第26話

文字数 2,167文字

      *・・・*・・・*

 寮に到着したのはお昼頃。ちょっと引くくらい盛大な出迎えを受けた。
 部屋はここを使ってねと華に個室へ案内され、ひとまず荷物を置いてリビングに降りると豪華な食事が用意されていた。賑やかというよりはいっそ騒がしい食事の時間を過ごし、寮を案内され、宗史や晴たちを紹介され、荷ほどきをして訓練を見学。夜は大きなお風呂にゆっくり入って、お日さまの匂いがするふかふかの布団で眠りについた。
 緊張からくる疲れもあったのだろうが、扉の向こうから感じる人の気配と微かな物音にやけに安心感を覚えて、気が付いたら朝になっていた。
 新しい生活に慣れながら、陰陽師としての知識を学び、訓練を受ける。春休みが終わって学校生活と勉強が加わり、やることが山積みでいっぱいいっぱいだった。それでも何とかこなせたのは、華たちのおかげだ。
 父親のような茂。兄姉のような華たち。弟妹のような藍と蓮。お金の心配をしなくていい、誰かの機嫌を窺わなくていい、理不尽な暴力に怯えることもない。寮での笑いの絶えない毎日は、少しずつ、傷付いた心を癒してくれた。
 一方で、ふとした時に母の言葉が脳裏を掠る。
『神に誓って、何があっても見捨てたりなどしません。もし不幸になる運命だとしても、必ず断ち切って見せますよ』
 明はそう言ってくれたけれど、どうしても母の言葉を消し去れなかった。産むんじゃなかった、役立たず、捨てられる、不幸になる。呪詛のような言葉は頭にこびりついて、心を乱す。
 役に立たないと判断されたくない、価値がないと思われたくない、落胆されたくない、捨てられたくない。そんなことはないと分かっていても、常にどこかにある不安な気持ちを消し去りたくて、勉強や訓練に没頭した。
 初日に訓練の見学をしている時、華と夏也が言った。
『あたしたちが体術を会得するのは、誰かを傷付けるためじゃないのよ。誰かを守るため。大切な誰かを守るために、強くなるの』
『守るための強さ、ですね』
 二人の話を聞いて、誓った。母のように誰かを傷付けるためではなく、誰かを守るために力を身につけようと。大切な誰かを守るために、強くなろうと。
 それは、母が自分へかけた言葉の呪詛への抵抗だった。人を傷付けるために力を使った貴方とは違うと、胸を張って言ってやるために。
 だから、ますます訓練に打ち込んだ。皆との大きな差を埋めるために、明たちへ恩を返すために。自分が決めた道を、真っ直ぐ進むために。
 そんな中、鬼代事件が起こった。
 公園襲撃事件で、柴と紫苑以外の、別の鬼が復活していると判明した。いくら宇奈月影綱と親しかったとはいえ、柴と紫苑がこちら側に付くとは限らない。その上別の鬼まで。事件が複雑化、さらに激化するのは容易に想像できた。
 影正に、何の情もなかったわけではない。感情のままに草薙に食ってかかった大河を容赦なく殴った姿は凛としていて、しかし夕食やそのあとの歓談の時間は、殴った姿は幻覚だったのか思うほど穏やかで、明や宗一郎と通じるものがあった。そして大河を庇ったと知った時、ああ、あの人は大河の祖父で、同時に陰陽師家の当主なのだと実感した。彼は柴と紫苑以外の鬼に出くわし、大河が影綱の霊力を受け継いでいることを知っていた。影正は、この事件に大河の霊力が必要だと分かっていたのではないか。だから、身を呈して彼を守った。孫を生き延びさせるために、この世のために、彼は命を賭した。間違いなく、尊敬に値する人物だった。
 だからこそ、何もせずにリビングでただ彼の死を嘆いている暇はないと思った。もっと強くなって早く犯人たちを捕まえる。そうすることが影正への弔いになると、嘆くならそのあとだと、そう思った。
 影正の手紙で、この考えはあながち間違っていなかったと知った。
 悲しみに溺れるな、憎しみに囚われるな。あの言葉は、とても重く、静かに胸に響いた。
 けれど、そう簡単に逃がしてはくれないのだと思い知らされた。
 香苗の父親が言い放った言葉は、容易にかつ鮮明に昔の記憶を呼び起こし、傷を抉った。意識が過去へと引きずり込まれるような、酷く不快な感覚だった。常にお金の心配をして、母に怯え、真っ暗な将来を見つめていた日々。もう戻りたくない、あの頃には戻りたくない、あんな思いは嫌だ。そんな懇願する気持ちを打ち破ったのは、意外にも弘貴だった。
 大丈夫、皆ここにいるからと囁く声は、普段の弘貴からは想像できないほど落ち着いていた。ゆっくりと優しく闇から引っ張り上げられるような、そんな感覚に安堵した。
 さらに、寮が襲撃された日。昴が隠していた本当の実力は、想像をはるかに超えていた。まるで別人のような動き。人質にされ、このまま足手まといになるくらいならと取った行動は、皆に止められた。あんなに必死に止められて、やめない奴がいるだろうか。嬉しい反面、酷く自分を不甲斐なく思った。
 過呼吸に人質。弘貴に助けられ、皆に助けられ、自分の未熟さを再確認した。一方で、樹の言葉は涙が出るほど嬉しかった。あんな失態を犯したのに、それでもあんなふうに言ってくれる。
寮は多少不便なこともあるし、弘貴との喧嘩はしょっちゅうだけれど、今の生活が好きだ。自分が帰る場所は、帰りたいと思う場所は、守りたい場所は、(ここ)なのだ。
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