第8話
文字数 2,212文字
顔を引き締めて見上げた先では、犬神が弾かれたように熊野本宮大社の方へ飛び去り、水龍がそれを追いかけている。さらに熊野本宮大社の方からは、真っ黒な塊がこちらへ向かって来る。
「右近、左近、戻っておいでー!」
樹が緊張感のない声を張り上げた。水龍が速度を落とし、後ろ髪を引かれるように尻尾を一度揺らしてから舞い戻ってきた。民家の近くで戦えば被害が出ないとも限らないので、手を出させるわけにはいかない。
「あの遠吠えで向こうの悪鬼を呼んだのか」
「融合するつもりだね」
「犬神も悪鬼だからな。不思議じゃない」
「どのくらい融合できるのかな。無限?」
「融合しすぎると犬神の意思が取り込まれそうな気もするが……どうだろうな」
水龍が戻り、頭上で待機する。一方犬神は、一旦空中で止まったかと思いきや、ぱかっと大きく口を開けた。細く形状を変えた悪鬼がまるで麺のようにつるつると吸い込まれ、比例して犬神の体積がどんどん増していく。
「あれ、融合って言うより……」
「食ってるって感じだな」
うわぁ、と樹が気味悪そうに顔をしかめた。
「まあそれはともかく」
樹が言葉を切って健人と弥生を振り向いた。二人が警戒心を強め、揃って霊刀を構える。
「悪鬼と融合したなら水龍だけじゃ無理だろうね。怜司くん、地天の霊符持ってきてるよね」
「ああ」
「じゃあ任せるよ」
「お前、二人を一人で相手にするつもりか?」
「まさか。どっちでもいいけど、そうだな、左近貸してよ」
何故左近なのかという疑問はさておき、貸してと言われてもどっちがどっちか分からないのだが。と思っていると、頭上で待機していた水龍のうち一体が樹の側へすいと下りてきた。ということは、残った方が右近か。
「援護頼むぞ、右近」
水龍が任せろと言わんばかりに尻尾を大きく振る。式神の右近と左近が聞いたらどう思うだろう。
「さてと」
樹が気を取り直すように息をつき、怜司が巨大化した犬神を見やる。全長四、五メートルといったところだろうか。体表から昇り立つ黒い煙に、敵意をあらわにした深紅の瞳、鋭い二本の牙、低い唸り声。さすがにこれだけ巨大だと迫力がある。
隣に立つ樹の視線の先には健人と弥生。そして怜司の視線の先には、地面に降り立った犬神。計らずとも敵に前後を挟まれている。
「ではでは、二回戦」
こんな状況にそぐわない樹の軽い口調を合図に、怜司は霊符を片手に霊刀を握り直した。
「行きます、か!」
樹の語尾に合わせ、怜司以外の全員が一斉に地面を蹴った。
「オン・ビリチエイ・ソワカ――」
さっそく響いた剣戟の音を背に、怜司は素早くしゃがみ込んで霊符を地面に叩き付けた。目の前では、水龍が空を切りながら水塊を顕現する。
犬神を相手にするには、まずは足場を作っておかなければならない。元が犬だけに動きは俊敏だろうし、加えて飛べるのだ。略式などの飛距離のある術でも、何もないこの場所では簡単に逃げられる。逃げ放題なのに悪鬼と融合したのは、同じように飛べる水龍二体が相手で、敵わないと悟ったからだ。ならばできるだけ同じ状況を作って、近距離から狙う。
ただ一つ、問題がある。
「帰命 し奉 る。地霊掌中 、遏悪完封 、阻隔奪道 ――」
水龍が水塊を放ち、犬神が空中へ逃げた。地面が小刻みに揺れる。
「急急如律令 」
最後の真言に合わせ、ドンッ! と爆発音に似た音を立てて棒状の土の塊が五本、凄まじい勢いで飛び出した。蛇のようにうねりながら水龍と犬神のあとを追い、ぐんぐん上へと伸びて距離を詰める。援護に回るつもりだろう。水龍が道を譲るように急上昇した。
怜司はその様子を横目で見上げて駆け出し、さらにもう一枚霊符を取り出した。
変則的に逃げ回る犬神の先を読むなどということはできない。案の定、距離を詰められた犬神が軌道を変えた。急下降し、襲いかかる土の蛇を器用に避けながら、地面すれすれを飛んでこちらへ向かってくる。真正面。
術者が死ねば術が解ける。それを狙ったか。怜司はとっさに足を滑らせて足を踏ん張った。
犬神がぱかっと大きく口を開け、とたん、黒い塊が勢いよく弾き出された。直径一メートルほどだろうか。あまり大きくはないが、勢いが凄まじい。砂埃を上げ、地面を抉るように空を切る。この速度では避けるのも九字結界も間に合わない。怜司は霊符を口にくわえ、両手で霊刀を構えた。
瞬く間に、黒い塊が迫る。
黒い塊越しに見えたのは、犬神を狙ったのか黒い塊を狙ったのか、あるいは両方か。降り注いだ大量の水塊と、頭上を凄まじい勢いで通り過ぎた犬神と土の蛇の姿。
残念ながら水塊は外れたようだ。怜司はぐっと奥歯を噛み締めて足を踏ん張ると、叩き付けるように霊刀を振り下ろした。水塊が連続して地面に激突する衝撃音が響き渡り、霊刀が黒い塊を真っ二つに切り裂いた。
すぐ両脇を、真っ黒な壁が素通りしたような光景だった。一瞬視界が黒く染まり、ゴッ! と耳元で風が鳴り、強烈な風圧に押されて足がわずかに滑る。
「く……っ」
怜司は短く唸ってさらに足を踏ん張って止まり、後ろを振り向いた。半円状になった二つの黒い塊が、一気に速度を落としながら形を失っていく。
犬神は悪鬼だ。さらに悪鬼と融合している。ということは、あれは悪鬼。体内で形成して放った、といったところだろう。触手を扱えると志季から聞いてはいたが、あんなこともできるのか。けれど、あれが本当に悪鬼なら犬神には当然リスクがある。
「右近、左近、戻っておいでー!」
樹が緊張感のない声を張り上げた。水龍が速度を落とし、後ろ髪を引かれるように尻尾を一度揺らしてから舞い戻ってきた。民家の近くで戦えば被害が出ないとも限らないので、手を出させるわけにはいかない。
「あの遠吠えで向こうの悪鬼を呼んだのか」
「融合するつもりだね」
「犬神も悪鬼だからな。不思議じゃない」
「どのくらい融合できるのかな。無限?」
「融合しすぎると犬神の意思が取り込まれそうな気もするが……どうだろうな」
水龍が戻り、頭上で待機する。一方犬神は、一旦空中で止まったかと思いきや、ぱかっと大きく口を開けた。細く形状を変えた悪鬼がまるで麺のようにつるつると吸い込まれ、比例して犬神の体積がどんどん増していく。
「あれ、融合って言うより……」
「食ってるって感じだな」
うわぁ、と樹が気味悪そうに顔をしかめた。
「まあそれはともかく」
樹が言葉を切って健人と弥生を振り向いた。二人が警戒心を強め、揃って霊刀を構える。
「悪鬼と融合したなら水龍だけじゃ無理だろうね。怜司くん、地天の霊符持ってきてるよね」
「ああ」
「じゃあ任せるよ」
「お前、二人を一人で相手にするつもりか?」
「まさか。どっちでもいいけど、そうだな、左近貸してよ」
何故左近なのかという疑問はさておき、貸してと言われてもどっちがどっちか分からないのだが。と思っていると、頭上で待機していた水龍のうち一体が樹の側へすいと下りてきた。ということは、残った方が右近か。
「援護頼むぞ、右近」
水龍が任せろと言わんばかりに尻尾を大きく振る。式神の右近と左近が聞いたらどう思うだろう。
「さてと」
樹が気を取り直すように息をつき、怜司が巨大化した犬神を見やる。全長四、五メートルといったところだろうか。体表から昇り立つ黒い煙に、敵意をあらわにした深紅の瞳、鋭い二本の牙、低い唸り声。さすがにこれだけ巨大だと迫力がある。
隣に立つ樹の視線の先には健人と弥生。そして怜司の視線の先には、地面に降り立った犬神。計らずとも敵に前後を挟まれている。
「ではでは、二回戦」
こんな状況にそぐわない樹の軽い口調を合図に、怜司は霊符を片手に霊刀を握り直した。
「行きます、か!」
樹の語尾に合わせ、怜司以外の全員が一斉に地面を蹴った。
「オン・ビリチエイ・ソワカ――」
さっそく響いた剣戟の音を背に、怜司は素早くしゃがみ込んで霊符を地面に叩き付けた。目の前では、水龍が空を切りながら水塊を顕現する。
犬神を相手にするには、まずは足場を作っておかなければならない。元が犬だけに動きは俊敏だろうし、加えて飛べるのだ。略式などの飛距離のある術でも、何もないこの場所では簡単に逃げられる。逃げ放題なのに悪鬼と融合したのは、同じように飛べる水龍二体が相手で、敵わないと悟ったからだ。ならばできるだけ同じ状況を作って、近距離から狙う。
ただ一つ、問題がある。
「
水龍が水塊を放ち、犬神が空中へ逃げた。地面が小刻みに揺れる。
「
最後の真言に合わせ、ドンッ! と爆発音に似た音を立てて棒状の土の塊が五本、凄まじい勢いで飛び出した。蛇のようにうねりながら水龍と犬神のあとを追い、ぐんぐん上へと伸びて距離を詰める。援護に回るつもりだろう。水龍が道を譲るように急上昇した。
怜司はその様子を横目で見上げて駆け出し、さらにもう一枚霊符を取り出した。
変則的に逃げ回る犬神の先を読むなどということはできない。案の定、距離を詰められた犬神が軌道を変えた。急下降し、襲いかかる土の蛇を器用に避けながら、地面すれすれを飛んでこちらへ向かってくる。真正面。
術者が死ねば術が解ける。それを狙ったか。怜司はとっさに足を滑らせて足を踏ん張った。
犬神がぱかっと大きく口を開け、とたん、黒い塊が勢いよく弾き出された。直径一メートルほどだろうか。あまり大きくはないが、勢いが凄まじい。砂埃を上げ、地面を抉るように空を切る。この速度では避けるのも九字結界も間に合わない。怜司は霊符を口にくわえ、両手で霊刀を構えた。
瞬く間に、黒い塊が迫る。
黒い塊越しに見えたのは、犬神を狙ったのか黒い塊を狙ったのか、あるいは両方か。降り注いだ大量の水塊と、頭上を凄まじい勢いで通り過ぎた犬神と土の蛇の姿。
残念ながら水塊は外れたようだ。怜司はぐっと奥歯を噛み締めて足を踏ん張ると、叩き付けるように霊刀を振り下ろした。水塊が連続して地面に激突する衝撃音が響き渡り、霊刀が黒い塊を真っ二つに切り裂いた。
すぐ両脇を、真っ黒な壁が素通りしたような光景だった。一瞬視界が黒く染まり、ゴッ! と耳元で風が鳴り、強烈な風圧に押されて足がわずかに滑る。
「く……っ」
怜司は短く唸ってさらに足を踏ん張って止まり、後ろを振り向いた。半円状になった二つの黒い塊が、一気に速度を落としながら形を失っていく。
犬神は悪鬼だ。さらに悪鬼と融合している。ということは、あれは悪鬼。体内で形成して放った、といったところだろう。触手を扱えると志季から聞いてはいたが、あんなこともできるのか。けれど、あれが本当に悪鬼なら犬神には当然リスクがある。