第6話

文字数 3,995文字

 平良は弄ぶように独鈷杵をお手玉しながら大河を見下ろし、おもむろに左足を上げた。そして何の躊躇もなく、大河の右肩を強く蹴り付けた。
「うあッ!」
 大河が悲鳴を上げ、足首を掴んでいた手を離して肩を掴む。うずくまるように体を丸め、動かなくなった。
「オン・ノウギャバザラ・ソワカ!」
 宗史は怒鳴るように真言を唱えた。霊刀に水の渦が顕現し、地面を滑りながら左脇に構える。こちらに気付いて向こう側へ大きく飛び退いた平良目がけて一閃。飛散した水塊の隙間から、無真言結界が張られたのが見えた。
 水塊が幹を掠る乾いた音と連続した破裂音が響く中、宗史は大河の元に駆け寄って目を丸くした。悪鬼にやられたらしい。右腕に開いた穴からとめどなく血が流れ、地面がどす黒く染まっている。
 出血が多い。
「左近、急げッ!」
 叫びながら大河を背に庇うようにして立ちはだかり、宗史は上がる白煙を追いかけて視線を上げた。煙の隙間に見えるのは、悪鬼に片腕を絡め取られた平良の姿。ゾンビのようだと感じたせいだろうか。結界の光を受けてこちらを見下ろすうすら笑いが、妙に不気味に映る。
 火花の音はまだ止まないが、地上に悪鬼の気配はない。治癒は左近でないと無理だ。ならば自分は独鈷杵の奪還。だが、飛べるとなると厄介だ。略式は無真言結界で防がれる。むやみに術を行使すれば鎮守の森を破壊しかねないし、最悪土砂崩れを起こす危険もある。麓には民家があるのだ。ならば。
「あんた」
 不意に、平良が口を開いた。
「つまんねぇな」
「は?」
 どういう意味だ。投げられたひと言に眉をひそめると、平良は顎をしゃくった。
「それと、そいつ。宇奈月影綱の霊力を受け継いだっつっても、術者がそれじゃあ、宝の持ち腐れだな」
 肩を竦めておどけて見せた平良に、大河が息を詰まらせたのが分かった。直後、左近の外側の結界が甲高い破裂音と共に砕け散った。
「おっと。さっさと退散だ」
 行け、と短く指示を出すと、悪鬼はすうっと後ろへ下がった。上は左近がいる。大河の治癒に当たると分かっているだろうが、念のために鉢合わせないよう闇に紛れるつもりだ。逃がしてたまるか。宗史が追いかけようと一歩踏み出した時、
「ああ、そうだ」
 闇と同化しながら、平良がのんきな声で言った。
「油断しない方がいいぜ」
 その含んだ言い回しと不敵な笑みに、思わず足が止まった。足止めするための脅しか真実か分からない。だが左近がいる。大河は問題ない。
 宗史は霊刀を消し、即座に弓を具現化させた。弦に指をかけると矢が顕現し、同時に左近が上から降ってきた。
「大河を頼む」
「承知した」
 指示を出しながら弓を持ち上げて引き分け、闇に溶けてゆく平良の姿に狙いを定める。湾曲した弓幹(ゆがら)がぎしっと軋んだ音を立てた。
 矢は、霊刀だと守れる範囲が狭く悪鬼に当たる可能性がある。だとしたら無真言結界で防ぐだろう。闇に紛れても、平良の霊気や結界の光、悪鬼の邪気で追える。それに先の戦いで、タフとはいえ霊力を消費していることに変わりはない。無真言結界以上に強化すればいいだけのこと。だが。
 ひゅっと細い音を立てて空を切り裂いた矢は、瞬時に張られた無真言結界に激突してバリッと火花を上げた。足りないか。宗史は、闇をほのかに照らす光を追いながら立て続けにもう一矢、さらに一矢。連続、かつ霊力を上げながら何度も放つ。
 追うのに問題はないが、向こうは悪鬼だ。矢の飛距離には限界がある。実際、一矢放つごとに火花の音の間隔が広がり、離されているのが分かる。あと一矢が限界か。
 宗史は矢をつがえて足を止め、霊力を注ぎ込んでさらに強化した。めいっぱいまで弓を引き、遠ざかる結界の小さな光目がけて最後の一矢を放つ。
 吸い込まれるように闇の中に消え、一瞬の沈黙のあと硬質な破裂音が微かに届き、同時に邪気が喪失した。すぐさまザザザザッと枝葉が擦れる音が響いてきた。悪鬼を失って平良が落下したのだ。やったか。宗史は弓を霊刀に変え、音がした方へ駆け出した。
 地面を覆う枯れ葉を蹴る自分の足音とは別に、前を行くもう一つの足音を追いかける。と、不意に消えたはずの邪気を感覚が捉え、宗史は足を止めて上を仰ぎ見た。
「援軍……?」
 油断するなという忠告はこれだったのか。まだ距離はあるようだし、かなり小さいように思えるが、平良を追う余裕はないか。宗史は舌打ちをかまし、遠ざかる足音の方を見やって踵を返した。
 次第に近付いてくる邪気に、宗史は眉をひそめた。援軍――全ての悪鬼を各地に送り込まず、わざわざ残していた。敗北した時のために。だが、悪鬼がタイミングを計れるのだろうか。平良が呼んだ様子はなかった。逃げながら何か合図を――いや、違う。
 もし本当にどこかで待機させていたのなら、もっと近くに、かつ逃げやすくするために大河の元へ向かう時に呼んでいるはずだ。だとしたら。
「左近」
 広場まで戻ってくると、左近が手元に目を落としたまま言った。
「援軍だろう」
「ああ。街を狙ったみたいだな。でも、それにしては規模が小さい気がするが」
「対策済みだ」
 すんなり返ってきた回答に、宗史は一拍置いた。
「……父さんと明さんか」
「ああ」
 敵側の動きをここまで読んでいたか。さすがだ。どんな対策だったのか聞きたいところだが、今は悪鬼の排除が先。宗史は短く息をつき、小さな敗北感をしまい込んだ。悪鬼の排除へ向かわなければ。何枚か障壁を形成すれば、上で戦える。
「行ってくる」
「待て」
 左近がかざしていた手を引いて腰を上げた。
「ひとまず傷口は塞いだ。続きはあとだ、お前たちはここにいろ」
「あの程度なら俺が……」
 行く、と口にする前に左近がこちらを振り向いた。
「側にいてやれ」
 すれ違いざまに小声でそう言い置くと、左近はとんと跳ねて姿を消した。
 木々が揺れ、遠ざかる枝葉の擦れる音を聞きながら、宗史は大河へ視線を落とした。真っ赤に染まった右腕を放り出し、胎児のように丸くなったまま、ぴくりとも動かない。
 宗史は霊刀を消し、独鈷杵をポケットにしまうと、ゆっくり膝をついた。
「大河」
「ごめん……」
 小さく掠れた声が返ってきた。
「ごめんなさい……独鈷杵……っ」
 中途半端に途切れた言葉の代わりに、体を小刻みに震わせる。
 大河が一人で本格的に悪鬼と対峙したのは、実質これが初めてだ。しかもあの規模。十分褒めて然るべき結果だと思う。だが、本人にとって重要なのは、そこではない。
 迎撃が始まったようだ。頭上から悪鬼の唸り声が響き、炎の赤がうっすらと二人を横切った。
「大河」
 静かに呼びかけると、大河の肩が怯えたようにぴくりと微かに揺れた。
「そうやって、うずくまっているつもりか?」
 例え巨大結界の発動に成功し敵側の思惑を阻止したとしても、独鈷杵が奪われた事実は、大河にとって敗北も同然だ。
 向小島での争奪戦で、事前に鈴が護衛し、尚が霊符を仕込み、影唯や省吾たちも巻き込んだ。そうしてやっと回収した独鈷杵を奪われれば、自分の不甲斐なさと同じくらい、罪悪感を覚えるだろう。
 それに、平良のあの言葉。霊力の使い方においては問題ないし、急成長していることは確かだが、体術や剣術は未熟だ。膨大な霊力を持ちながら、それに見合うだけの経験が足りていない。争奪戦の時のように、その場凌ぎの策は思い付いてもだ。しかし、こればかりは地道に積み重ねるしか術がないのも事実。大河もそれは分かっているだろう。分かった上で悔しくて、自分が情けないのだ。
 でも、また立ち上がる。明確な目的を持ち、これまで何度も迷って、悩んで、傷付いて、それでも前を向いてきた大河なら、きっと。
 短い問いかけに、しばらく答えは返ってこなかった。沈黙が落ちた二人を、左近が放つ炎が赤く染める。
 やがて邪気が完全に消えた頃、大河がごそりと動いた。塞いだだけの傷に声を詰まらせ、顔を歪めて歯を食いしばる。何度か動きを止め、深呼吸をして、徐々に体を起こす。
 そんな大河を、宗史は手を貸すことなくじっと見守った。戻ってきた左近が静かに歩み寄り、宗史の後ろで控えるように足を止めた。
 やっと体を起こした大河が、俯いて背中を丸め、ゆっくりと、長く息を吐き出した。そうしてゆらりと上げた顔には、頬や額には流れた血が固まり、土がこびりついている。けれどこちらを見据えるその黒い瞳は真っ直ぐで、強い光が宿っていた。
「絶対、取り戻す」
 返ってきた答えは実に端的で、明快なものだった。
 笑みを浮かんで頷いてやると、大河は照れ臭そうにはにかんだ。左近が息をついて歩み寄る。
「治癒の続きをするぞ」
「あ、うん」
 お手柔らかにお願いします、贅沢を言うな、と軽口を叩き合う二人を眺めながら、宗史は苦笑した。すっかりいつもの大河だ。腰を上げ、ぐるりと辺りを見回してわずかに眉を寄せる。
 何があったのかはあとで聞くとして、木々はなぎ倒され、ちょっとした広場になるほどの激しい戦闘だったことは確かだ。独鈷杵は奪われ、大河は下手をすれば利き腕を切断される危険もあった。それでも、牙は干渉してこなかった。今どんな状況にあるのか、間違いなく知っているはずなのに。
 やはり、島だけなのだろうか。あるいは大河が殺されることはないと知っているから、と考えられないこともない。しかしあの独鈷杵は牙にとって影綱の形見のようなもので、思い入れもあるだろう。他人に奪われるのは我慢ならないはずだ。
 隗や皓といい、どうも思考が読めなさすぎる連中が多い。それとも、自分が未熟だからだろうか。
 自嘲気味に深い溜め息を漏らした次の瞬間、ぞくりと全身が粟立って頭上を仰ぎ見た。大河も感じたようで、肩を跳ね上げて勢いよく顔を上げた。唯一左近だけが平静だ。
 近付いてくる圧倒的な神気に気圧されながらも、ほっと胸を撫で下ろす。
 ――巨大結界が、発動する。
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