だ。この前は華の霊刀を折っていたが、さすがに樹には敵わないらしい。がんばろ、と嘆息と共に呟いた昴に心で両手を合わせ、次は茂を見やる。
「しげさんは?」
「僕はね、日光一文字(にっこういちもんじ)。黒田勘兵衛の刀」
「あ、秀吉の軍師だった人」
「そうそう。いいよねぇ、小田原城の無血開城とか格好良いよねぇ。秀吉に次の天下人だって言わしめたんだよ。すごいよねぇ」
 うっとりとした顔で語る茂を見て、大河はもしやと思い、平常心を取り戻した昴を見た。
「しげさん、黒田勘兵衛が好きなんだよ。大河ドラマも毎回録画して欠かさず見てたんだって」
「DVDも持ってるよ。見る? 見たい?」
 藍と蓮みたいに目をきらきらさせ、ずいっと身を寄せて口を挟んだ茂に、大河と昴はあからさまに引いた。
「い、いえ……遠慮します……」
「お、俺もちょっと……訓練あるし……」
 うんうんと昴が便乗すると、茂は「えー」と不満そうな声を漏らして身を引いた。初めて見る子供のような姿は微笑ましいが、これ以上は危険だ。それでなくてもやることが多いのに、五十話もあるドラマを見る時間などない。面白いのに、とぼやく茂を昴に任せて、大河は華と夏也を振り向いた。ちょっと大河くんっ、と昴の焦った声が聞こえたが、ここは気付かないふりをする。
 茂の様子がおかしかったのか、華はペットボトル片手に肩を震わせ、夏也は向こう側に顔を逸らしている。
「華さんは?」
 声をかけると、華の震えていた肩がぴたりと止まった。と思ったら勢いよく振り向いて綺麗な顔を寄せられ、大河は息をつめた。くっきりした二重の目を縁取る長いまつげが見える距離。これはさすがに――。
虎徹(こてつ)って可愛いわよね?」
「……は?」
 照れるより先に唐突に尋ねられ、大河は目をしばたいた。質問の意味は分からないが、刀で虎徹といえば。
「し、新撰組の?」
「そう、近藤勇の愛刀の虎徹! 可愛いわよね、響き!」
「響き……?」
 どこか必死な顔もやっぱり綺麗だ。だが、言っている意味が分からない。響きが可愛いってなんだ。硬直した大河に、華が顔を逸らしながら盛大な溜め息をついて脱力した。
「なんで誰も分かってくれないのー」
 悲痛な声で訴えられても分からないものは分からない。困惑した顔で夏也を見ると、無言で首を振られた。続けて振り向いた平常心を取り戻した茂と昴も、苦笑いで首を横に振った。ですよね、と言いたい。
「可愛いじゃない、こてつって響き。なんで分からないの? なんでなの?」
 分からないのは華の感性だ。ペットボトルを握り締めてぶつぶつ呟く華に、大河は恐る恐る聞いた。つまり、だ。
「華さん、もしかしてその、響きが可愛いって理由で、虎徹を選んだんですか……?」
 華は唇を尖らせ、ちらりと大河を見やった。
「そうよ、悪い?」
 言い捨ててふいと顔を逸らす。あ、拗ねた。おそらく響きが可愛いという理由を誰も分かってくれないのだろう。
 いつもはしっかりしていて明るくて優しくて笑顔を絶やさない華が、今は子供みたいに拗ねている。すっかり不機嫌な横顔を見つめていると、ふつふつと湧き上がってくる微笑ましさとおかしさに耐え切れず、大河は小さく噴き出した。咄嗟に口を覆って顔を逸らす。
「あっ、大河くん笑ったわね? 何よー、いいじゃない。どんな理由で選んでも自由でしょ」
 ふてくされた口調で文句を言いながら軽く肩を叩かれて、大河は堪え切れずに笑い声を上げた。つられて笑った茂たちの声も混ざり、庭に楽しげな声が響く。
「は、華さん可愛いっ」
「やっぱり馬鹿にしてる!」
 今度は少し強めに叩かれて、大河は体を引きながら振り向いた。
「してないしてない。華さんしっかりしてるから、何かこう、いわくとかで選んだんだと思ってたから」
「それ、似たようなこと樹にも言われたわ。もっとちゃんとした理由で選んだんだと思ってたって、すっごく馬鹿にした顔で! ほんと可愛くないったら!」
 華の握っているペットボトルがベコッと音を立ててへこんだ。やっぱりか。その光景がまざまざと想像できる。しかし、それを言ったら茂も似たようなものだ。見慣れていたのがたまたま童子切安綱だったからという理由で具現化した自分が浅はかだと思っていたが、そうでもなかった。
「じゃあ、短刀は?」
 気持ちが軽くなったところで矛先を変えると、華はペットボトルの形を整えながら、気を取り直すように息を吐いた。
日向正宗(ひゅうがまさむね)よ。関ヶ原の戦いの時に、石田三成が持ってたらしいわ」
「石田三成は知ってます。豊臣秀吉の家臣でしたっけ。何か理由があるんですか?」
指裏(さしうら)にね、護摩箸(ごまばし)が彫られてるの」
「指裏?」
「刀の刃を上、棟を下に向けて左腰に差した時、外側になる方を指表、内側になる方を指裏っていうのよ」
「へぇ。護摩箸っていうのは? お箸?」
 箸を握って動かす真似をした大河に、華がくすりと笑った。
「お箸はお箸なんだけど、護摩は分かる?」
「祈祷する時に火を焚くってことくらいしか」
「うん、間違ってないわよ。お護摩祈祷や不動護摩供(ふどうごまく)って呼ばれていて、不動明王を供養して加護をお願いする御祈祷なの。護摩箸は、護摩木や供物を火にくべる時に使う、鉄製の法具なのよ」
「え、法具なんですか?」
「ええ。だからね、護摩箸は不動明王の化身って言われていて、護符になるの」
「だから選んだんですね。あれ、確か美琴ちゃんの霊刀も」
 不動明王が持つ剣や龍、それと種字が彫られていると言っていた。
「そう。不動明王の梵名(ぼんめい)はアチャラナータ。アチャラは動かない、ナータは守護者って意味。不動明王は、煩悩を打ち消すと同時に、揺るぎなき守護者なの」
「揺るぎなき、守護者……」
 確か、覚えた新しい結界の真言の中には不動明王のものもあった。小さく反復し、大河は思案顔で庭へ視線を投げた。残されたままの昴の綺麗な結界が、仄かに黄金色の光を放っている。
 影正のノートには、それぞれの役割も一緒に書かれてあるが、真言を暗記するのに精一杯で、ざっと目を通してすぐに忘れてしまっていた。もしかして、結界が不安定な原因の一つなのかもしれない。霊力を対価にしているからといっても、役割を知らずに力を借りようとするのは不躾だ。
 誠実さが欠けていたのか。
 とはいっても、自分の脳みその狭量さは分かっている。少しずつでも、きちんと理解しなければ。
 初級の結界がすんなりできたのは初めだから見逃してくれたのかな、と自分なりの解釈をすると、大河と昴の間を藍と蓮が割って入ってきた。小さな靴に履き替えて庭に飛び出す。
「藍、蓮、お庭から出ちゃ駄目よ」
「はーい!」
 華の声に、双子の元気のよい答えが返ってきた。
 庭の中ほどで独鈷杵を握り、えいっ、やっ、と掛け声をかけて切り合う真似をする二人を眺めながら、不意に華が口を開いた。
「元々、日本刀は守り刀だったらしいわ」
 振り向いた視線の先の華は、とても愛しそうな眼差しで藍と蓮を見つめていた。
「鋭い切っ先を向けられると、誰でも怖いと思うでしょ? それは悪鬼も同じ。だから皇室では、子供が生まれると守り刀として短刀を贈る習わしがあるそうよ。あたしたち一般人が実物を贈るのは無理だけど、でも、せっかくこうして力があるんだもの。将来あの子たちがどんな道を選んでも、独鈷杵を使えるようになったら薦めようと思ってるの」
 やられたー、と棒読みの台詞を吐いて地面に倒れる蓮と、嬉しそうに両手を掲げて笑う藍に朗らかな笑い声が上がる。
 華らしいなと思った。せっかく、と聞くのは二度目だ。問題点ばかりが上がる会合で、柴と紫苑に今の時代を楽しんで欲しいと思える。藍と蓮の将来を考え、ともすれば、煩わしく疎ましいものにしかならないこの力を、前向きに受け入れようとする。
 そんな人が、この世を混沌に陥れようとするだろうか。
 ふと、以前宗史に言われた言葉を思い出し、大河は自分の両手に目を落とした。廃ホテルの事件の翌日、紺野たちに護符を渡したくて練習をしていた時だ。
『自分だけじゃなくて、一緒にいる誰かも守れる』
 宗史は、そう言った。自分だけではなく、誰かも守れると。
 刀も霊力も、同じだ。
 使い方一つで、考え方一つで意味が変わる。かつては、望んでもいない力のせいで、辛い思いもした。いつか誰かを傷付けてしまうのではと怖かった。でも、省吾(しょうご)たち、そして茂たち皆のおかげで力を受け入れられた。それに、この力があったからこそ今ここにいて、たくさんの人に出会えた。それは紛れもない事実。ならば、せっかく受け継いだのだ。華と同じように、守るために使いたい。大切な人たちのために。憎しみに囚われ、悲しみに溺れている人を、救うために。
 大河は、今一度覚悟を決めるように、ぎゅっと両手を握り締めた。
「さて、そろそろ続きをしましょうか」
 華がおもむろに腰を上げると、リビングの扉が開いて弘貴(ひろき)春平(しゅんぺい)の騒がしい声が飛び込んできた。何故か独鈷杵を交換していた藍と蓮が振り向いた。
「大河!」
「ちょっと弘貴、落ち着いて」
 足音も荒く、険しい顔で縁側に駆け寄る弘貴を、春平が必死に諌めている。何ごとだ。
「え、何、どうしたの」
 大河が驚いて腰を上げながら振り向くと、勢いよく迫った弘貴にがっしりと両肩を掴んだ。切羽詰まった顔。
「具現化のコツってなんだ?」
「え……」
 またざっくりとした質問だ。
「もうこれ以上無理ってくらいに集中してもさっぱり霊力が独鈷杵に集まんねぇんだよ。心折れるけど悔しいから諦めたくねぇ、教えろ!」
 体をがくがくと前後に揺さぶられながら力説され、大河は脳みそが揺れる感覚を覚えた。暗記した真言がこぼれ落ちそうだからやめて欲しい。
「弘貴、大河くん酔っちゃうからやめろって!」
「首、首がもげるわ!」
「はいはい、一旦落ち着こうか、弘貴くん」
「そんなに揺らすと、答えられるものも答えられませんよ」
 背後からは春平、大河の両隣からは茂と華が肩の手を引っぺがし、そして夏也の指摘でやっと弘貴が落ち着いた。おろおろとしていた昴が安堵の息を吐いた。
「もう、ほんとマジでへこむ……」
 弘貴は悲痛に呟いてしゃがみ込み、大河は軽く頭を振って歪んだ視界を正常に戻す。大丈夫かい、と気遣ってくれた茂に頷いて、初めて見る落ち込んだ弘貴の姿に大河は思案した。
 自分と弘貴はタイプが似ている。となると、あれこれ理屈を捏ねるよりは。大河は弘貴の肩に手を乗せた。
「弘貴」
 ゆっくりと情けない顔を上げた弘貴を見下ろし、大河は至極真面目な顔でその方法を口にする。
「格好良い霊刀を振るう、格好良い自分を想像する」
 とたん、全員の時間が止まった。
 庭では、首を傾げて大人たちの様子を眺めていた藍と蓮の側に、早めに帰宅した柴と紫苑が降り立った。おかえりなさい、と嬉しそうに出迎えながら即座に駆け寄った藍と蓮を抱き上げる。
 そんな微笑ましい光景が繰り広げられているとはつゆ知らず、弘貴が目を丸くしたままゆっくりと腰を上げた。そして示し合わせたように二人は拳を突き出し、ごつんと音をさせて合わせた。真剣な顔で見つめ合ったまま、無言で頷く。
「俺部屋に籠ってくる! 飯できたら呼んでー!」
 素早く身を翻しながら言い置いて、弘貴は晴れ晴れとした顔で慌ただしくリビングを飛び出した。廊下を走り去る足音、部屋の扉を乱暴に閉める音が微かに響いたところで、春平が呆然と呟いた。
「……納得するんだ……」
 あれで、と言いたげだ。
「えー……」
 どこか納得いかない声が茂たちから一斉に漏れ、反対に大河は満足した顔でうんうんと頷く。
「何かあったのか?」
 複雑な空気が漂う大河たちを見て紫苑が藍と蓮に問うたが、返ってきたのはきょとんとした顔だった。
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