第5話

文字数 5,283文字

「あの、宗一郎さん、これはどうすれば……」
 紺野と下平を見送ったあと、そう言って香苗が差し出したのはボイスレコーダーだ。とたんにむっとした空気がその場に流れ、
「処分しなさい」
 宗一郎の不快気なひと言で、志季が奪い取って握り潰した。すごい握力、と呟いたのは大河だ。式神がどうとか悪鬼がどうとかいう会話が録音されている限り、証拠として警察に提出できない。どのみち何の役にも立たないのだから、問題ない。
 妙子(たえこ)は宗一郎と律子(りつこ)が送り届けるらしい。(はる)と志季、宗一郎たちを見送って、やっとぞろぞろと室内へ入る。
 砂を払い落とした靴下を脱ぎながら、ああそうだと晴が言った。
弘貴(ひろき)、Tシャツとジャージかなんか貸して。パジャマ代わりにする。お前のならサイズ合うから」
「いいですよ。てか、浴衣は駄目なんすか。紫苑のとこにあるでしょ?」
「冗談。動きにくいし腰回り暑いし苦しいし、よくこんなもん一日中着てられるよなぁ」
 渋い顔で拒否した晴に、残念な声が漏れる。似合ってるのに、恰好良いよねぇ、もったいない、とおだててみても、晴は断固として拒否し続けた。
 会合時間が時間だっただけに、華と夏也(かや)が念のためにと用意していたのは、夜食の定番、お茶漬けと漬物だ。もちろん強制ではない。女性陣はこの時間に食べないだろうと思ったが、華が「食べる人ー」と尋ねると、もれなく全員が手を上げた。
 支度がされる間に、茂が握り潰されたボイスレコーダーを裏庭のゴミ箱へ捨て、他の者たちは手を洗いに洗面所へ。ついでに風呂の支度もした。
 何ごともなかったかのような一連の流れはやけにスムーズで、また和やかだった。しかし、この状況ではそれが逆に不自然で、それぞれが胸に秘めた様々な感情を押し殺しているのは、容易に見て取れた。
 市販されているお茶漬けの素と、柴と紫苑用だろうか、鍋に入った華と夏也お手製のお茶漬け出汁と梅干がダイニングテーブルに並ぶ。華と夏也にご飯をよそってもらい、好きなものを選んで席についた。
「お茶漬けって、日本人に生まれて良かったって思うよねぇ」
 お手製のお茶漬けを選んだ茂が、出汁の香りを嗅ぎながらほっと息をついた。あー分かるー、と同意の声が上がる。
 時間も時間だ。用意ができた者から順に箸を付けて、そのたびに安堵の息が漏れる。
「ね、平安時代にお茶漬けってあったの?」
 冷まし中か。待てをする犬のように、梅干が乗ったお茶漬けを凝視した大河が、柴と紫苑に問うた。お手製のお茶漬けを選んだのは、茂の他に大河、柴、紫苑、春平(しゅんぺい)、香苗に美琴だ。
「これと似たようなものは、あった。……良い香りだな」
 出汁の香りを運ぶ湯気に顔を突っ込む勢いで、柴が鼻をひくひくさせた。堪能する柴の代わりに紫苑が答えた。
「飯に水や湯をかけたものだ。水飯(すいはん)湯漬(ゆづ)けと呼ばれていた」
「へぇ……、お茶とか出汁じゃないんだ」
 声が、美味しくなさそう、と言っている。
 ああ、と頷いて手を合わせた柴と紫苑に倣うように、大河と隣に腰を下ろした晴も合掌する。いただきます、と声を揃え、各々箸をつける。ずず、と音を立てて出汁を一口飲んで茶碗から口を放したとたん、四人の口から同時に気の抜けた息が長く漏れた。うま、と言った大河と晴の顔は完全に緩み切っており、柴と紫苑もいくぶんか表情が柔らかい。どうやらお茶漬けは、人だけでなく鬼の気持ちすらもほぐすらしい。お茶漬けの力、恐るべし。
「これは、美味いな」
 柴が茶碗を抱えたまま、噛み締めるようにぽつりと呟いた。
「お気に召しましたか、柴主」
「ああ」
 こくりと頷き、ゆっくりと米を口に運ぶ。良かった、と華と夏也が嬉しそうに笑って顔を見合わせた。
「んっ」
 突然、お茶漬けを掻き込んでいた大河が、頬を膨らませたまま何かを思い出したようにおかしな声を上げた。もぐもぐと咀嚼して飲み込み、晴を見やる。
「晴さん、志季って陽くんを送って戻るんだよね。また呼び出せる?」
「ああ、戻ってれば。あー、そうか、あれか」
 精気のことだろう。
「うん。昨日あげてないから」
「今日はよい」
 察した柴が、手を止めて口を挟んだ。
「……いいの?」
「ああ。明日、いただく」
 姿勢正しく米を口に運ぶ柴を見つめる大河の眉根が、わずかに寄った。
「ん、分かった」
 そう頷いて、大河は再び箸を動かした。
 人を食らわずに、また精気を摂取せずに、どれほどの期間耐えられるか。それは、二人にも正確には分からないだろう。だからこそ、潜伏場所の捜索という役目が与えられた。それに大河が気付いているかどうか。気付いていたとしても、責めることはしないだろうが。
 それから、やたらと漬物に箸を伸ばす大河に晴が突っ込み、どの漬物が美味いかの話で盛り上がった。双子の席は別として、ぽつんと取り残されたように空いた席のことは、誰も触れようとしなかった。
 夜食タイムが終わり、華と夏也は片付け、茂は離れの戸締りに行き、他の者は風呂へ入った。


「食べたら眠くなってきた」
 と言った大河の言葉を最後に扉が閉められると、リビングは落ち着きを取り戻し、一気に静かになる。
「全部なくなるとは思わなかったわ」
 キッチンに立ち、スポンジに洗剤をつけながら、華は嬉しそうに微笑んだ。チルドは比較的平気そうではあったけれど、インスタントが「珍妙な味」と感じるのならお茶漬けの素も駄目かもしれない。そう思って用意したお手製のお茶漬け出汁は、予想外にも完売した。成長期まっただ中の子供たちがいるのだ。余ったらまた夜食にでもと思っていたのだが。
「気に入ったみたいで、良かったですね」
 夏也がテーブルを拭きながら言う。
「やっぱり、シンプルな方が口に合うのかしら」
「昔は、こんなに調味料はないでしょうし。味付けもシンプルだったんじゃないでしょうか」
「お茶漬けが水とお湯だものね」
 一瞬、考え込んだような沈黙が流れた。
「……美味しいのかしら……」
「……味は、ない、と思いますけど……」
 あの時代、砂糖はもちろん塩も貴重だった。米のうまみを堪能できると言えばそうだろうが、塩を一つまみ入れるだけでもずいぶんと変わる。それすらも叶わない時代。
「ほんとに、今は贅沢な時代よね。有難いわ」
「私も、そう思います」
 手を動かしながら同意した夏也を、華はちらりと一瞥した。
 柴と紫苑から話を聞くたびに、今の時代がどれだけ贅沢なのか思い知らされる。だが夏也は、そんな時代に生まれながらも、満足に食べることができない環境で育った。自分たちの中で、この時代がどれだけ贅沢なのか一番理解しているのは、彼女かもしれない。
「あの、華さん」
「なあに?」
 おもむろに夏也が沈黙を破り、華は手を止めて洗っていた茶碗から顔を上げた。布巾に目を落としたままの夏也に、次の言葉を察した。
「いつから、ご存じだったんでしょうか」
 やっぱりそのことか。華は止めた手を再び動かした。
「昨日よ」
「昨日?」
 驚いたように復唱して、手を止めた夏也が顔を上げた。ええ、と頷く。
 昨夜、片付けと風呂を終わらせて部屋に入ったのは、十一時前だった。肌の手入れをして、髪を乾かして、新しい真言の暗記をするか無真言結界に挑むか迷っていた時だった。明からメッセージが入った。しかも、新しいグループメッセージの招待。部屋に入ってから登録するようにと添えてある。何ごとかと思って登録すると、茂と美琴の登録通知が来た。ますます怪訝に思ったところで、着信があった。
 茂も美琴も少々戸惑っている様子だったが、明はそんな三人をよそにこう言った。君たちには真実を伝えておく、と。
 犬神事件、紺野と北原が全面的に協力している現状、廃ホテルの事件の真実、亀岡の事件、北原が襲われたことなど、冬馬たちのことも含め、これまでに起こっていた全ての事件の概要と判明している犯人の身元を、明は淡々と伝えてきた。さらに、六年前の事故や怜司の過去と、昴の正体。
 自然と手が止まり、華は顔を曇らせた。
「事件が起こった時、陰陽師が関わっている可能性は、確かに考えたわ。でも、まさかと思った。この中の誰かが敵で、目の前にある笑顔が演技だなんて信じたくなかった。だって、あたしたちの他に陰陽師はいないなんて、言い切れないでしょ?」
 それでも、現実は無情にも事実を突き付けてくる。茂も美琴も、しばらく何も言わなかった。電話越しでも伝わる重苦しい空気と、あまりにも大きなショックに息の仕方を忘れた。
 あの時の息苦しさを思い出し、華は細く息を吐いた。俯く夏也を見やる。
「夏也」
 優しく声をかけると、夏也はゆっくりと顔を上げた。
「本当はね、夏也にも伝えるつもりだったそうよ」
 意外だったのだろう。夏也が驚いたように瞬きをした。
「でも、怜司くんから報告が届いたあとだったから、保留にしたんですって。今は、夏也に余計なストレスをかけない方がいいだろうって。様子を見て話すつもりだったみたい」
 けれど、早々に事態が動いてしまった。
「明さん、言ってたわ。もし話をする前に事態が動いても、夏也なら大丈夫だろうって。あたしもそう思った。夏也なら、冷静に理解しようとするって。ただ、弘貴くんたちは……」
「顔に、出ますからね」
 ええ、と華は複雑な顔で頷いた。長所と短所は、裏と表だ。時と場合によって、容易にひっくり返る。大河を含めた四人の素直さは、普段は長所だが、今回の場合は短所になる。昴に、こちらの誰が全てを把握して誰がしていないのか。警戒させないためにも、悟られるわけにはいかなかった。実際、昴は美琴と夏也を見誤っていた。明と宗一郎は、弘貴たちがあとでどう思うかより、こちらを優先したのだ。
 間違っていない。正しい選択だと思う。けれど、それでもやはり弘貴たちの気持ちを考えると、複雑だ。
「夏也、どうする?」
 端的に問うと、夏也は小首を傾げた。
「先に、聞く?」
 明日、全てを聞いた弘貴たちはさらに動揺するだろう。いくら冷静と言っても、あの情報量を消化するには、夏也でも時間がかかる。先に話をして、弘貴たちのフォローをしてもらうのも一つの手だ。
 夏也は視線を落として逡巡し、首を横に振った。
「弘貴くんたちと、一緒に聞きます」
 夏也は理由があったけれど、話してもらえなかったことを、弘貴たちがどう受け取るか分からない。仕方ないと思うか、卑屈になるか。ならば、できるだけ同じ立場にいたいのだろう。夏也らしい判断だ。
「そう。分かったわ」
 華は微笑んで洗い物の続きをする。食器がぶつかる軽い音が鳴る中、夏也はローテーブルへ移動した。
「椿は、大丈夫でしょうか」
 ふと心配そうに呟かれた言葉は、椿が裏切ったなどとはまったく思っていない言い回しだ。
「椿は、宗史くんのためならヘマをしないように細心の注意を払うわ。と、言ってもねぇ」
 華は喉の奥で唸った。
「心配ですよね」
「もちろんよ」
 椿の性格を知っているからこそ、例え信じ切らずとも、昴たちは迷うだろう。そこからどう判断するか。
「さすがに、二人で話し合って決めたのでしょうが、それにしても」
「そうよ、そこよ!」
 興奮気味に言葉を遮った華を、夏也が手を止めて振り向いた。
「もちろん、宗史くんのことも心配よ。彼のことだもの、悩み抜いて決めたことだと思うわ。甘いこと言ってる状況じゃないのも分かってるし、椿も覚悟をしてたんでしょうよ。でも、それにしたって!」
 刺させるなんて! 言外に膨れ面で叫び、少々荒っぽく手を動かした華に、夏也が頷いた。
「椿が帰ってきてからのフォローをちゃんと考えているのか、聞いてみましょう」
「あ、いいわねそれ。そうしましょう。何も考えてなかったらぶっ飛ばしてやるわ」
 鼻息も荒く言い放ち、はたと気付く。
「でもあれ、宗一郎さんは知ってたのかしら?」
「いえ、多分知らなかったと思います。あんなに動揺した宗一郎さん、初めて見ましたから」
「てことは……」
 はい、と頷きながら夏也が腰を上げ、キッチンへ入る。
「宗史くんへの処分って、何でしょう?」
「そうねぇ……」
 華は箸を洗いながら逡巡する。宗史の弱点といえば。
「桜ちゃんと一週間くらい口を利けない、とか?」
「そ、それは……」
 珍しく夏也が口ごもった。洗い終わった茶碗を順に水で流していく。
「ご乱心するのでは」
 飛び出した時代がかった言い回しに、あははは! と華の無邪気な笑い声が響いた。宗史にとって桜との交流を絶たれることは、我慢できないとか、ストレスが溜まるとか、その程度のレベルではない。まさに心が乱れる事態だ。
「確かにそれぴったり。でもいいのよ、そのくらいで。桜ちゃんが知ったら絶対に叱られるわ」
「宗史さん、落ち込みそうですよね」
「間違いなく落ち込むわねぇ」
 ちょっと可哀想かなと思わなくもないけれど、椿の気持ちを考えるとそのくらいでちょうどいいのだ。
 ふふふふ、と収まらない笑い声を漏らしつつ鍋に手をつけたところで、勢いよく扉が開いた。
「すっきりしたぁ」
 言葉通り、さっぱりした顔の学生組男子が戻ってきて、リビングに再び騒がしさが戻った。
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