第4話

文字数 4,570文字

 押し黙ってむむと眉間に皺を寄せる紺野と下平を、若い男が怯えたような横目で見ながら通り過ぎる。先に根を上げたのは下平だった。
「あーもう、ややこしい!」
 乱暴に頭を掻き、苛立ちを吐き出した下平に、紺野は苦笑いを浮かべた。少し先には、手前に駐車場を備えた二階建てのアパートが建っており、フェンスに囲まれた敷地の入口には、自動販売機が設置されている。辺りを見渡して人がいないことを確認する。確か、呼び出された展望台は市外の山中だ。尊と共に向かい、茂や(はな)と同乗して来たのなら二時間くらいは一本も吸っていないはず。
「下平さん、一服しますか? 自販機もあるし、人もいませんよ」
 自動販売機の前で足を止めて提案すると下平も立ち止まり、「お」と嬉しそうな顔できょろきょろと視線を動かして、内ポケットを探った。
「いいか? 悪いな」
「構いません。俺も喉乾きましたし」
「喫煙所じゃねぇのは分かってるけど、だからってこうもこそこそしなきゃならねぇってのはなぁ」
 確かに一理ある。マナーやルールは大事だが、罪でもないのに人目を気にしなければいけないのは、喫煙者からすれば不満に思う。けれど非喫煙者からしてみれば、煙草の副流煙やきつい臭いはどうしても気になるだろう。どちらの気持ちも分かるため何とも言えず、紺野は品定めしながら苦笑した。
「下平さん、何にします?」
 お茶かコーヒーか迷いながら内ポケットを探っていると、横から五百円玉が差し出された。
「付き合わせてるから奢る。ブラックな」
 早く受け取れと言いたげに硬貨を振られ、紺野は少し迷ったが素直に受け取った。もう、しつこく遠慮する仲でもない。
「じゃあ、ごちそうになります。ありがとうございます」
「おう」
 下平は、にっと笑い煙草をくわえて火を点けた。
 ブラックと微糖を一本ずつ買い、揃ってプルタブを開ける。冷えたコーヒーを喉に流し込んで長い息を吐くと、肩の力が少しだけ抜けた。蒸し暑さを残した夏の夜の住宅街に、長く煙を吐き出す下平の呼吸音が密かに響く。
 駐車場に設置された外灯と自販機の蛍光灯に照らされ、ゆらゆらと昇る紫煙を目で追いながら、下平が神妙な声で沈黙を破った。
「内情を探れればって、宗史も思ったんだろうな」
 不意に振られた話題は、何のことなのか聞くまでもない。
「やっぱり、そう思いますか」
「それしかねぇだろ。俺は椿と廃ホテルで一回会っただけだけど、ありゃ裏切るタイプじゃねぇよ」
「俺もそう思います。廃ホテルで、志季と紫苑が下平さんたちを先に降ろしたの、椿が心配したからなんですよ」
 かくいう紺野も、犬神事件のあとと廃ホテルの二度だけだ。あの時の、宗史との仲睦まじい姿が蘇る。
「そういや、志季がそんなこと言ってたな。言いだしっぺは椿なのか」
「ええ。賀茂さんも酷く驚いていたので、宗史の独断でしょうね」
「大丈夫なのか。昴は椿の性格知ってるだろ」
「だからこそ、じゃないですか?」
 椿は宗史を裏切らない。そう昴が知っているからこそ、自らを刺すように命令した。下平が呆れたように嘆息し、内ポケットから携帯灰皿を取り出して灰を落とした。
「下手すりゃ死んでたって言いたいところだけど、宗史は椿を信じたんだろうな。絶対に失敗しないって」
「ええ」
 さすがに無理強いはしていないだろうが、裏切ったふりをする以上、敵として対峙することになる。実行したのなら覚悟はできていたのだろうが、それでも潜入が発覚すれば、椿はただでは済まないだろう。
「複雑だなぁ……」
 下平は言葉通り、複雑な顔をして煙を吐いた。
 個人的な感情を優先するのなら、馬鹿なことをするなと叱り飛ばして、今すぐ連れ戻したい。いくら神とはいえ危険すぎる。けれど、犯人たちの思惑通りに事が進む今、期待する自分もいる。内情が分かれば向こうの行動基準が読めるし、敵の正確な数や潜伏場所が分かる。奴らの目的もはっきりするかもしれない。
 椿への心配と期待が、せめぎ合う。
「宗史は、冷静に見えて意外と無茶するタイプですね」
「みたいだな。まあでも、こっぴどく叱られるのは間違いねぇな。処分されなきゃいいけど」
「処分?」
「聞いてねぇか?」
 下平は、廃ホテルの事件で樹に課せられた処分を説明した。
「何ですかそれ。子供じゃあるまいし」
 呆れ顔でコーヒーに口を付けた紺野に、下平はいやいやと首を横に振ってこちらを見た。
「あいつの甘党は異常だ。甘味禁止以上の処分はねぇ」
 目と声がマジだ。
「……そう、ですか」
 紺野が引き気味に納得すると下平は無言で頷き、最後の一口を吸って吸殻を携帯灰皿に押し込んだ。本人たちは至って真面目なのだろうが、残念ながらふざけているとしか思えない。
 空き缶をゴミ箱に捨て、再び大通りへ向かいながら、今度は下平からの報告を聞いた。
 現場に熊田の娘がいたことには驚いたが、それはさておき、北原を襲っておいて下平には忠告した。ますます北原を襲った理由が分からなくなった。雅臣(まさおみ)の意味深な言葉、悪鬼の生態、そして千代(ちよ)の能力。犯人たちの戦法は一つ判明したけれど、また謎が増えてしまった。
松井桃子(まついももこ)でも駄目でしたか……」
「ああ。けど、少しは迷いが出たと思う。それだけでも良しとするべきだ」
「そうですね……」
 自分だけのためではない。では誰のためだ。仲間のためというなら、納得できなくもない。しかし、これがもし桃子のためだというのなら、間違っている。彼女がそんなことを望んでいないことくらい、分かるだろうに。
「あと、茂さんだな。割り切ってるように見えたけど……」
「元教え子ですからね。家族を殺されたという嫌な共通点がありますし、心穏やかとはいかないと思います」
「だよなぁ……」
 下平が重い溜め息をつき、おもむろに遠い目をした。
「俺は、そろそろ頭がパンクする」
 いきなり何の宣言だ。横目で見やると、魂が抜けたような無の顔をしていた。薄暗さも相まって、目が虚ろで怖さ倍増だ。けれど分からなくもない。今日一日で起こった出来事と得られた情報をまとめると、確かにキャパオーバー気味だ。
 まだまだ謎も多いし、気になることも山積み。それに、明と(せい)のことも。
 宗一郎の暴露を聞いて、初めて気が付いた。晴明から名を一字ずつ取ったのなら、二人の名前は逆であるはずだ。何故わざわざ明と晴と名付けたのだろう。栄晴は、二人が生まれる前から子供の数を把握し、弟の方が陰陽師としての才覚があると分かっていた、ということなのか。
 などと自分が気にしても仕方がないし、そもそも、晴明から名を取ったのなら「晴」の方が先、という考え方は固定観念だ。むしろ気にするべきことは他にある。明日、間違いなく捜査本部は大騒ぎになるし、府警本部周辺は報道陣でごった返す。
 沢村(さわむら)のことが、頭をよぎった。
 示し合わせたように深々と溜め息を漏らすと、下平が我に返った。
「そうだ、お前監視がついてただろ。どうやって振り切ったんだ」
「ああ。スーパーの搬入口から出してもらいました」
「は?」
 端的すぎて分からないといった顔で、下平が首を傾げた。
「近所のスーパーによく行くんですけど、一度万引きを捕まえたことがあるんです。その時に警察官だってバレまして。買い物に行くふりをして、誰かにつけられてるみたいだから裏から出して欲しいって頼んだんです」
 頼んだのは顔見知りのパートの主婦で、彼女は快く協力してくれた。ただ、どことなく楽しんでいたように見えたのは、気のせいではないはずだ。
 嘘をつくことと、同じ警察官を不審者扱いするのは気が引けたけれど、会合の時間が迫っていたので手段を選ぶ余裕がなかった。
 下平は、楽しそうに喉の奥で笑った。
「なるほどな。普段の交流が意外なところで役に立ったな」
「ええ、まあ。ただ、どう言い訳をしようかと……」
 明日、加賀谷のことで大騒ぎになるだろうし、管理官も交代する。とはいえ当然捜査は続行だ。監視を巻いてまでどこに行ったのか追及されるだろう。
「女に会いに行ったとでも言っとけ」
 せっかくの助言も、ニヤつきながら言われても有難みがない。他人事だと思って。恨みがましい目で見上げると、下平は豪快に笑い飛ばした。さて、どうするか。
「あ、そうだ。もう一つ。近藤への説明はお前に任せる」
「……」
「黙るな。そしてそんな目で見るな。あいつ拗ねてたぞ」
 ぐちぐちと文句を言われるのが確定した。紺野は心の底から嫌々「分かりました」と請け負った。
 やがて大通りに出て、タクシーを捕まえた。案の定ぎょっとされたが、下平が警察手帳を提示すると、運転手は「大変ですねぇ、病院じゃなくていいんですか」と同情たっぷりに言いながら乗せてくれた。
 行き先は、ひとまず紺野の自宅だ。
 さすがに事件のことは話せないし、二人とも疲れている。車内に沈黙が落ちた。すぐに下平が腕を組んだまま船を漕ぎ始めたので、紺野は携帯を確認した。
 まだ、北原の家族から連絡はない。
 紺野は密かに息をつき、窓の外を流れる街並みへ顔を向けた。
 北原のメモ帳は、明か宗一郎の元にある。
 あの日、「嘘」という文字を確認した時、頭が真っ白になった。この「嘘」の文字が嘘なのではないかと疑った。けれど、理屈で考えれば、嘘でないことはすぐに分かった。
 文献を盗んだのが昴だったら、全て辻褄が合う。何故朝辻神社に文献があることを知っていたのかも、宝物庫の鍵の在り処も、他の貴重品に手がつけられていなかった理由も。
 動揺や困惑、焦り、怒り、悲しみ。色々な感情が混ざり合って、いても立ってもいられなかった。
 会議室から飛び出そうとした紺野を止めたのは、近藤だった。
「そうやって突っ走るって分かってたから、北原くんは言えなかったんでしょ。彼はこれを一人で抱えてたんだよ。今、紺野さんが朝辻昴を問い詰めて逃げられたら、北原くんの気持ちはどうなるの。冷静になりなよ。紺野さんは、刑事でしょ」
 近藤の忌憚ない叱責は、理性と共に、鋭い刃物でばっさり切られたような痛みを胸にもたらした。
 その後、下平の提案で護衛についていた左近にメモ帳を託すことにした。内容を伝え、判断はそっちに任せると添えて。
 下平に鬼代事件の真実を話した時、覚悟を決めてもらわなければと思った。
 ――覚悟ができていなかったのは、自分の方だ。
 もし北原が調べていなければ、昴が内通者だと断定できないまま、今日を迎えていた。酷く動揺し、混乱しただろう。冷静に出席できたのは、北原のおかげだ。だから、絶対に捕まえると覚悟を決めて会合に臨んだ。それなのに――。
 紺野は唇を一文字に結んだ。
 なんて情けない。北原を、落胆させるだろうか。
 自宅前には監視が待機している。下平を見られるわけにはいかないので、少し離れた場所で停まってもらった。代金を運転手に預け、下京署までと告げて、すっかり夢の中にいる下平を起こさないようにタクシーを降りた。
 紺野はタクシーを見送り、自宅へ向けた足をふと止めた。今頃、府警本部はどうなっているだろう。記者クラブの連中は、早々に嗅ぎつけているかもしれない。いつも通勤する道へ足を踏み出そうとして、思いとどまった。
 今行くのは不自然だ。加賀谷はともかく、他の署員に怪しまれる。
 紺野は肩を上下させて息を吐き、踵を返した。
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