第15話

文字数 3,472文字

 ご丁寧にリビングの扉を閉めた音が背後で聞こえ、光が遮断された。薄暗い。右近は壁のスイッチを押して電気を灯した。乱雑に脱ぎ散らかされているのはパンプスと大きなスニーカー。反対に、通学用の皮靴はきちんと揃えて端に寄せられ、宗一郎の靴も綺麗に並べてある。それを見て、そういえば草履のままだったことに気付く。あんな状況だったのだから仕方ないとも言えるが。
 靴箱から、小さなリボンの付いたぺたんこ靴を取り出す香苗を眺めながら、宗一郎が呆れた声色で一言言った。
「右近」
「……申し訳ない」
 素直に謝罪した右近に、宗一郎が笑いを噛み殺した。
 香苗は自然な動作でキーホルダーが付いた鍵を手にし、扉を押したところで声を詰まらせて、咄嗟にノブから手を離した。俯いて、二の腕の辺りを押さえている。父親に殴られたか。
 右近が扉を開けて香苗を先に外へ促し、それに続く。押さえたまま宗一郎が出るのを待ってから、扉を閉めた。
 香苗と宗一郎の後ろから右近が続く。階段を下りると、宗一郎が足を止めた。
「香苗」
 宗一郎は、自分の保護下に入る未成年を実子同然に扱う。ゆえにさっそく呼び捨てだ。黙って俯いたまま足を止めた香苗を見下ろして、宗一郎は言った。
「先程は、すまなかった」
 一拍して、香苗がゆっくりと顔を上げた。何故謝るのかといった顔だ。
「お前を傷付けてしまう言葉を使い、物を扱うような真似をした。申し訳なかった」
 頭を下げた宗一郎に、香苗が目を大きく見開いた。欠点や難点を事前に指摘し、それを改善、あるいは相殺して余りある条件を提示するのは、交渉時の常套手段だ。さらに、面倒だの早々に済ませたいだの、香苗を邪魔者扱いしたような言葉。だが、彼らを納得させるには必要な対応だった。
 驚きのあまり声も出ないらしい。口を開けたまま何度も小さく首を横に振る香苗を見て、右近は嘆息した。
「宗一郎、香苗が困っている」
 頭を上げた宗一郎に、香苗はもごもごと言い淀んだ。
「あ、あの……あっ」
 はたと気付いたように右近を見上げ、もう一度宗一郎を見やり、香苗は深々と頭を下げた。
「ありがとう、ございました」
 宗一郎はふっと笑みを浮かべ、右近は無表情のままそれを見つめた。
「香苗。今から馴染みの医者のところへ行って、その怪我を診てもらう。治癒はその後だ。痛むだろうがもう少し我慢しなさい。右近」
 水龍を飛ばしたことで、何かあったと察し事前に連絡を入れたのだろう。
 治療ではなく治癒と表現したことに違和感を覚えたのか、香苗は小首を傾げた。一方右近は、ちらりと周囲を見渡した。言われずとも分かるが、しかし。
「人目に付きやすくはないか?」
 マンションの裏もこの路地を挟んだ隣も民家だ。塀と茂った高い庭木に遮られているとはいえ、少々不用心ではないのか。
「構わん。二度目がなければ夢か幻とでも思うさ。それに、できるだけ早く治癒してやりたいだろう?」
 何やら含んだ笑みを浮かべた宗一郎に、今度は右近が首を傾げた。
 宗一郎と契約を交わして三十年ほどになる。普段は飄々として掴みどころのない男だが、有事の時は当主としての圧倒的な存在感と威厳を如何なく示し、必要とあらば冷酷な判断も厭わない。それでいて、立場に驕ることなく、人として本来あるべき姿を見失わない。その相手が例え、まだ少女であっても。
 だが、未だ何を考えているのか分からない時がある。とはいえ主の命に従うのが式神の役目。
 右近は頭に疑問符を浮かべつつ、変化した。
 突如として足元から渦を巻いた大量の水が湧き、体に纏った右近を見て、香苗が驚いた顔で一歩足を引いた。あっという間に姿が見えなくなったと思ったら、縦長だった水の渦が横に広がり、質量を増しながら太く長く伸びていく。波が引くように、渦が鼻口部から尾へ向かって一気に引き、弾くようにして消えた。
 そこに現れたのは、全長は三メートルほどだろうか、濃い藍色の体に、白色がかったたてがみをゆらゆらと揺らす、見事な青龍だ。
「またずいぶんと小ぶりだな」
 どこか不満気にぼやいた宗一郎に、人目に付くと厄介だろう、と言い返す。だが、口は動いていない。
「香苗、説明はあとだ。ひとまず乗りなさい」
「え……?」
 浮いていた右近は腹を地面に着け、宗一郎は動揺する香苗をひょいと抱え上げて角の後ろへ乗せた。しっかり掴まっていろ、落ちるなよ、と注意してやるが、状況が理解できていないのか、あたふたとして落ち着きがない。香苗の後ろに宗一郎がまたがると、右近はゆっくりと浮いた。
「角を両手で持ちなさい」
「えっ、は、はいっ」
 宗一郎は香苗の両手を掴んで角を握らせると、自分の片手は角を握り、もう片方の手は香苗の腹に回した。右近は体を緩くくねらせ、できるだけ傾斜を付けずに斜めに高く高く上昇する。街並みが光の集合体となったあたりで、空を滑るように前進した。宗一郎一人を乗せる時よりも、遥かにゆっくりとした速度で進む。
 わぁ、と香苗が吐息のような感嘆の声を漏らした。
「怖くないか?」
「はいっ」
 興奮気味に返事をして、綺麗、と呟いた。どうやら高い場所は平気のようだ。
 ひとしきり街を眺めた香苗が、はっと我に返って首だけで宗一郎を振り向いた。
「あ、あの……っ」
「どうした?」
「えっと、その……う、右近さん、は……」
 宗一郎はこてんと小首を傾げた。
「ここにいるが」
「いえ、あの、声……、声が……」
「ああ。人型の時は普通に会話ができるが、変化すると直接頭に話しかけてくるんだよ」
「変化……頭に?」
「式神は、主の霊力に比例して人型にも獣型にも姿を変えることができる。その辺のことは、寮に入ってからゆっくり学ぶといい」
 香苗はふと目を落とし、はい、と不安気に返して前を向き直った。
 共に行くと決めたとはいえ、不安になるのは仕方がない。だが、陰陽師たちに会えばすぐに解消されるだろう。
 目的の民家は住宅街の中にある。年季が入った庭付きの戸建てだ。こちらの到着を待つように、縁側に面した廊下の明かりが灯されており、右近は迷うことなく庭に降り立った。腹を地面に着けると、先に降りた宗一郎が香苗を補助して降ろした。
 右近は再び大量の水を纏い、長い体を縮ませて上へ形を変える。今度は頭の方から足元へ向かって渦巻いた水が引き、同時に人型を形成していく。その様子を、香苗が不思議な面持ちで見守っている。
「お待ちしておりました」
 不意に届いた声に振り向くと、白髪を後ろへ撫で付け、銀縁の眼鏡をかけた紳士然とした男性が、柔和な笑みを浮かべて縁側に出てきた。右近も面識がある。手塚(てづか)という、桜の主治医だ。
「突然すみません、先生」
 宗一郎が縁側へ歩み寄り、右近は香苗の背中をやんわりと押して促す。
「いいえ、お気になさらず。――あの子が?」
「はい」
 手塚は香苗へ視線を投げ、少し痛々しげに眉尻を下げた。
「香苗、おいで」
 振り向いた宗一郎に手招きをされ、香苗はおずおずと隣に並んで上目遣いに手塚を見上げた。
「医師の手塚先生だ」
 手塚は腰を折り、香苗と目を合わせて微笑んだ。
「こんにちは。内科医をしている手塚と言います。よろしくね」
「の、野田、香苗です。よろしくお願いします」
 深々と頭を下げた香苗に、手塚はくすりと笑った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。顔を上げて、見せてもらえるかな」
 香苗が顔を上げると、手塚はゆっくりと手を伸ばした。
「少し触るね」
 はいと香苗が小さく同意し、手塚は大きな手で香苗の腫れた頬を覆う。とたん、顔を強張らせた。
「熱を持ってる。早く治癒した方がいい」
「お願いします」
 宗一郎に手塚は力強く頷いた。
「さあ、上がって」
 突然走った緊張感に、香苗は動揺を見せながらも縁側に上がる。こっちに、と先導する手塚のあとを小走りに追いかけた。
 二人の背中を見送り、宗一郎はジャケットの内ポケットから携帯を取り出すと、縁側に腰を下ろした。
「私だ。つい先ほど保護した。今は手塚先生のところにいる――」
 相手は明だろう。香苗の両親と交わしたやり取りを詳細に報告する宗一郎の声を聞きながら、右近はふと自分の両手に目を落とした。
 震える小さくて細い体の感触が、まだ残っている。
 あの時――香苗に寮の説明をした時、何かをごまかした気がした。目の届く場所で監視しなければ、次こそは大規模な地震が起こる。それは間違いない。だが、それとは違う何か。これまで感じたことのない、初めての感情を見て見ぬふりをした。
 ――あれは、何だ。
 右近は、香苗が姿を消した廊下の先に視線を投げた。
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