第8話

文字数 2,630文字

 その日の夜。紫苑は一人、こっそり寝床を抜け出した。
 餓虎との戦の行方や、目を覚まさない柴への憂い。何より、夜になるとあの日の光景が蘇り、どうにも眠れない日々が続いていた。しかし、多大な犠牲は出てしまったものの戦は終わり、柴も無事目を覚ました。これでやっと眠れると思っていた。それなのに、今夜もまた、目を閉じると瞼の裏にはあの惨状が映し出される。
 集落に響き渡る悲鳴と怒声。餓虎の狂気じみた笑い声。血の池に横たわる仲間たち。鼻をつく血の匂い。全て終わったのだと頭で分かっていても、心はそう簡単に受け入れてくれない。
 あの時の光景も恐怖も、深く濃く、記憶に刻まれている。
 入口に掛かっている莚を上げて外に出ると、紫苑は大きく息を吸い込んだ。根城は里と同じ配置になっている。広場までは目と鼻の先。散歩でもすれば、少しは気持ちも落ち着くだろう。
 枝葉の隙間から降り注ぐ細い月の光を頼りに、木々の間をゆっくりと進む。カサ、カサ、と雑草を踏み分ける乾いた音が、妙に大きく響く。虫の音も聞こえず、獣の気配や微かな風すら感じられない、静寂に包まれた夜。
 夜空を泳いでいた雲が月を覆い隠し、辺りが暗闇に包まれた。
 広場へ足を踏み入れる直前、紫苑はふと足を止めた。誰かいる。さすがにこの暗さでは輪郭しか分からないが、この気配は。
 柴主、と声を掛けようとして、思わず息をのんだ。
 雲が流れ、再び月の光が差し込んだ。冴え冴えとした光が柴の体を撫で、闇の中からゆっくりと、白く姿を浮かび上がらせてゆく。
 全身に月の光を浴びて夜空を仰ぎ見るその横顔は、この世のものとは思えないほど美しかった。冷ややかな青白い肌に艶やかな漆黒の髪が映え、夜空を見つめる深紅の瞳は透き通り、まるで宝玉のようだ。
 けれど、美しいその瞳はどこか切なげで、憂いを帯びているように見える。だからだろうか。一人静かに佇む姿はとても儚く、今にも月の光に溶けてしまいそうなほど、脆くも見えた。
 突如、言い知れぬ不安に襲われた。
「――柴主!」
 耐え切れず、絞り出すように声を上げる。
 柴が我に返ったように瞬きをし、ゆったりとした動作でこちらを振り向いた。
「紫苑」
 いつもの落ち着いた声に、自然と安堵の息が漏れる。
 ――今の不安は、一体何なのだろう。
 少しの戸惑いを抱えて、紫苑は小走りに柴へ駆け寄った。
「こんな夜更けに、いかがなさいました」
 尋ねると、柴が苦笑した。
「それは、私が聞きたい」
 言い返されて、はたと気付く。それもそうだ。子供がこんな夜更けに一人でふらふら出歩けば、何かあったのかと思って当然だ。けれど、寝付けないのですなんて情けないことは言えない。
「私は……」
 言葉に詰まり、視線を逸らして言い訳を探す。
「……寝付けぬか」
 厠へ、と言う前に、柴が遠慮がちにぽつりと問うた。言い当てられて一瞬息が詰まり、しかしそれも当然だと諦める。柴は優しい。何も言わずとも、察したのだろう。
「はい……」
 俯いて蚊の鳴くような小さな声で答えると、沈黙が返ってきた。どう思われているのか分からなくて、少々居心地が悪い。もじもじと手を揉んでいると、信じられない言葉が降ってきた。
「私の寝床へ、来るか?」
「……え?」
 驚きのあまり勢いよく顔を上げると、柴は微かな笑みを浮かべた。
「何か話をしていれば、そのうち眠くなるだろう。そうだな……玄慶が、雌熊に好かれた話しはどうだ?」
「く、熊に、ですか……?」
 ああ、と頷いて、柴はごく自然に紫苑の手を取り、寝床へ向かってゆっくりと歩き出した。すっかり子供扱いされていることより、熊に好かれた玄慶の話しの方が気になる。どういう意味の「好かれた」だろう。
 好奇心に勝てず手を引かれるまま柴について行き、促されるまま莚に横になろうとして、思わず動きが止まった。柴が麻衾(あさぶすま)(麻布を縫い合わせた掛け布団)を広げて掛けてくれようとするのだ。
「いけません。柴主はまだ養生しなければ。私は平気です」
 眠りから目覚めたばかりだ。体の調子も万全ではないだろう。思わず両手で押し返すと柴は逡巡し、
「では」
「え……っ」
 ずいと体を寄せ、紫苑を腕に抱いてごろんと横になった。そして麻衾を引っ張って半分ずつ掛ける。
「これなら、暖かい」
 されるがまま横になった紫苑は、唖然と目を丸くした。今どういう状況だ。
 無言を了承と取ったらしい。柴は腕を立てて手のひらで頭を支えると、滔々と語り始めた。
「あれは、ずいぶん温かくなってきた頃のことだ。母熊とはぐれた小熊が、根城に迷い込んでしまってな――」
 はたと我に返った紫苑は、目の前に迫る柴の衣を凝視した。
 正直、眠れる気がしない。好奇心のままについてきてしまったが、あの三鬼神の寝床に入り込み、挙げ句の果てに抱きしめられて横になるなんて。しかも、これではまるで親の子守唄を聞きながら寝入る幼子のようではないか。もうそんな年ではないのだが。
 とは思うものの、寝付けない自分を気遣ってのことなのだ。ここは黙って話を聞くのが礼儀。それにやっぱり気になる。
 少々複雑な気分だが今さら結構ですとも言えず、紫苑はそっと上目づかいで柴を盗み見た。整った、美しい顔がすぐそこにある。
「さすがに、私たちも小熊を食らおうとは思わぬ。母熊の元へ返してやろうということになって、皆で探したのだ――」
 そう、少し伏せ目がちに語る柴の表情は、実に穏やかだった。根城に来て初めてではないだろうか。こんな顔をする柴を見るのは。
 不意に、深い実感が湧いた。本当に、全て終わったのだ。柴がいて、皆がいて、ここは安全な地なのだ。
 やっと心の底から安心感が芽生え、先程感じた不安や緊張も、嘘のように解けてゆく。
 ――あれは、きっと勘違いだ。あまりにも美しかったから驚いたのだ。
「その間、玄慶が小熊の世話をしていたのだが、すっかり懐いてしまってな。二日ほど経って見つけた母熊は、酷く気が立っていて――」
 暗闇の中で伝わってくるのは、ほのかな熱。穏やかな気配。そして、いつもより少し甘くて柔い声は、次第に眠気を連れてくる。
 眠れる気がしないと思っていたのに。続きも気になるが、せっかく柴が話をしてくれているのに眠るわけには。そう思っても、最近まともに眠れていなかったせいで、瞼はとても重かった。
「さいしゅ……もう、しわけ……」
 話の途中で寝てしまうことに謝罪したつもりだったが、きちんと伝えられたかどうかは、分からなかった。
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