第5話

文字数 4,584文字

 予定通り、朝一で舞鶴へ向かった。
 車窓を流れる舞鶴市内の景色を眺めながら、紺野(こんの)は小さく溜め息をついた。昨日の話が頭から離れない。
 昨日、下京警察署を出た足で、佐伯茂がかつて住んでいた住所を尋ねた。
 現在は別の住人が住んでおり留守だったが、隣の主婦から話を聞くことができた。初めは怪訝な顔をされたが「過去の資料整理のための確認です」と言うと、あらそう警察の人ってそんなこともするのね、とあっさり納得してくれた。
 茂は「宇治にいる知り合いのところで世話になる」と言って引っ越したらしい。それが三年前。過去の資料と年が同じであり、住民に嘘を言って引っ越した。おそらく、樹と数カ月のずれはあるが、同じ年に寮へ入っている。
「とってもいい先生だったのよ、佐伯さん。時々ね、生徒さんたちが遊びに来るくらい慕われてたの。今時いないでしょ、そんな先生。だから辞められた時は、まあ仕方ないんでしょうけど、ちょっと残念だったわ。うちの子も中学の時は時々お世話になってたから」
 主婦はそう物悲しそうに語った。地域住民からも頼りにされて慕われていたらしく、評判は上々。まるで矢崎徹(やざきとおる)の時と同じだった。
 次に、かつて勤務していた中学校を訪ねた。こちらもまた同じ理由を告げると納得してくれた。
 対応してくれたのは、かつて同僚だった男性だ。当時のことを詳細に聞き出す中で、ある質問をした時、不意に彼は表情を曇らせた。
「それは、その……」
 彼は言い辛そうに口をつぐんだ。何かあるのか。
 しばらくして、実はと重苦しい口を開いた。それは、結果的に警察の記録には残らなかったが、かと言って本来見過ごしてはならない出来事だった。
「私は、佐伯先生が辞めた本当の理由は、あの件だったんじゃないかと思ってるんです。全くの別件ですが、それでもあの件がなければ、まだ彼は教師を続けていたかもしれません」
 本当に、いい先生だったんです、と彼は実に残念そうに呟いた。
 家財の一切を処分し、自宅を売り払い、どういった経緯で寮に入ったのかは分からないが、樹同様、やはり事件を起こす動機は茂にもあることが判明した。
 本部への帰り道、北原(きたはら)がぽつりと言った。
「一つ違えば、茂さんの運命は変わっていたってことですね……」
「ああ、そうなるな」
 やりきれませんね、北原はそう呟いた。
 一つ違えば、運命は変わっていた。それは昴にも、そして樹にも同じことが言える。
 あの時、朝辻が文献のことを思い出していれば。あの時、樹の自宅へ彼らが訪ねていなければ。彼らの人生は、違うものになっていたかもしれない。今さらどうこう言っても仕方ないが、それでも考えずにはいられない。
「紺野さん、着きましたよ」
 北原は、指定された全国展開するコーヒーショップの駐車場で車を停めた。
 舞鶴市は、京都府の北東部に位置し、日本海に面した港町だ。大半を山林に占められており、人口は減少傾向にあるが、北部地域の中心的地位を保っている。
 明治34年に軍事的要地として栄え、魚雷や弾薬の倉庫として建築された赤レンガ建築が数多く残っており、観光施設となっている赤レンガパークや、赤レンガ博物館に使用されている。古からの神社仏閣も多く点在しているが、自衛隊の現役艦艇を見物できる自衛隊桟橋、旧日本軍の資料が多数展示されている海軍記念館、そして舞鶴引揚記念館。舞鶴の歴史は、軍と共にあると言っても過言ではない。
 華の実家は、戦国時代から城下町として栄え、かつて西舞鶴市と呼ばれた街中にある。本当は家族から話を聞きたいところだが、華に連絡されては困るので断念した。当時の華の勤務先もすでになく、経営者も行方が分からない。資料から分かる範囲で聞き込みができるのは、一か所だけだ。
 午前十時頃、華が通っていた高校を訪ねた。茂の時と同じ理由を告げると、非常に怪訝そうな視線を向けられた。刑事だからと言って安易に信用されないのは、時代なのか。仕方ないので、調書に書かれていた人柄についても確認がいるのでと言うと、しぶしぶ納得してくれた。
 だが、当時の教員は誰もいないと告げられた。華は現在25歳だ。九年も前、しかも基本三年で異動、十年は稀と言われる公立校の教員なら当然かもしれない。誰かお心当たりはありませんかと尋ねると、華が二年生の時、クラス担任をしていた女性教員が再びこちらに異動になり、去年定年して旧西舞鶴市内にいると教えられた。連絡を取ってもらうと、彼女はすぐに会うと言ってくれた。やけに反応が早いことに、違和感を覚えた。
 その彼女が指定した場所が、道の駅・舞鶴港近くにあるこのコーヒーショップだった。
 入口の扉を開けると、すぐに店員が対応してくれた。待ち合わせをしている旨を告げると、察したように案内された。
 木目調で統一された店内には、高い間仕切りで仕切られたボックス席が整然と並んでいる。これなら周囲を気にすることなく話ができそうだ。
 案内された席は、店の裏手側にある窓際の一番奥。ますますうってつけだ。
 注文をせずに待っていたらしい、一人の女性が水を飲みながら鬱蒼と茂る森を眺めていた。近付いてくる足音に、女性は振り向いて腰を上げた。国語教師だと聞いているが、凛とした面持ちは数学の方が似合いそうだ。
相葉悦子(あいばえつこ)さん?」
「はい。紺野さんと北原さん、でしたか」
「はい。突然呼び出してすみません。ありがとうございます」
「いえ」
 一応ちらりと警察手帳を見せ、向かい合わせの位置に腰を下ろす。すぐに先ほどの店員が注文を取りに来た。それぞれブレンドを注文し、一拍置いたところで悦子が口を開いた。
「それで、青山さんのことがお聞きになりたいとか」
「はい。詳細はお話できませんが、彼女の人柄を確認したくてお願いしました。さっそくですが、学生時代はどんな生徒でしたか」
 北原が手帳とペンを取り出した。悦子は小さく息を吐き、そうですねと呟いた。
「彼女のことは、よく覚えています。とても優秀で、文武両道を絵に描いたような子でした。誰にでも分け隔てなく優しくて、私たち教師も、とても信頼を置いていた生徒でした。ただ――」
 悦子はふいと通路に視線を投げ、一旦言葉を切った。失礼しますと言って店員がコーヒーをそれぞれの前に置き、立ち去ってから再び口を開いた。
「刑事さんたちは、彼女にお会いになりました?」
 唐突に尋ねられ、二人揃って首を傾げた。
「ええ、まあ」
「どんな印象をお持ちになりましたか」
 質問の意図が分からない。何だ。
「そうですね……とても綺麗な方だと」
 あと色気がすごい。とは言えない。挨拶がてら行った時は哨戒でいなかったため会合で一度会っただけだが、あの時はジーンズに白のサマーニット姿だった。シンプルな服装ではあったが、それが逆に彼女の色気を際立たせているようにも見えた。
 紺野が答えると、悦子は表情を曇らせた。おかしな言い回しではないはずだが、何かまずかったか。
「やっぱり、そうでしょうね」
 そう呟いた悦子の声には、どこか同情の色が含まれている。
「どういう意味でしょう」
 悦子はコーヒーに口を付けてから、ゆっくりと語り出した。
 人から嫉妬を買いやすい人間は、確かにいるものだ。容姿や才能、頭脳、人柄に恵まれた者。華は、それらを網羅していた。ただ足りないのは、ごく普通のサラリーマン家庭の生まれだったことくらいだ。
「気丈な子でした。いつも笑顔で、彼女が弱音を吐いたところを見たことがありません。けれど、おそらく本心は違ったのではないかと思います。華さんが弾くピアノは、悲しい音でしたから」
「彼女、ピアノが弾けるんですか」
 ええ、と悦子は微かに微笑み、北原がへぇと感嘆を漏らした。勉強や運動だけでなく芸術方面もこなすのか。なるほど、嫉妬を買いやすいはずだ。
「子供の頃からずっと続けていたらしくて、放課後の音楽室で弾いている姿をよく見かけました。それで聞いたんです。よく弾いてるけど家では弾かないのって。そしたら彼女、(うた)がピアノ嫌いだからって言ったんです」
「詩さんとは?」
「一つ下の妹さんです。本当は別の学校を受験していたそうですが、駄目であの学校に入学したと聞きました」
 ピアノ嫌いな妹に遠慮していたのか。子供の頃にレッスンが嫌で嫌いになるとは聞いたことがあるが、弾くことを遠慮しなければならないほど嫌いになるものだろうか。
「私もピアノを嗜んでおりますので、多少分かるつもりです。どんな楽器でもそうですが、音は演奏者の心情や心境をそのまま反映します。音は嘘をつきません。彼女の音はとても綺麗ですが、今にも壊れそうなほど脆く、繊細でした。しばらくして知ったんですが、華さんと詩さんは、どうも仲が悪かったようで」
「その、理由とは」
 悦子は一瞬戸惑い、言った。
「彼女たちは確かに姉妹ですが、似ていないんです」
「似ていない?」
 容姿のことだろうか。だが、似ていない兄弟姉妹など、そう珍しくもないだろうに。悦子は、どこか後ろめたそうな面持ちでコーヒーカップに視線を落とした。
「華さんに対して詩さんは、全てにおいて劣ると。それが、周りの評価でした」
 正直、姉妹で同じ学校に通っていれば、比べられるのは仕方ないと思わなくもない。しかも、出来の良すぎる姉を持てばなおさらだ。しかし全てにおいてというのは言い過ぎなのではないか。
 メモを取っていた北原が顔を上げ、不快気に眉を寄せた。
「詩さんが三年生の時、私がクラスを受け持ちました。私は、詩さんが劣るとは決して思っておりません。勉強も運動も良くでき、明るい性格で友達も多い子でしたし。ただ、本人はそう思っていないようでした」
 それはつまり、常に周囲から比べられていたということなのだろう。姉と比べられ、しかも姉ばかり評価されればそう思い込むようになってしまっても仕方ない。悦子のように、詩個人をきちんと見る者がいなかったのかもしれない。せめて両親くらいは平等に見てやっていると信じたいが。
「進路相談の時に、何気なく聞いたんです。お姉さんは元気? って。そしたら彼女、こう言ったんです。あんな奴のことなんか知らない、もう比べられなくてすむ、せいせいしたって。仲が悪いとはいえ、さすがにそこまでとは思っていませんでした」
 悦子は静かに溜め息をついた。
 華は、高校卒業と同時に京都市内の会社へ就職し、家を出ている。せいせいしたと言われるほど仲が悪かったのなら、相当居心地は悪かっただろう。
「あの、華さんは詩さんのことをどう思っていたんでしょう?」
 北原が尋ねた。
「大切に思っていたと思いますよ。校内合唱コンクールの時、詩さんがソロパートを担当したことがあって、とても自慢気に話してくれましたから。本当に嬉しそうでしたよ」
「へぇ、詩さん、名前の通り歌が上手なんですね」
「ええ、とても。綺麗なソプラノでした」
「そうですか」
 珍しいなと思った。聞き込みの時、よほど何かない限り口を挟んでくることはないのに。兄弟が多い分、何か気にかかるのだろうか。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み