第7話

文字数 2,332文字

「紫苑!」
 滑り込むようにして華の向かい側にしゃがみ、間近で見たそれに思わず顔が強張った。みぞおちに拳大の穴がぽっかり口を開けており、とめどなく血が溢れ出ている。しかしすぐに気付いた。かなり浅く間隔が短いが、呼吸している。けれど、まともに「食事」ができていない弊害だろうか。徐々に塞がってはいるがかなり遅く、傷の深さに治癒が追い付いていない。このままでは、いくら鬼でも傷が塞がる前に失血死する。でもまだ生きている。まだ助かる。
「鈴、まだ生きてる!」
「無理だ!」
「何でだよッ!」
「鬼は邪だ! (わたし)の気を注いだらどうなると思う!」
 食い気味の反論は、苛立ちともどかしさが混じっていて、弘貴は息をのんだ。そうだ。紫苑は鬼だ。ついさっき、自分で思ったのに。
「ごほ……っ」
 紫苑の口から、力ない咳と一緒に血が流れ出た。鈴の治癒はできない、このままでは確実に死ぬ。では、どうしろと。
「紫苑、口を開けて!」
 突然、華が閃いたように言って細い腕を紫苑の口元へ寄せた。紫苑の目がうっすらと開いて、虚ろな眼差しが華を捉えた。そうだ、保険。でも華は。
「待て華、その状態では危険だ!」
 鈴が肩越しに険しい顔で制すると、華が珍しくヒステリックに叫んだ。
「じゃあどうするの!? これしか方法がないでしょ、絶対に死なせない! 紫苑、早く……!」
「華さん、どいて」
「え?」
 華の腕を避け、弘貴は紫苑の口に手を突っ込んで無理矢理こじ開けた。手首をねじ込むように差し入れると、牙が皮膚に食い込んで、ちくりとした痛みが走った。思わず顔が歪み、つっと呻き声が漏れる。
「弘貴くん、あたしの方が!」
「華さん、この状態で華さんが倒れたら誰が車の運転すんの。ここで野宿とか勘弁してよ。それに俺、すげぇ腹減ってるんだよね。途中でコンビニ寄ってくれる?」
 紫苑はこんな状態で、夏也だって完治してもすぐに意識が戻るとは限らない。華も大きな怪我はないがあちこち傷だらけで、ずっと霊刀を維持したまま戦っていた。鈴がいるとはいえ、この傷を回復させるほどの精気を与えるのは厳しいだろう。ならば、体力のある自分がこの役を買って出るのが正しい。それに、春平の精神が限界を超えている。ホテルできちんと休んで体力を回復させた方が、罪悪感も多少は薄れるかもしれない。可能性としては、低いけれど。
 ね、と笑って横目で見やると、華はわずかに唇を噛み、小さく頷いた。そんな華に頷き返し、弘貴は改めて紫苑へ目を落として顎に手を添えた。
 もっと深く噛んだ方がいいのだろうが、おそらく紫苑にはもうそんな力すらない。弘貴はぐっと歯を食いしばり、意を決して顎をゆっくりと押し上げた。じわじわと、肉に牙が食い込んでいく。
「紫苑、吸え。華さんと鈴が止めてくれる。俺、体力あるし、大丈夫だから。心配すんな」
 痛みを紛らわすようにそう言い聞かせながら、牙を根元まで食い込ませた。とたん、さらにぐっと深く牙が食い込み、体の中で何かが動いた。牙が食い込んだ場所へ吸い込まれるように何かが一斉に集まって、消えていくのが分かる。例えるなら、浴槽いっぱいに貯めた水が、小さな水抜き穴から一気に流れ出るような、そんな感じだろうか。
「う……っ」
 まともに「食事」をしていない上に、この怪我だ。本能が精気を求めるのは必至。加減できないだろうと分かってはいたけれど、これは想像以上だ。あっという間に力が抜けていく。頭がぼんやりして地面についた左腕が小刻みに震え、体が重い。実感として分かる。今まさに、精気を吸い取られているのだ。
 弘貴は俯いて歯を食いしばった。いくら柴と紫苑が加減しているからといっても、大河はいつもこんな感覚を味わっているのか。例の提案をした時は、向小島で柴に精気を吸われたあとだった。精気を吸われることがどれだけ辛いことなのか、知っていたのに。
 大河がどれだけ覚悟を持って京都に戻ってきたのか、改めて思い知らされた気がした。
「しお……っ」
 だんだん意識が遠のいていく。さすがに限界だ。弘貴が自分の腕を掴むと、華が険しい顔で紫苑の肩を掴んだ。
「紫苑、もうやめて。限界よ、紫苑!」
「よせ、紫苑!」
「う、ぐ……っ」
 これ以上は死ぬ。だが、このまま無理に引き抜けば確実に肉を持って行かれる。さっきと同じように口をこじ開けるか。
 弘貴が震える腕を上げ、鈴が治癒を中断して腰を浮かせた時、華が声を荒げた。
「紫苑、やめなさい! 弘貴くんを殺す気!?」
 物騒な言い回しが利いたのか、それとも叱り飛ばされたからか、紫苑が我に返ったように目を見開いて、一気に牙を引き抜いた。
「うあっ!」
 正気に戻ってくれたのはいいが、もっとゆっくり抜いて欲しかった。しかも反射的に腕を引いた勢いでバランスを崩し、そのまま後ろへひっくり返って後頭部をぶつけた。
「だっ!」
 ゴッ、と鈍い音と衝撃が脳みそを揺らし、視界に小さな火花が弾けた。
「弘貴くん!」
 華が慌てて腰を上げて回り込み、頭の側にしゃがみ込んだ。
 ふおおお、とおかしな声を上げながら頭を抱えて悶絶する。これ以上馬鹿になったら宿題ができなくなる、とおかしな方向に思考が働くのはやはり頭を強打したせいだろうか。
 徐々に痛みが引き、やがて、長く息を吐きながら仰向けに転がった。ちょうど紫苑の隣、血まみれでも整った顔が近くにある。
「だ、大丈夫? すっごい音したけど頭割れてない?」
 心配顔で覗き込んでくる華に、んー、と唸る。まだ若干痛みはあるが、手に血は付いていない。コブはできていそうだが。
「大丈夫みたい。俺、石頭だから」
 へらっと笑ってやると、華はふふと小さく笑った。気を落ち着かせるように息をつき、紫苑を見やる。つられて弘貴も視線を向けた。
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