第19話

文字数 4,006文字

「未練……」
 反復した怜司に、はいと栄明は頷き、香穂は視線を逸らした。
「強制的に浄化することはできますが、それは私たちも望んでいません。ご本人も納得した上で、成仏していただくのが一番です」
 成仏、という言葉がやけに生々しくて、改めて香穂がこの世の人ではないことを実感させられた。
「……このまま、というわけには、いきませんか。この家を、俺が買います。それでは駄目でしょうか」
 伺うようで決意のこもった声に、一様に驚いた顔をしたが、誰よりも目を丸くしたのは香穂だ。しかしすぐに、栄明は眉尻を下げた。
「未練があるということは、生前の記憶が残っているということです。立ち入ったことをお聞きしますが、香穂さんは自ら命を絶たれたと伺っております。それほどのことが、何かおありだったのでは?」
 栄明が視線を向けると、香穂は顔を強張らせ、きつく唇を結んで俯いた。話したくないという意思表示か。そんな彼女から、栄明は怜司へ視線を移した。
 言外に尋ねられ、怜司は目を伏せて首を横に振った。
「分からないんです。実は、理由を知りたくて、ここに通っていたんですが……」
「そうでしたか……」
 全員から見つめられて、香穂はますます深く俯いた。
 月曜日から会社を休み、その四日後には自ら命を絶った。たった四日で決断するほどの、何か。その自殺を決意させるほどの「何か」の記憶を抱えたまま、香穂は今ここにいる。
 栄明が口を開いた。
「もし、未練を断つことができずに長い時間とどまると、最悪の場合、自我を失くすことがあります。自分が誰なのか、何故ここにいるのか、その理由も忘れ、死んでいる自覚さえ無くしてしまう。そうなると、未来永劫、転生することなく、この世で彷徨うことになります。我々が発見し、送って差し上げることができればいいのですが、現代において陰陽師の数は圧倒的に少ない。日々の依頼や、日常で発見し対処するのが限界なんです」
 ゆっくりと告げられた行く末に、先ほど見た子供を抱えた女性や、これまで見てきた人ならざる者たちの姿を思い出した。これっぽっちも生気のない、まるで夢遊病患者のように虚ろな目をして徘徊していた彼ら。あれは、自我を失くしていたのか。
 ぞっとした。あんな姿でこの世を彷徨う香穂など、想像したくない。愛した人が、あんな姿で一人永遠に彷徨うなんて。
 怜司は奥歯を噛み締めた。
 ほんの四日で自殺を決意させる「何か」。よほどのことだろうことは想像できる。そんな記憶を抱えたまま終わらない時間を彷徨い、廃人のようになっても救われることはない。ならば、香穂の未練を断ってあの世に送ってやることが、最善。しかしそうなると、もう二度と香穂に会えなくなるのだ。
 声は聞こえなくても、意思疎通はできる。それでもいい、ただ一緒にいられるだけで。そう、思ったけれど――。
 怜司はゆっくりと香穂を振り向いた。覚悟を決めた力強い眼差しで見据える。
「香穂。話してくれないか。俺は、お前に苦しみ続けて欲しくない」
 香穂は、はっきりと告げた怜司を戸惑った顔でじっと見つめ、何か言いたげに薄く唇を開いた。しかしすぐに閉じて、俯いた。
 栄明たちの前で言っていいものか迷った。けれど、よくよく考えれば隠してやることなどないのだ。今の時代、どれだけの大企業でも倒産しないとは言い切れない。だが、もし漏れたとしても、扱う商品に問題があるわけではない。倒産は免れる。
「支社長の横領と関係があるんだろ」
「横領?」
 鋭い声で素早く反応したのは栄明だ。何故そんな反応するのかという疑問を横に置き、怜司は頷いて、いきさつを全て話した。
「それは、間違いありませんか」
「おそらく。今日は持って来ていませんが、証拠は俺が預かっています」
 栄明が視線を逸らしたままの香穂を見やった。
「社長……」
「いや、まだ断定はできない。ただ、そうなると……」
 神妙な面持ちで意味深な会話をする二人に、怜司は怪訝な顔をした。断定。他社の社長と秘書が、一体何に気付くというのだ。
 栄明が目を伏せ、意を決したように瞼を上げた。
「京都支社の支社長は」
 おもむろに口を開く。香穂が視線を上げた。
「草薙一之介、ですね」
 唐突に何だ。草薙製薬ともなると、業種が違っても支社長の名前まで知れ渡るのか。戸惑った様子で怜司が頷くと、栄明は一瞬言い淀み、硬い声で言った。
「彼の息子は――草薙龍之介」
 そう口にしたとたん、香穂が大仰に体を震わせた。自分の体を抱きしめて、化け物でも見たように顔は引き攣って歪み、何かを拒否するように小さく首を振る。じりっと後ずさったと思ったら、腰が抜けたように尻もちをついた。
「香穂っ」
 怜司が驚いて側にしゃがみ込む。地面にうずくまって縮ませた体は、小刻みに震えている。抱き起そうとして背中に触れた手が、すり抜けた。
 分かっていても、やはり衝撃だった。けれど今はそれどころではない。怜司は香穂の顔を覗き込みかけて、ふと止まった。
 草薙、龍之介?
 入社して二年経つが、怜司はほとんど社におらず、龍之介がまともに出社しないせいもあって未だ姿を見たことがない。だが、噂くらいは耳にしている。人間的にどうかしているとしか思えないものばかりで、しかし実際に会ったことはないし、目撃したことも身近で被害に遭ったという話も聞いたことがない。
 あれがもし、本当だったら。
 横領しているのは、草薙一之介。そして龍之介はその息子。片棒を担ぐことは、まともに出社していない奴にはできない。しかし、横領した金の一部が流れているとしたら。そして、何かしらのきっかけで香穂が横領に気付いたことを知ったとしたら。
 思い付いた可能性に、手が震えた。目の前で小動物のように震える香穂の背中を見下ろし、怜司はごくりと喉を鳴らして呟いた。
「まさか、お前……」
 龍之介に、何かされたのか。そんな曖昧な言葉すら、口にできなかった。
 今までの不可解な態度が、走馬灯のように頭を駆け巡る。
 横領の証拠を処分しようとしたこと。誰にも、何も言わずに命を絶ち、こうして再会しても決して口を割ろうとしなかった。そして、頑なに触れさせてはくれなかった。
 怜司は愕然として口を手で覆った。自分は、香穂になんて言った?
 ――我儘が過ぎるだろ。
 いくら知らなかったとはいえ、なんて酷いことを。
「香穂……」
 怜司は恐る恐る手を伸ばした。すると、香穂は気配を察したのか、素早く体を起こしながら向きを変え、四つん這いで後ろへ下がった。掠った手が、香穂の体を通り抜ける。
「香穂!」
 必死に逃げようとする小さな背中に向かって叫ぶ。立ち上がりながら駆け出して、香穂の前へ回り込む。そして勢いよくまたしゃがみ込んだ。膝をつき、実体がないと分かっておきながらも肩を掴もうとした直前、香穂が弾かれたように体を起して後ろ手をついた。
「香穂、俺だ。よく見ろ」
 手足を縮ませて震える香穂へ、前のめりになって地面に手をつく。こんな追い縋るような姿、みっともない、らしくない。今までの自分なら、絶対にしなかった。でも、プライドなんか気にする余裕などなかった。あるのはただ、自分への強い嫌悪と、香穂への罪悪感。
 記憶が蘇って、混乱しているのだろう。竦ませた体を小刻みに震わせ、恐怖に歪んだ顔で怜司を凝視する。大きく見開かれた目には、怯えの色しか見えない。
 香穂に、こんな目を向けられるなんて。
「俺だ、香穂。分かるか?」
 もう一度、精一杯優しく尋ねると、香穂の顔の筋肉がじわりと緩んだ。何度か瞬きをしたあと、恐怖で歪んでいた顔が徐々に泣き顔へと変わる。堰を切ったように溢れ出した涙が、頬を伝って顎からこぼれ落ち、地面にいくつもの染みを作った。
 怜司は地面を滑って香穂のすぐ前まで移動し、ゆっくりと両手を上げた。逃げるかと思ったが、香穂は逃げなかった。俯いて肩を震わせる香穂の頬を挟むように、手を添える。
「酷いことを言って、悪かった。傷付けて、ごめん」
 こんなこと、言えるわけがない。ごめん、ともう一度呟くと、香穂は小さく首を横に振った。
 誰にも、何も言わなかったのは、言えなかったから。触れさせてくれなかったのは、怖かったから。男である自分が。それでも会ってくれた。会いたいと思ってくれた。笑ってくれた。
 怜司は添えていた手を引いて強く握り、ぎりっと歯を食いしばった。
 横領や日々のセクハラ。非は自分たちにあるのに、隠蔽するために香穂を――そう思ったとたん、憎しみが腹の奥から湧いて出るような感覚がして、息苦しさを覚えた。呼吸が浅くなり、奥深く、底の方からどろどろとして真っ黒な、醜くも強烈な感情が勢いよく溢れ出る。それは一気に全身を駆け巡り、全ての細胞を食い尽くし、思考さえも支配した。
 どれだけ苦しかっただろう。
 どれだけ辛かっただろう。
 どれだけ屈辱だっただろう。
 どれだけ、怖かっただろう。
 自分のものとは思えない声が、頭の中で低く呟いた。
 ――殺してやる。
「よせ」
 鈴の強い声が耳に飛び込んできたと同時に、ふっと体が軽くなった。いや、これは心と言うべきか。どちらにせよ、先程までの息苦しく醜い感情が一気に消し飛んだような感覚だ。体も頭もすっきりしている。
 怜司は驚いて顔を上げた。側には鈴がいて、真っ赤なひと振りの刀を、振り抜いた格好で握っていた。視界の端で黒い煙のようなものが溶けて消えた。そんな光景を、頬を濡らした香穂が呆然と眺めている。
 鈴は刀を下げ、ほっと安堵の息をつく栄明に視線を投げた。
「栄明。こいつは放っておくと危険だ」
 危険人物認定された。当の本人は、一体何が起こったのか分からないといった顔をしている。
 栄明は悲しげな顔で怜司と香穂を順に目を止め、郡司を振り向いた。何か一言告げ、郡司は身を翻して少し離れた。携帯を操作し耳に当て、鈴の手の中からは刀が消えてゆく。
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