第8話

文字数 3,821文字

「えっ、ちょっ、ま……っ」
 驚きのあまり、言葉にならない声で話しを遮ったのは狼狽した弘貴だ。気持ちは分かる。壁から飛び下りたことといい、まさか悪鬼の中に飛び込むなんて。
 唖然とした空気が流れる中、茂が続けた。
「向こうは、僕たちが派手な戦闘を避けると考えるだろうって思ったんです。集落の人には申し訳ないけど、だから逆をついてみました。さすがにちょっとびっくりしてましたよ」
 他人事のように言って、あははと笑った茂に、さらに唖然とする。緊迫する中でそこまで考えられるとは。
 嘆息混じりに樹が言った。
「時間が惜しいとはいえ、また無茶なことしたねぇ」
「樹くんに言われたくないなぁ。障壁の術は、廃ホテルの話しを参考にしたんだから」
「僕のせいなの?」
「そう、樹くんのせい。聞いてなかったら、あんなの思い付かないよ」
「それ、褒め言葉だよね?」
「もちろん」
 二人は朗らかにあははと笑った。笑うところなのか。
「それにね、悪鬼に飛び込んだのも、大丈夫って確信があったからだよ。ほら、迷子事件の時」
「ああ、大河の」
 すぐに思い当たったのは怜司だ。あーあれか、と声を揃える。悪鬼に食われた大河が、中から破邪の法を行使した件だ。あの一件で、中からでも術の効果はあると証明されていた。
「迷子事件?」
 反復した紺野に、茂はあらましだけを簡単に説明した。
「そんなことがあったんですか」
 ええ、と茂は頷いた。あの件は事件と関係ないため、報告されていないらしい。
「樹くんと大河くんに助けられたよ。ありがとう」
 偶然にすぎないけれど、そう言ってもらえると食われた甲斐があるというものだ。大河は照れ臭そうに笑って肩を竦め、樹は誇らしげな笑みを浮かべた。
「それにしても、柴はよく気が付いたな。離れてたんだろ?」
 下平が話しを振ると、柴に注目が集まった。
「茂の霊気が高まったのを感じ、大地が揺れたので、何かするつもりだと思ったのだ。そうしたら、遠目に壁が見えた」
 薄暗い森の中で、夜目が利く鬼だからこそだ。
「柴なら気付いてくれると思ってたよ」
「それは、光栄だ」
 二人は何でもないことのように話しているが、茂の作戦は柴を信用していないと実行できない。柴もまた、成り行きを茂に任せた。二人の間には、すでに信頼関係が築かれている。それはとても嬉しいけれど、一方で、茂は元教え子と敵対する覚悟をしていたのだと考えると、切なくもなった。
「それにしても、他の奴もそうだけど、渋谷の属性がはっきりしねぇな」
 晴が神妙な面持ちで口を開いた。属性が分かれば、ある程度術の威力も測れる。警戒する度合いが変わってくるのだ。分かっているのは、少なくとも一人は土属性がいるということだけ。
「うん。僕もそれは思った。もし三宅を殺害したのが彼なら、あの場で火天を行使しても火事にはならなかったと思うんだよね」
「てことは、違う奴?」
 口を挟んだ弘貴に、うーんと悩ましい声が漏れる。
「渋谷くんの器用さから考えると、間違いないと思うんだけど。機械の構造にも興味があったみたいだし」
「パソコンの修理会社に勤めていましたから、それは今でも変わらないでしょうね」
 紺野が追随し、宗史が続いた。
「属性を隠すため。あるいはよほど慎重な性格か、殺害するためだけに火天を会得して、本当の属性は水、という可能性もあるが……」
「可能性だけならいくらでも出てくるな」
 溜め息まじりの晴に、宗史が頷いた。意見が詰まったところで、宗一郎がまとめた。
「現在、敵側の属性は全員はっきりと分かっていない。対峙する際は先入観を持たないように」
 はい、と一様に返事をする。
「それと、茂さん。渋谷健人は貴方の性格をよく知っているでしょう。その裏をかいたのは見事です。しかし、だからこそこれから先は気を付けてください。いざという時は、ああいった戦い方も辞さないと分かったはずですから」
「はい」
 茂は真剣な面持ちで強く頷いた。いくら昴から情報が流れていても、実際に戦ってみないと分からない部分はある。それはお互い様だが、情報が乏しいこちら側の方が確実に不利だ。
「では次。下平さん、お願いします」
「はい」
 誰もが頭を切り替えて、下平の報告を傾聴する。
 菊池雅臣は、写真で見た限りでは素朴で目立たない優等生といった印象だった。争い事や喧嘩とは無縁の、ごく普通の少年。そんな彼が尊に言い放った台詞は、紛れもなく怒りと憎しみに満ちたものだった。何をどう償っても、雅臣は尊を許す気がないことだけは明白だ。
 ただ、下平が付け加えた言葉に、小さな希望があった。立ち去る足に躊躇いが見えた、迷いは生まれたのではないか、と。そうであって欲しいと願う反面、楽観視はできないとも思う。雅臣は、桃子の言葉を振り切ったのだ。それほど彼の決意は固いということ。では、その決意は自分以外の誰のためなのだろう。桃子は復讐など望んでいないと分かったはずなのに。
 一つ事件が起こるごとに情報や考えることが山積みになって、遭難しそうだ。
「――以上です」
 榎本が何故展望台へ来たのかを最後に下平が締めくくると、刑事組と現場にいなかった者たちから溜め息が漏れた。
「わざと悪鬼を取り憑かせるって……」
 口にしたとたん、ぞくりと全身が粟立った。食われた時の、あのおぞましさを思い出す。負の感情のみが凝縮され、それだけで満たされた空間。無機質に繰り返される憎しみと恨みの言葉はまるで呪いの言葉のようで、じわじわと心を侵食する。あんなものを、体内に取り入れるなんて。
「ちょっと待ってください。しげさんたちを疑うわけじゃないけど――操れるっつっても、本当にそんなことができるのか?」
 弘貴が茂から視線を移すと、紫苑が小さく首を横に振った。
「聞いたことがない。千代は、悪鬼を操り従えることができる。それのみだ。そもそも、我らが知る限り、千代が人と手を組んだことは一度もない」
 千代は生贄にされて人に強い恨みを抱き、果てに悪鬼となった。本来、復讐の相手である人と手を組むことは不自然だが、敵側の復讐相手も人だ。共通の目的を持つのならば、おかしなことではない。
「だが」
 柴が続けた。
「悪鬼を操ることができる、という力自体が、異質なのだ。何ができたとしても、不思議ではない」
 悪鬼は負の感情の塊だ。あるのは本能で、そこに理性は存在しない。ゆえに、本来ならば誰かに従うことはない。そんな悪鬼を従える力は、間違いなく異質だ。想像を上回る力があっても、一概に否定できない。
「そりゃ、そうだけど……」
 諭すように告げられ、弘貴は困惑した顔で視線を泳がせた。
「下平さんたちは、はっきり目撃しているんですよね」
 不意に宗史が尋ねた。
「ああ、間違いねぇよ」
「うん、確かに」
「あたしもよ。見た時は、さすがに驚いたわ。気配は悪鬼なのに、邪気みたいに出てくるんだもの」
 下平に茂と華が続き、熊田と佐々木もしっかり頷いたのを見届けてから、宗史が断言した。
「だとしたら、疑う余地はありません。警戒するべきです」
「同感」
 追随したのは樹だ。
「接近戦で触手が出てきたら、咄嗟に対処するのは難しい。少しでも可能性があるのなら、頭に入れとくべきだよ。それに、深町仁美のこともそれで説明がつく」
 あっと声を上げたのは刑事組だ。紺野が腑に落ちた顔で言った。
「いきなり正気に戻ったってのは、やっぱり取り憑かれてたのか」
「そう。悪鬼に取り憑かれれば、人の負の感情も一緒に抱え込むことになる。それだけ自分の中にある負の感情も増幅するんだ。邪気と融合してなくても、多分それは変わらないんじゃないかな。自由に悪鬼を取り憑かせることができるのなら、回収もできるでしょ」
 つまり、母親に悪鬼を取り憑かせ、故意に負の感情を増幅させた。まさに憎しみに囚われた状態だ。そして義父を殺害させたあとに、悪鬼を回収した。悪鬼が出ていけば、その分、負の感情は落ち着いて正気に戻る。
 ただ、話を聞いた限りでは、弥生が実行に移さなかったら事件は起こらなかった、とは言い切れない。それほどあの家族は――仁美の心は、歪み切っていた。にもかかわらず、弥生はあえて実行に移した。両親への恨みの深さがうかがえる。
 大河は背筋に走ったうすら寒さを抑えるように、ぎゅっと拳を握った。自由に悪鬼を取り憑かせることができる。それは、つまり――。
「でも、そうなると相当な精神力がいるだろうな」
 不意に晴が口を開き、宗史が答えた。
「ああ。悪鬼の影響を受けるのなら、自我や自制心を保つ精神力の強さは必要不可欠だ。よほどの覚悟がいる。ただ、しげさんも言っていたが、制限はあるだろうな。自我を失えば、本末転倒だ」
「ったく。その覚悟、もっと他のことに使えよ」
 心底呆れてぼやいた晴に、志季がまったくだと深く頷いた。
「一つ、注意事項がある」
 沈黙を守っていた宗一郎が口を挟み、ぐるりと視線を巡らせた。
「故意に悪鬼を取り憑かせることができるのならば、つまり、お前たちにも可能ということだ。紺野さんたちも例外ではありません」
 忌憚のない見解に、全員が表情を険しくした。おそらくそれは誰もが気付いていたことだろうが、こうもはっきり明言されると、ことさら実感が増す。
「鬼である柴と紫苑にも同じことができるかは不明だが、もしもということがある。全員、そのつもりで警戒するように」
「はい」
 揃った硬い返事が、リビングに重々しく響いた。
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