第13話

文字数 4,463文字

 寮を抜け出した大河たちを右近に任せたあと、保津峡大橋へと向かった。
 宗一郎が言うようにそう都合よく見つかるとは思っていないが、それでも食える時に食っておかなければ、どのくらいもつか分からない。封印が解かれ結界により幽閉されていた時に二人。その後、柴が復活し、彼が食べ残した残骸を口にしたが、それまで欲求を覚えることはなかった。となると、二人食えば三日、四日はもつ。それ以上の保証はない。大河から精気を摂取できるとはいえ、獣はあくまでも代用であり、それが長く続けばいつか必ず欲求を覚えるだろう。
 鬼の主食は、人なのだから。
 船頭が長い竹竿を巧みに操り保津峡大橋をくぐる船から、人の悲鳴にも似た歓声が渓谷に響いた。その遥か上、崖っぷちを蛇のように長い乗り物が走っている。今でこそ娯楽となっているようだが、かつてはもっと急流で巨石がごろごろしており、木材を運ぶためのほんの数隻の(いかだ)が下るに過ぎなかった。
 巨大な鉄橋のてっぺんから人の戯れを見下ろし、紫苑は静かに嘆息した。
 さすがに人の屍が流れているようには見えない。それとも水底に沈んでしまったのだろうか。
 あまり長居すると人目に付く。どこか楽しげに渓谷を見下ろす主にそう進言しようと隣を見やり、紫苑は言葉を飲んだ。
 計算され尽くされたように端正な顔立ちに、白い肌。微かに吹く湿った風に揺れる、艶やかな漆黒の髪。確かに似合う、似合いすぎてどんな称賛の言葉を並べ立てても足りないくらいだ。今ここで、舟遊びをする人間どもに声を大にして言いたい。この比類なき美しい御方こそ我が主だと。長い時、ひと時も離れることなく側にいたけれど、髪の短い柴を見るのは初めてだ。その点においては大河に感謝してもいいが、だがやはり、勿体ないとも思う。あんなに美しかったのに。
「……紫苑」
 不意に振り向かれ、紫苑は我に返った。
「私の顔に、穴を開けるつもりか?」
「し、失礼致しました」
 慌てて眼下に顔を逸らした紫苑に小さく笑みをこぼし、柴は手を伸ばして揺れた髪を指先でひと房すくい取った。
 紫苑が再び見やると、柴は深紅の目に優しい懐古の色を滲ませ、微かに微笑んでいた。思わず息が詰まる。
 主のこれほど穏やかな顔を見るのは、いつぶりだろう。
「懐かしいな」
 初めて出会ったのは、まだ幼い頃。遥か昔のことだ。気性が荒いのはもちろん、振る舞いも見た目も無骨で粗暴な鬼が多い中、こんなに穏やかで美しい男の鬼がいるのかと、幼心に衝撃を受けた。
 柴は小さく呟き、さらりと髪を落として背を向けた。
「行こう」
「御意」
 宗一郎は自殺の名所だと言っていたが、ここで身投げをすれば舟遊びをする者たちの目にはもちろん、いずれは市中へ流されるのではないのか。とりあえず、木々から木々へと跳び移りながら、屍がどこかで引っ掛かっていないか視線を巡らせる。
 しばらく探し、やがてお椀をひっくり返したように大きく曲がった場所に辿り着いた。ここから先は人が多くなる。やはりそう都合良くは見つからないか。
 この場所は、北山から流れる清滝川との合流地点だ。そのまま道なりに進んだ柴に続くと、道はやがて山を貫き、抜けたすぐ先には清滝川を跨ぐ長い橋があった。
 と、微かに掠めた風に混じった臭いに二人は足を止めた。
 人の気配がないことを確認してから橋に降り立つ。朱に塗られた低い欄干は土煙をかぶり、所どころ色が剥げ、足元は苔生して枯れ葉が積もっている。橋が終わった右手に小ぢんまりとした建物があり、その先はさらに道が山の中へと伸びていた。どうやらこの時代では、人が訪れない建物に落書きをする風潮があるらしい。
 二つの山の間を流れる川に、迫る山。ただそれだけの場所。橋が架けられているのだから何かしら使われているのだろうが、人が集まるような場所でないことくらいは分かる。だが、喧騒が届かず、流れる水音に鳥の鳴き声、ひんやりとした風に吹かれて鳴る葉音は、体感だけでなく感覚的にも涼しさを連れてくる。忍んで涼むにはちょうど良い場所だ。
「紫苑」
 呼ばれて振り向き、紫苑は柴の視線を辿った。
 橋の右手、小高い丘のように盛り上がった岩の上に、すっかり朽ち果てた建物の一部が見えた。東屋、それとも庵だろうか。状態は昨晩見た建物とそっくりで、木々に覆われ、苔が生し、屋根の色は剥げて今にも崩れ落ちそうだ。
 一体何のために、どうやってあんな場所に建てたのか知らないが、先程から漂ってくる人の臭いは、あの中からだ。
「柴主、足元にお気を付け下さい」
「ああ」
 同時に地面を蹴って跳び上がり、岩の上へと着地する。濡れていないため滑ることはないだろうが、自然のままに風化したであろう岩はごつごつしていて、気を抜けば足を取られそうになる。もし滑り落ちれば川に真っ逆さまだ。
 山の一部を切り崩して建てられたそれを見上げつつ、ゆっくりと岩を登って薄暗い中を覗き込む。ちょうど紫苑の身長ほどの八本の支柱が立つ空間は空洞になっていて、どうやら利用していたのは二階部分らしい。苔は言うまでもなく、剥き出しの地面は一面雑草と枯れ葉に覆われ、二階の床は抜け落ち、地面に腐った木材が転がっている。まるで隔離されたような静寂と、そこだけ季節が進んだような肌寒いほど冷えた空気で満ちていた。
 八本の支柱のうち二本は真ん中の左右にどんと構えており、その一本に、男女二人が寄りかかるようにして地面に座り込んでいる。
 どこからか山を下ってきたのだろう。足元が土だらけだ。
 ゆっくりと、一歩一歩地面を踏みしめるように歩み寄った柴が、二人の前で足を止めた。紫苑もそれに倣い、柴の隣で目を落とす。
 男の方は中年だが女の方はずいぶんと若い。大河たちと同じ年頃か。足を放り出して肩を寄せ合い、互いの手を握り締め、眠ったように穏やかな顔で目を閉じている。身一つで来たのか。荷物らしい荷物は見当たらないが、傍に水の入った容器と白くて小さい粒が数個転がり、二階の床を支える(はり)に掛けられた二本の真新しい長い縄が、それぞれの首に掛かっていた。
 心中。
「悪いが、食らわせてもらうぞ」
 不意に沈黙を破って告げられた柴の言葉が、薄暗い空間に静かに響いた。
 柴と紫苑は、空っぽの肉体の前で膝をついて両手を合わせた。
 こんな人気のない場所で、ひっそりと命を絶ったその理由は何なのか。身分の差か、年の差か。あるいは決してあってはならぬ立場だったのか。どちらにせよ、共に命を絶つことを選んだ。けれど、その穏やかな死に顔に絶望は窺えない。むしろ安心したように見える。苦しみから放たれる喜びからか、浄土で結ばれると信じていたのか。それとも――来世へ希望を託したか。
 周囲に浮遊霊が漂っていないところを見ると、二人は素直に成仏したらしい。
 いくら建物が朽ち果てるほど人が訪れていないとはいえ、こうして人が辿り着けることは間違いない。食らっている姿を人に見られると厄介だ。長い祈りを終わらせるとゆっくり丁寧に首から縄を外し、硬直した手の指を一本一本強引に外してから、抱えて山の奥へと移動した。川の音も喧騒も届かない場所で地面に横たえる。鳥の鳴き声と木々のざわめきに混じったのは、肉を引き裂く生々しい音だった。
 あらかた食らい尽くしたあと、一つの穴へ二人一緒に埋葬した。間違って野生動物が掘り起こさないよう巨石を置き、もう一度手を合わせた。
 人を食らったあとは、どうしても血にまみれる。先程の川まで戻り、橋から見えないところで血を洗い流した。これほど暑ければ、動いていればすぐに乾く。むしろ濡れていた方が涼しい。
 愛宕(あたご)大枝(おおえ)周辺はすでに探ったが、香苗の件があるためここからあまり離れるわけにはいかない。
 宗史から聞いていた香苗の家の方へ少しずつ距離を縮めながら、再度敵の根城を探った。そんな中で突然感覚を襲ったのは、強烈な邪気。同時に違和感を覚えた。生粋の邪気ではない。妙な気が混じっている。
 怪訝に思いつつそちらへ向かう途中で、遥か遠くの方に人影が現れた。豆粒ほどの大きさだったが、すぐに分かった。隗だ。隗はこちらを一瞥すると、用はないと言わんばかりに同じ方向へ向かった。やはり罠だったか。このまま大河たちの元へ行かせるわけにはいかない。そう思いつつも、隗の方が一歩速かった。
 一戦繰り広げられているそこへ到着したとほぼ同時に地天の術が破られ、密かに様子を窺っていた右近が飛び出した。一方、閃は一歩も動かなかった。
 不可思議なのは、隗だ。何故、酒吞童子を止めに入った?
 話を聞く限り、右近はどうやら香苗の父親と面識があるらしい。寮で聞いた話と総合すると、香苗を保護したのは右近であることは間違いないなく、しかも、何があっても手を出すなという主の命を破るほどの情があるらしい。宗一郎に忠実な式神だとばかり思っていたが、そうでもないようだ。
 事態が収束したあと、大河たちの車を追いかけているにもかかわらず、心ここにあらずといった様子であらぬ方へ逸れる右近を仕方なく引っ張り寮へと戻った。捕虜でもないのに鬼に腕を引かれて家路に着く式神はいかがなものか。
 寮へ戻り、風呂と食事、報告を終わらせ、宗史から剣術の訓練を任されたあと、影綱の日記を手にした柴と共に部屋へ入った。部屋に入る前、柴は向かいの扉を一瞥した。
 おそらく、宗史たちも香苗が密偵かどうか計りかねているだろう。それよりも気になるのは、大河のことだ。
 窓際に設置された机に日記を置き、名残惜しそうに表紙をひと撫でした柴は、すっかり慣れた手付きでエアコンのリモコンを操作する紫苑を振り向いた。
「あまり、余裕はないようだな」
 リモコンの収納場所は、壁に取り付けられた小箱だ。リモコンをしまいながら柴を振り向き、紫苑はええと頷いた。
 隗だと認識した時に膨らんだ大河の邪気。分かっていたことではあるが、あれは危険だ。あの場にいた者たちだけでなく、全員が気付いている。
「宗史らも気付いております。すぐに策を講じるでしょう」
 ここで動かなければ、ただの臆病者の集まりだ。真綿でくるむだけでは、守るものも守れない。それは柴も理解しているだろう。口を出すことはない。
「……そうだな」
 目を伏せた柴に密かに安堵し、紫苑は微かに笑みを浮かべた。
「柴主、今宵はもうお休みください。彼らに一から剣術を学ばせるには、こちらも根気が必要です」
 剣術を教える経験がないわけではないが、あくまでも配下にあった鬼相手だ。しかも男の鬼で、体力も力も人とは比べ物にならない。多少乱暴でも通用した。だが今度は人で、女がいる。短期間でと言ったからには少しの無理は承知の上だろうが、それでも人だ。加減が難しい。神経をすり減らす。
 とはいえ、主の判断。全力で従うのが腹心だ。
「そうだな」
 ゆったりとベッドへ足を運んだ柴の背中を追う前に、紫苑は机の上の日記をちらりと一瞥した。
 影綱はどんな風にあの日々をしたため、そして、どこまで分かっていたのだろう。
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