第11話

文字数 3,909文字

 会計が終わったらしい、すれ違った先程の若い店員にも謝罪と礼を言って自動ドアをくぐると、強い風が髪を乱した。
 ドアの横で待っていた麻里亜の両親を促し、その場から離れる。麻里亜は車で待たせているらしい。
 いきさつを説明すると、両親は唖然とした顔で少しの時間立ち尽くした。情けなさすぎて声も出ないといった様子だ。やがて、父親が顔を覆って全身で溜め息をついた。
「そんな言い訳が通用するわけないじゃないか……」
「なんでそんな馬鹿なこと……」
「藤木さん。彼女は、ちゃんと分かっています。落ち着いて、よく話しを聞いてあげてください」
 悲痛な呟きに茂が穏やかな声で諭すと、両親は「はい」と力のない返事を残し、また何度も謝罪と礼を残して麻里亜が待つ車へと向かった。
 ひとまず肩の荷が下りた、といった様子で三人同時に息をつくと、示し合わせたように学校へ足を向けた。
 三浦が尋ねた。
「先生、今日はお車じゃないんですか?」
「ええ、娘に送ってもらったんです。ですが、報告書を書かなければいけないので、一旦学校へ」
 自然と学校の方へ足を向けながら、茂は腕時計を確認した。十二時を少し回っている。今から学校へ戻って報告書を作り、そのまま駅から電車を使うと約二時間。和束町に到着するのは確実に三時を回ってしまう。空中カフェの時間には間に合わないが、夕飯には十分間に合う。
「いい娘さんですねぇ」
 風になびく髪を押さえた井上の賛辞に、三浦はうんうんと相槌を打ち、茂はいえいえと照れ笑いを浮かべた。
「遅くに授かった子なので、どうにも甘やかしてしまって。おかげでまだまだ頼りないです」
「そんなことないですよ、優しい娘さんじゃないですか」
「そうですよ。うちの子なんて口ばっかり達者で、何かと言えば嫁と口喧嘩してますよ」
「それ分かります。あたしの場合は父親ですけど。口うるさくて、喧嘩ばっかり。心配してくれるのは有り難いんですけどねぇ」
 うんざりした様子の井上に、茂と三浦は苦笑いを浮かべた。父親の立場である茂と三浦からしてみれば、娘と同じ年頃の井上の意見は少々耳に痛いものがある。
「あ、じゃあ帰りも迎えに来てくれるんですか?」
「ああいえ。実は、今日は妻の実家に行く予定だったんです」
 えっ、と二人同時に驚いた顔を向けられ、茂は大丈夫ですよと笑った。
「妻と娘は先に行っているので、私はあとで追いかけます」
「そうですか。楽しんできてくださいね」
 無邪気に笑った井上に、茂も笑みを浮かべてはいと頷いた。
 さすがに昼食抜きはひもじい。学校へ戻る前に二人と別れ、コンビニに寄っておにぎりとお茶を購入した。おにぎりを齧りながら、本当なら今頃、と女々しい考えが浮かび、茂は首を横に振った。またいつでも行ける、改めて行けばいい。
 手早く食べ終えて報告書を書き終えた頃には、二時を回っていた。やっぱり間に合わなかったか。
 あとは印刷すれば終わりだ。と、机に置いていた携帯が着信を知らせた。液晶には「恵美」の文字。茂は小走りに職員室を出て、通話ボタンを押しながら職員用玄関へと走った。
「もしもし?」
 吹き込む風のせいか、圧で重くなったドアを押し開けて外へ出る。運動場の方から、部活動中の生徒の威勢の良い掛け声が響いてきた。
「ああ、あなた? ごめんなさいね、大丈夫かしら」
「うん。あと少ししたら行くよ。今、天空カフェにいるのかい?」
「ええ。すごくいい眺めなんだけど、だんだん雲行きが怪しくなってるのよねぇ」
「ああ……」
 言われて茂は遠くへ視線を投げた。つい数時間前よりもはるかに雲が厚みを増して周囲は薄暗く、風も強くなっている。
「それでね、さっき調べたんだけど、雨の降り出す時間が早まってたのよ。夜にかなり強く降るみたい。それで真由とも話したんだけど、危ないから実家にちょっと顔を出して、今日はもう帰ろうかってことになったの」
 今から行くと四時は確実に過ぎる。遅ければ五時。実家で食事をするとさらに遅くなる。この風の強さならば、夜どころかもっと早くから雨が降り出すかもしれない。豪雨になると、誰が運転しても危険だ。それなら降り出さないうちに早めに帰宅させた方がいいだろう。
「それにね」
 恵美が笑い声を噛み殺して小声で言った。
「真由が、残りの観光は今度またお父さんと来る時まで取っておきたいって言うのよ。ああ、今日行った所は写真撮ってあるから、帰ってから見せるわね」
 思いがけない台詞に、茂は目をしばたいた。真由を授かったのは、結婚してから四年後の、ちょうど三十歳の時。なかなかできないことに悩んでいた時で、喜びもひとしおだった。可愛くて可愛くて、仕方がなかった。やっぱり甘やかしすぎたかなと思うこともしばしばだが、それでもこんなことを言われて喜ばない父親はいない。
 茂は照れ臭そうに笑って鼻の頭を掻いた。
「じゃあ、また仕切り直さないといけないねぇ」
「そうね、近いうちにそうしましょう。ああは言っても、色々と予定が変更になってちょっと元気ないのよ。お団子はもりもり食べてるけど」
 元気はないが食欲はあるらしい。もりもりって。茂はふっと噴き出した。
「仕方ないなぁ。じゃあ、お寿司を買って帰るよ。真由、お寿司好きだろう」
「あら、いいわね」
 真由、お夕飯お寿司買っておいてくれるって、と言う恵美の声が遠のき、すぐに「えっ、ほんと? やった!」と嬉々とした声が届く。ごそごそと音がして、真由の声に変わった。
「お父さん、お寿司って回ってないやつ!?」
「まさか。ぐるぐる回ってるお寿司だよ」
「えー、なんだぁ」
「嫌なら買って帰るのやめようかな」
「やだやだ、冗談だよ冗談。エビ追加しといてね!」
「分かってるよ」
 やった楽しみ、と浮かれた声に、茂は相好を崩した。機嫌が直ったようで何よりだ。
「じゃあ、また帰る時に連絡入れるね」
「うん。気を付けて帰って来るんだよ。くれぐれも安全運転で」
「はーい。じゃあね」
 うん、ともう一度頷くと、通話が切れた。
 色々と予定は変更になったけれど、またいつでも仕切り直しができる程度だ。茂は携帯を持ったまま職員室へ戻った。
 報告書をプリントアウトし、ファイルに挟み、提出の準備が終わったところで、茂は井上と三浦に挨拶をした。
「気を付けて」
 そう言われたので変更になったことを伝えると残念そうな顔をされた。また仕切り直しますと笑顔で言い残し、学校をあとにした。
 予定が変わったため、時間が空いてしまった。来週の授業の準備をしようか、と思いながら約束のお寿司を買って自宅へ戻り、コーヒーを淹れて書斎に入る。
 教師生活も長くなると、自分なりの準備の仕方というのができてくる。昔は、教材研究ノートや板書の下書きを書いたノート、配布プリントなど大量の紙類をファイリングして保管していたのだが、今ではデータ化してパソコンに保存するようになった。クラウドを利用して学校のパソコンやタブレットからも閲覧できるようにしてある。初めは四苦八苦したが、覚えてしまうと非常に便利だ。
「便利な世の中になったよねぇ」
 とはいえ、やはり手書きや紙媒体は欠かせない。去年の教材研究を参考にしつつ、今の生徒の反応を想像して書き込みをし、付箋を貼っていく。例え単元が同じでも生徒は変わるし、教科書の内容も少しずつ変わっていく。一度教材研究をしたから終わりではなく、毎年ごとのアップデートが必要なのだ。
 そして四時頃。
 恵美から「今から帰ります」とメッセージが入ったのを最後に、二度と二人から連絡が来ることはなかった。
 宇治警察署から連絡があったのは、六時を回った頃だった。
 すっかり風も強くなり、ぽつぽつと雨も降り出していた。ゆっくり帰ってきているのなら多少時間がかかるだろうとは思っていたけれど、さすがに遅いなと電話をしようとした矢先のことだった。すぐに病院に来てくれと言われ、大慌てでタクシーを捕まえて向かった。
 警察、病院。嫌な予感を抱えながら、しかしちょっとした事故だろうと、大したことはないだろうと。そう、自分に言い聞かせた。
 けれど、そこで待っていたのは、悪夢のような現実だった。
 茂の両親はすでに他界しており、兄弟もいない。タクシーの中で気が付いて連絡した恵美の両親と兄夫婦は先に到着しており、皆、廊下の長椅子に腰を下ろして号泣していた。そんな姿を見るなり足元が不安定になり、めまいを起こしたように視界が揺らいだ。全身から血の気が引いて、小刻みに手が震える。
 何があったのか察する反面、そんなわけないと強く反発するもう一人の自分がいた。
「ほぼ即死だったと思われます」
 宇治警察署の交通部・交通捜査課の担当者はそう言った。
 事故の目撃者は、相手側の後続車の中年女性と、恵美と真由の後ろを走っていた若い夫婦。妊婦の妻を気遣い、夫はしっかり車間距離を開けて速度も落とし、念には念を入れて安全運転を心掛けていたらしい。その甲斐あってか、ブレーキが間に合い、巻き込まれずにすんだそうだ。
 彼らの証言によると、恵美と真由の車に、対向車線を走っていた加害者の車が車線をはみ出して突っ込んだらしい。ブレーキが間に合わず、運転席の斜めから前から突っ込む形で激突し、大破。
 相手の車から、五百ミリリットルのビールの空き缶数本が押収され、体からもかなり酒の臭いが漂っていたことから、基準値を超えているだろうと推測された。
 推測、というのは、計れないからだ。相手は別の病院で手術を受けていた。一方、運転をしていた恵美は即死。真由は激突された衝撃で助手席の窓ガラスに頭を強打し、病院に搬送される途中で死亡が確認された。
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