第3話

文字数 4,236文字

 北原は、被害届も告訴もしないと言った。おそらく、女の悲しげな一言と悲痛な叫びがそうさせたのだろう。紺野はその意思を尊重し、通報しないことを決めた。
 腕に血を滲ませた刑事を表に出すわけにはいかない。ひとまずハンカチで止血をし、北原に女を見張らせて紺野は外へ出た。住民たちは女の物騒な叫び声を聞いて集まったらしいが、「事件の話をしている時に、精神的に不安定になった奥さんが思わず口にしてしまった」、という紺野の説明で同情的な言葉と表情を残して解散した。
 野次馬の中にいた立ち話をした主婦を捕まえて夫のことを聞くと、ここ最近帰宅時間がやけに遅いらしい。主婦によると、家に居辛くて仕事に現実逃避しているのではと噂になっているらしい。男は仕事に逃げられていいわよね、と(いわ)れのない嫌味を受けつつ、職場を聞き出した。すぐに夫に連絡を取り、帰宅するように伝えた。
 三十分後、真っ青な顔で帰宅した夫に状況を説明すると、夫は虚ろな目でぶつぶつ呟き続ける妻を抱きしめ、泣き崩れた。自分とあまり変わらない年代の夫婦を、直視できなかった。
 通報はしない旨を伝えると、夫は何度も何度も頭を下げた。謝罪と感謝の言葉が混ざっていた。
 夫は言った。
「沖縄に住む妻の両親が、こっちへ来ないかと言ってくれてるんです。詠美がいなくなって、何度も連絡をくれてましたから。私も……正直、ここは苦痛で。それに、故郷の方が落ち着くかもしれません」
 どこか吹っ切れたような、それでも寂しげな表情を浮かべる夫に、そうですか、としか言い返せなかった。
 丁寧に頭を下げて橘家を後にし、紺野が運転する車で捜査本部への道を走る。途中の新高瀬川にかかる橋を渡り、右に折れる。二分ほど先の待避所で、紺野は車を停めた。サイドブレーキをかけ、ギヤをパーキングに入れる。そして、
「は――――――っ」
 二人同時に長く大きな溜め息をついた。紺野はハンドルにしがみつき、北原は座席にだらしなく沈んだ。
 しばらく沈黙が流れる。川とは反対側の土手下は道路が走り住宅街が広がっている。時間は正午前。車内のエアコンの稼働音に交じり、微かに外から子供の声が届く。何かの工場の作業員たちの声、追い越していく車の走行音やバイクのけたたましいエンジン音。強さを増した夏の日差しが容赦なく肌を焼く。
 北原が沈黙を破った。
長閑(のどか)ですねぇ……」
「……そうだな」
「さっきのアレが、嘘みたいですねぇ」
「……そうだな」
 再び二つの溜め息が重なった。
 そう言えば、と紺野は体を起こした。
「お前、傷は。上着脱げ」
「あ、はい」
 北原は巻いていたハンカチを解き、痛みに顔を歪ませながら上着を脱いだ。真っ白だったカッターシャツは、切りつけられた右腕前腕の真ん中辺りが血で真っ赤に染まっている。血液はもう固まりかけて、シャツが腕に張り付いていた。
 紺野はグローブボックスを開け、誰かが放置したであろう消毒液と絆創膏を漁りながら、その様に眉をひそめた。
「それ、病院行った方がよくないか」
「大丈夫ですよこのくらい。痛いですけど」
「痛いんじゃねぇか。雑菌が入ったら化膿するぞ」
 袖をまくりながら張り付いたシャツを剥がし、傷口を観察する。縫うほど深くはないが、完治するには少し時間がかかるくらいの傷だ。あの薄暗い中でよく避けた。
「俺、病院嫌いなんですよね」
 しかめ面でカミングアウトした北原に、紺野はポケットからハンカチを引っ張り出しながら呆れた息を吐いた。
「ガキかお前は。沁みるぞ」
 ハンカチを下に当て、上から消毒液を大量に流す。案の定沁みたのだろう。反射的に引かれた腕をとっさに握り締める。
「我慢しろ」
「って……っめっちゃ沁みる……っ」
「だから沁みるって言ったろ」
「てか紺野さん消毒液流しすぎっ」
「病院行きたくねぇんだろ。きっちり消毒しとけ」
 ぬおー、と意味不明な声を上げて耐える北原に、紺野は容赦なく消毒液を流し続けた。添えたハンカチが絞れるくらいまで流し、周囲の液を拭き取ってから大判の絆創膏を張り付けた。
「こんなもんだろ」
 もういいぞ、と紺野が腕を離した頃には、北原はダッシュボードの上にぐったりと倒れ込んでいた。
「大げさだな」
「鬼ですかっ!」
 勢いよく体を起して抗議した北原の言葉に、ふと彼の姿を思い出した。宗一郎の式神だと名乗った、あの男。女かもしれないが。
 もう、目の前であんなものを見せられたら信じるしかないではないか。
 紺野は窓を開けてハンカチを絞った。滝のように滴り落ちる消毒液を見つめ、ちょっとやり過ぎたかと反省する。
 絞ったまま畳みもせずにインパネの上に放り投げると、紺野は窓を閉めてシフトレバーに手をかけた。
「そう言えば、お前あれが見えてたのか?」
 痛むらしく、絆創膏の上から傷を撫でる北原が首を傾げた。
「あれって?」
「あの犬」
「ああ、やっぱり犬だったんですか。見えてませんよ」
 ドライブに入れ、サイドブレーキを外す。後方を確認してゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
「見えてねぇのに、よく分かったな。俺が背後から襲われた時」
「だって、花が浮かんでたんですよ。何かいるって思うじゃないですか」
 そう言えばあの時、犬の頭に枯れた花が数本乗っていた。玄関に飾られていた、枯れた花。
「犬神、だったな」
「ええ、そう言ってました。蠱毒とも」
「蠱毒ってのは何だ」
「知りません? 古代中国から伝わった呪術ですよ」
「……何で知ってんだ」
「昔見た映画の題材になってて。ちょっと調べたことあるんで」
 なるほど。最近は気になればすぐにネットで調べられる。便利なものだ。あの女もおそらくネットで調べたのだろう。紺野は続きを促した。
「例えば、蛇、ムカデ、蛙なんかを壺に入れて、共食いさせるんです。そこで生き残った虫を神霊として祀るんですよ。その虫の毒を使って人を殺したりするそうです。どんな理屈か分かりませんが、その毒を使って富を得るとか、福を得るとか言われてます」
 心底嘘臭いが、犬神を見た後では一概に否定もできない。
「犬神はその一種か?」
「はい。犬神は……飢餓状態の犬の首をはねて、十字路に埋めるんです。人に頭を踏ませて、怨念が籠った怨霊として使役するんです。動物を使った術は強力だそうで、あの人が言ってたように、禁忌とされてると」
 書いてありました、と尻すぼみに言い終えた北原の気持ちは手に取るように分かる。十中八九、あの犬神にされた犬は詠美が可愛がっていた犬だ。女は犬神をハヤテと呼んでいた。主婦の話と一致する。娘が可愛がっていた犬の首をはね、あんな凶暴なものにしたのか。
「増田を殺したのも、その犬神なんでしょうか……」
 北原もあんな場面に遭遇すれば、面白半分ではいられないのだろう。何せ、実害が出ている。
「多分な。だが、報告はできねぇ」
「……ですよね」
 増田を殺したのは犬神でしたなどと報告すれば、間違いなく失笑どころかしばらく休めと言われる。下手をすれば心療内科を紹介される。
「増田の事件は……お宮入りだな」
 刑事として口にしたくない言葉だ。犯人は分かっているのに裁けない。しかもその犯人は、犯人に殺された被害者遺族だった、なんて虚しすぎる。
「そうだ、あの人、助けてくれた人。結局誰だったんですか?」
 重苦しい空気を払拭するように、北原が話題を変えた。
「ああ、賀茂宗一郎の式神らしい。右近っつったか」
「式神! マジですか!」
 ついさっきまでのシリアス面はどこに捨ててきたと言いたいくらい、北原が顔を輝かせた。
「哨戒中だったんだと」
「へぇ、そう言えば会合の時に言ってましたね。陰陽師って普段そんなことしてるんですねぇ」
 感心した様子で呟く声を聞きながら、紺野は小さく息を吐いた。まさか、こうして陰陽師だの式神だのの話を当然のように話題にするようになるとは思いもしなかった。事件が起こった当初は、信じていなかったのに。
「北原」
「はい?」
 窓の外を眺めていた北原が振り向いた。
「お前、見えてなかったのによく俺の指示に従ったな。何でだ」
「そんなの、紺野さんに陰陽師の血が流れてるって知ってますし。それに、紺野さんすぐ手が出るし乱暴だけど、俺信用してるんで」
 何か余計な評価が混じっていたが、信用していると言われて嬉しくないわけがない。紺野は、そうか、とぼそりと呟いて口をつぐんだ。
「あれ、もしかして照れてます?」
 ひょいと横から顔を覗き込んだ北原のにやついた顔がムカついて、傷を叩いてやった。
「いったぁっ!」
「うるせぇな! 蹴り落とすぞ!」
「酷い! ああっ!」
「何だ!」
 突然、何かを思い出したように叫んだ北原に、勢いのまま尋ね返す。北原は後部座席に放り投げたままのファイルを左手の指で差した。
「あれ、どうします?」
 このまま捜査車両に乗せておくわけにもいかない。署に持ち返るわけにもいかない。かと言って近藤に突っ返しても、奴のことだ。どうせその辺に放置して忘れるだろう。紺野はしばらく考え、投げやりに言った。
「どうせコピーだろ。燃やしちまえ」
「ええ? それ、いいんですかぁ?」
「もともとねぇもんなんだ。燃やそうが一緒だろ。それとも、お前が保管しとくか?」
「遠慮します。確かに、一般ゴミとして出すわけにもいきませんし、署でシュレッダーかけるのはリスクが高いですしねぇ。でも、どこで燃やします? 焼却炉なんて学校くらいしか……あとはお寺の焚火とか……あ」
 どうやら同じことを思いついたらしい。紺野はにやりと口角を上げた。
「まだ動けるか?」
「平気です。土御門家、ですよね」
「どうせなら賀茂家がいいんだがな。犬神の話ももちろんだが、式神の把握しときてぇし」
「紺野さん、携帯の番号知ってますよね。俺、連絡しましょうか?」
「ああ、そうしてくれ」
 紺野は内ポケットから携帯を取り出し北原に渡す。
 おそらく、上司に知れれば懲戒免職は免れない。けれど、事件を解決するにはどうしても陰陽師たちの力と情報が必要だ。まだ彼らに話していない情報がこちらにはある。彼らの主張を信用する以上、全ての情報を共有するべきだ。できるだけ早く。
 紺野は決意をするように、ハンドルを強く握った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み