第9話
文字数 4,261文字
――だが。
ぴくりと反応したのは、茂と華、そして柴だった。揃って睨むように雅臣たちの背後へ視線を投げる。悪鬼の気配を察したのか。下平もつられるように目を鋭くした。
「……健人さん」
雅臣は桃子から視線を逸らし、くるりと身を翻した。
「待って!」
駆け出そうとした桃子を、熊田と佐々木が腕を掴んで止めた。
「皆待ってる!大山 くんも喜嶋 くんも、おじさんたちも皆、菊池くんが戻ってくるの待ってるの!」
一瞬、雅臣の歩みに躊躇いが見えた。だが結局、そのまま足を止めずに展望台の方へと去っていく。こうまで頑なにさせるほど、尊へ憎しみは深いのか。
「お願い戻って! 菊池くんッ!」
桃子の切実で切ない声が、闇に包まれた山中に響き渡る。
健人がちらりと桃子へ視線を投げ、霊刀を消して雅臣のあとに続く。また隗も背を向けた――と、華が霊符を取り出して振り向き、宙へ放った。左手を構える。
「オン・アキシュビヤ・ウン!」
霊符がぴんと張って自立し、下平たちの頭上へ飛んだ。
「帰命 し奉 る、障壁成就 、万象奸邪 、遠離防守 、急急如律令 !」
華が真言を唱え終わると同時に、崖の下から真っ黒な影が浮き上がってきた。先程の倍はあろうかというほどの、巨大な悪鬼が浮かんでいる。その禍々しさに、ぞくっと全身が粟立った。
「な……っ」
やはり見えるらしい、中途半端な声を漏らしたのは熊田だ。車の中から彩たちの悲鳴が微かに漏れ聞こえる。
「動かないでください!」
下平の咄嗟の警告に危機感を覚えた熊田と佐々木が、素早く桃子を背中に庇った。霊符が浮かんでいるということは、車ごとすでに結界が張ってある。こちらはそれでいいが、彼らは大丈夫なのか。この大きさで触手を使われると、さすがに対処できないのでは。
下平は熊田たちの横を回り込み、結界にもどかしげに手をついた。
だが下平が見たのは触手ではなく、悪鬼が一斉に分裂し、雅臣たちを避けて茂たちに襲いかかる光景だった。丸飲みするのだとばかり思っていたが。しかしその数は視界を塞がんばかりで、茂たちだけを狙っている。桃子がいるにも関わらず、雅臣が立ち去るはずだ。茂たちだけを狙うよう命じられているのだろう。逃げるまでの足止めか。
案の定、展望台の方では、雅臣たちが躊躇なく崖下へ飛び下りた。だが、すぐに悪鬼に腕を絡め取られた雅臣たちが浮かんできて、悠々と飛び去って行った。
「狙いは僕たちだけ、触手なし。でも、この数はちょっと骨が折れるよねぇ」
のんびりとした口調で、しかし険しい表情で状況確認をしたのは茂だ。悪鬼を次々と一刀両断していく。おっと、と仰け反って顔の前を通った悪鬼を避けた。
「長引かせても意味ないですし、一気に叩きましょう」
舞っているような流れる動作で悪鬼を叩き切りながら、華が言った。柴は黙々と悪鬼を鋭い爪で切り裂き、握り潰している。
「そうだね。じゃあ、華さん、柴、展望デッキの方に集合。フォローお願い」
「了解です」
「承知した」
話がまとまったところで三人は霊刀と腕をひと振りして悪鬼を振り払い、展望デッキへと駆け出した。悪鬼が群れてそれを追う。先頭を走っていた茂が霊符を取り出し、華と柴がくるりと振り向いて悪鬼を相手にしながら徐々に後退する。一ヵ所に集めて調伏するつもりらしい。
「ノウマク・サマンダ・バダナン・バロダヤ・ソワカ!」
真言を唱えながら茂が展望デッキの前で踵を返し、霊刀を消して霊符を放った。左手を構え、集中しているのか瞬き一つしない。霊符は茂と華たちの中間あたりで宙に浮き、微動だにせずその言葉を待つ。
「帰命 し奉 る。水霊掌中 」
仄かに光る霊符の周囲に、渦巻く小さな水の塊が出現した。それはものすごい勢いで渦を巻き、同時に質量がどんどん増していく。悪鬼に危機感があるのか否か。いくつかを残し、悪鬼が示し合わせたように集まって再び一つの大きな塊を形成した。調伏されたせいでかなり小さくなっているが、それでも車三台分はありそうだ。おおおおお、と威嚇しているのか獣のような咆哮を上げる。
結界内にいてもびりびりと空気が震えているのが分かる。熊田たちが顔を歪ませて耳を塞いだ。
「汚穢捕縛 、籠檻幽拘 」
融合しなかった悪鬼の最後の一つを同時に切り裂いた瞬間、華が横へ避け、柴は飛び跳ねて茂の背後へ着地した。形成されたのは、悪鬼よりも巨大な、透き通った美しい水の塊。
「急急如律令 !」
力強く最後の真言が唱えられるや否や、水塊の形が変わった。例えるなら、千手観音。ぐわっと無数の触手が伸びて悪鬼の周囲を囲んで捕らえ、一瞬で塊の中へ引き摺り込んだ。間髪置かずに、今度は華の真言が響き渡る。
「オン・シュチリ・キャラ・ロハ・ウン・ケン・ソワカ!」
捕らえられた悪鬼が大暴れする水塊に、霊符が張り付いた。
「帰命 し奉 る。邪気剿滅 、碍気鏖殺 、久遠覆滅 、急急如律令 !」
霊符から、カッ! とまばゆい光が放たれ、悪鬼と一帯を包み込んだ。
下平は思わず目をつぶって顔を逸らし、さらに腕で目を庇う。熊田たちも桃子を庇うようにして背を向けた。結界が破られるのではと思うほど、悪鬼が上げた咆哮は凄まじく、山全体に低く木霊した。街の方へも響いているかもしれない。
やがて咆哮が空気に溶けた頃、下平はゆっくりと耳を塞いでいた手を離し、慌てて結界にへばりつく。巨大な悪鬼は見る影もなく、すっかり静寂が戻っている。茂たちも無事だ。
「水天の中級なんて、久しぶりに行使したなぁ」
茂が独鈷杵をポケットに押し込みながら、溜め息混じりにそう言った。
「綺麗な水塊でしたね。さすがしげさん」
華が笑みを浮かべて霊刀を消した。
「すっごい集中したよー。失敗できないのはもちろんだけど、地天が使えないから」
「展望台が崩れるかもしれませんからねぇ」
「そうそう。でも成功して良かった。華さんも柴も、怪我はないかい?」
「ええ。どこにも」
「ない」
「良かった」
すっかり和んだ様子でそんな会話をしながら、茂たちがこちらへ向かってくる。彼らからしてみれば慣れたものなのだろうが、下平以外の全員が口もきけないほど唖然としている。それとも、柴に対しての唖然だろうか。
一度見ただけでこの戦いぶりは慣れない。下平はほっと胸を撫で下ろしながら脱力した。廃ホテルの時もそうだったが、何もできずにこうしてただ結界内から見守るというのは、かなりもどかしい。何の力にもなれないことは、分かっているけれど。
と、下平を見た茂と華が、目を丸くして駆け寄ってきた。
「下平さん、その怪我……っ」
「大丈夫ですか?」
「ああ、心配いりません。掠り傷です」
下平は結界から手を離して、肘を曲げ伸ばしした。二人はほっと安堵の溜め息を漏らし、だがすぐに何か思い出したように瞬きをした。
「しげさん、さっき、結界が反応していませんでしたね」
「してなかったねぇ。話には聞いていたけど、何でだろう?」
言いながら二人は下平を物珍しげにまじまじと眺める。何だかよく分からないが、珍獣になった気がするからやめて欲しい。戸惑った顔で二人を交互に見やると、茂と華は我に返って苦笑いを浮かべた。
「ああ、すみません」
「ごめんなさい。つい」
あはは、と笑いながら謝ると、茂と華は「じゃあとりあえず」と言って顔を見合わせた。華が霊刀を具現化し、茂と柴が数歩下がった。
「少し下がってください。動かないでくださいね」
「ああ」
華に注意され、下平は何をする気かと首を傾げる熊田たちの所まで下がった。すると華は左脇に霊刀を構え、一気に振り抜いた。ガラスが割れたような甲高い音が響き渡り、頭上に浮かんでいた霊符がはらりと舞い落ちる。ひらひらと舞って目の前に落ちてきた霊符を佐々木が拾い上げ、不思議そうに目を落としながら華へ渡した。
「ありがとうございます」
にっこり笑って受け取った華と後ろに立つ茂と柴に、熊田と佐々木、桃子までもが言葉を忘れて目を奪われている。人外の柴は論外として、紺野からかなりの美人だとは聞いていたが、想像以上だ。また茂も、笑顔は大黒様を思わせるが、真剣な顔は凛々しく勇ましかった。彼のような中年男性を、今どきではイケオジというのだろう。廃ホテル組といい、あれか。陰陽師は顔も重要なのか。
下平が少々白け気味で卑屈になっていると、不意にガチャリと車のドアが開いた。顔を出した榎本が声を発する前に口を開いたのは、桃子だ。
「あ、あの……っ」
榎本が動きを止め、一斉に視線が集中する。桃子が怯えたように眉尻を下げ、しかし説明を求めるように上目遣いで大人たちを見上げる。聞きたいことは分かるが、話さない方が彼女のためだろう。茂たちが、困ったように顔を見合わせた。
「松井さん」
下平と僅差で口を開いたのは、佐々木だ。
「怖い目に遭わせてしまってごめんなさい。協力してもらって、とても感謝してるわ。でも……」
痛々しく眉根を寄せた佐々木を見て察したのか、桃子は悲しそうに視線を落とした。
尊たちを襲っただけでなく、こうしてたくさんの大人が動くような事件に関わっている。しかも、目の前で非現実的な光景が繰り広げられた。あれらの理解はできないだろうが、何か大きな事件に関わっていることだけは、分かるだろう。
「待っていてあげて」
不意に、佐々木が言った。桃子がゆらりと顔を上げる。
「彼を、待っていてあげて」
真っ直ぐな眼差しで見据える佐々木を、桃子がじっと見上げた。
この先、どうなるか分からない。桃子の直接の言葉でも、雅臣が戻ってくることはなかった。けれど、確実に迷いは生まれただろう。
まだ、希望はある。
「……はい……」
桃子は、伏せ目がちに小さく頷いた。少しだけ車で待っていてくれる? と言って、佐々木が桃子の背中に優しく手を添えて誘導する。下平は二人の背中を見送り、榎本を振り向いた。
「榎本」
あのやり取りを彼女も見ている。悲しげな目で桃子を見ていた榎本が我に返った。
「中でちょっと待ってろ」
有無を言わさない声色に、榎本は不満そうな顔をした。しかしすぐに、分かりましたと小さく答え、すごすごと車に戻る。入れ替わりに佐々木が戻ってきた。
下平は、改めて茂と華を順に目を止めた。
「時間がありません。自己紹介はまたの機会にしましょう」
「そうですね。じゃあ、柴」
茂は後ろに立っていた柴を振り向いた。
「先に寮へ」
「承知した」
こくりと頷き、柴は身を翻すと大きく跳ねて展望台の方へ飛び、あっという間に姿を消した。熊田と佐々木が「おお」と感嘆を漏らす。
ぴくりと反応したのは、茂と華、そして柴だった。揃って睨むように雅臣たちの背後へ視線を投げる。悪鬼の気配を察したのか。下平もつられるように目を鋭くした。
「……健人さん」
雅臣は桃子から視線を逸らし、くるりと身を翻した。
「待って!」
駆け出そうとした桃子を、熊田と佐々木が腕を掴んで止めた。
「皆待ってる!
一瞬、雅臣の歩みに躊躇いが見えた。だが結局、そのまま足を止めずに展望台の方へと去っていく。こうまで頑なにさせるほど、尊へ憎しみは深いのか。
「お願い戻って! 菊池くんッ!」
桃子の切実で切ない声が、闇に包まれた山中に響き渡る。
健人がちらりと桃子へ視線を投げ、霊刀を消して雅臣のあとに続く。また隗も背を向けた――と、華が霊符を取り出して振り向き、宙へ放った。左手を構える。
「オン・アキシュビヤ・ウン!」
霊符がぴんと張って自立し、下平たちの頭上へ飛んだ。
「
華が真言を唱え終わると同時に、崖の下から真っ黒な影が浮き上がってきた。先程の倍はあろうかというほどの、巨大な悪鬼が浮かんでいる。その禍々しさに、ぞくっと全身が粟立った。
「な……っ」
やはり見えるらしい、中途半端な声を漏らしたのは熊田だ。車の中から彩たちの悲鳴が微かに漏れ聞こえる。
「動かないでください!」
下平の咄嗟の警告に危機感を覚えた熊田と佐々木が、素早く桃子を背中に庇った。霊符が浮かんでいるということは、車ごとすでに結界が張ってある。こちらはそれでいいが、彼らは大丈夫なのか。この大きさで触手を使われると、さすがに対処できないのでは。
下平は熊田たちの横を回り込み、結界にもどかしげに手をついた。
だが下平が見たのは触手ではなく、悪鬼が一斉に分裂し、雅臣たちを避けて茂たちに襲いかかる光景だった。丸飲みするのだとばかり思っていたが。しかしその数は視界を塞がんばかりで、茂たちだけを狙っている。桃子がいるにも関わらず、雅臣が立ち去るはずだ。茂たちだけを狙うよう命じられているのだろう。逃げるまでの足止めか。
案の定、展望台の方では、雅臣たちが躊躇なく崖下へ飛び下りた。だが、すぐに悪鬼に腕を絡め取られた雅臣たちが浮かんできて、悠々と飛び去って行った。
「狙いは僕たちだけ、触手なし。でも、この数はちょっと骨が折れるよねぇ」
のんびりとした口調で、しかし険しい表情で状況確認をしたのは茂だ。悪鬼を次々と一刀両断していく。おっと、と仰け反って顔の前を通った悪鬼を避けた。
「長引かせても意味ないですし、一気に叩きましょう」
舞っているような流れる動作で悪鬼を叩き切りながら、華が言った。柴は黙々と悪鬼を鋭い爪で切り裂き、握り潰している。
「そうだね。じゃあ、華さん、柴、展望デッキの方に集合。フォローお願い」
「了解です」
「承知した」
話がまとまったところで三人は霊刀と腕をひと振りして悪鬼を振り払い、展望デッキへと駆け出した。悪鬼が群れてそれを追う。先頭を走っていた茂が霊符を取り出し、華と柴がくるりと振り向いて悪鬼を相手にしながら徐々に後退する。一ヵ所に集めて調伏するつもりらしい。
「ノウマク・サマンダ・バダナン・バロダヤ・ソワカ!」
真言を唱えながら茂が展望デッキの前で踵を返し、霊刀を消して霊符を放った。左手を構え、集中しているのか瞬き一つしない。霊符は茂と華たちの中間あたりで宙に浮き、微動だにせずその言葉を待つ。
「
仄かに光る霊符の周囲に、渦巻く小さな水の塊が出現した。それはものすごい勢いで渦を巻き、同時に質量がどんどん増していく。悪鬼に危機感があるのか否か。いくつかを残し、悪鬼が示し合わせたように集まって再び一つの大きな塊を形成した。調伏されたせいでかなり小さくなっているが、それでも車三台分はありそうだ。おおおおお、と威嚇しているのか獣のような咆哮を上げる。
結界内にいてもびりびりと空気が震えているのが分かる。熊田たちが顔を歪ませて耳を塞いだ。
「
融合しなかった悪鬼の最後の一つを同時に切り裂いた瞬間、華が横へ避け、柴は飛び跳ねて茂の背後へ着地した。形成されたのは、悪鬼よりも巨大な、透き通った美しい水の塊。
「
力強く最後の真言が唱えられるや否や、水塊の形が変わった。例えるなら、千手観音。ぐわっと無数の触手が伸びて悪鬼の周囲を囲んで捕らえ、一瞬で塊の中へ引き摺り込んだ。間髪置かずに、今度は華の真言が響き渡る。
「オン・シュチリ・キャラ・ロハ・ウン・ケン・ソワカ!」
捕らえられた悪鬼が大暴れする水塊に、霊符が張り付いた。
「
霊符から、カッ! とまばゆい光が放たれ、悪鬼と一帯を包み込んだ。
下平は思わず目をつぶって顔を逸らし、さらに腕で目を庇う。熊田たちも桃子を庇うようにして背を向けた。結界が破られるのではと思うほど、悪鬼が上げた咆哮は凄まじく、山全体に低く木霊した。街の方へも響いているかもしれない。
やがて咆哮が空気に溶けた頃、下平はゆっくりと耳を塞いでいた手を離し、慌てて結界にへばりつく。巨大な悪鬼は見る影もなく、すっかり静寂が戻っている。茂たちも無事だ。
「水天の中級なんて、久しぶりに行使したなぁ」
茂が独鈷杵をポケットに押し込みながら、溜め息混じりにそう言った。
「綺麗な水塊でしたね。さすがしげさん」
華が笑みを浮かべて霊刀を消した。
「すっごい集中したよー。失敗できないのはもちろんだけど、地天が使えないから」
「展望台が崩れるかもしれませんからねぇ」
「そうそう。でも成功して良かった。華さんも柴も、怪我はないかい?」
「ええ。どこにも」
「ない」
「良かった」
すっかり和んだ様子でそんな会話をしながら、茂たちがこちらへ向かってくる。彼らからしてみれば慣れたものなのだろうが、下平以外の全員が口もきけないほど唖然としている。それとも、柴に対しての唖然だろうか。
一度見ただけでこの戦いぶりは慣れない。下平はほっと胸を撫で下ろしながら脱力した。廃ホテルの時もそうだったが、何もできずにこうしてただ結界内から見守るというのは、かなりもどかしい。何の力にもなれないことは、分かっているけれど。
と、下平を見た茂と華が、目を丸くして駆け寄ってきた。
「下平さん、その怪我……っ」
「大丈夫ですか?」
「ああ、心配いりません。掠り傷です」
下平は結界から手を離して、肘を曲げ伸ばしした。二人はほっと安堵の溜め息を漏らし、だがすぐに何か思い出したように瞬きをした。
「しげさん、さっき、結界が反応していませんでしたね」
「してなかったねぇ。話には聞いていたけど、何でだろう?」
言いながら二人は下平を物珍しげにまじまじと眺める。何だかよく分からないが、珍獣になった気がするからやめて欲しい。戸惑った顔で二人を交互に見やると、茂と華は我に返って苦笑いを浮かべた。
「ああ、すみません」
「ごめんなさい。つい」
あはは、と笑いながら謝ると、茂と華は「じゃあとりあえず」と言って顔を見合わせた。華が霊刀を具現化し、茂と柴が数歩下がった。
「少し下がってください。動かないでくださいね」
「ああ」
華に注意され、下平は何をする気かと首を傾げる熊田たちの所まで下がった。すると華は左脇に霊刀を構え、一気に振り抜いた。ガラスが割れたような甲高い音が響き渡り、頭上に浮かんでいた霊符がはらりと舞い落ちる。ひらひらと舞って目の前に落ちてきた霊符を佐々木が拾い上げ、不思議そうに目を落としながら華へ渡した。
「ありがとうございます」
にっこり笑って受け取った華と後ろに立つ茂と柴に、熊田と佐々木、桃子までもが言葉を忘れて目を奪われている。人外の柴は論外として、紺野からかなりの美人だとは聞いていたが、想像以上だ。また茂も、笑顔は大黒様を思わせるが、真剣な顔は凛々しく勇ましかった。彼のような中年男性を、今どきではイケオジというのだろう。廃ホテル組といい、あれか。陰陽師は顔も重要なのか。
下平が少々白け気味で卑屈になっていると、不意にガチャリと車のドアが開いた。顔を出した榎本が声を発する前に口を開いたのは、桃子だ。
「あ、あの……っ」
榎本が動きを止め、一斉に視線が集中する。桃子が怯えたように眉尻を下げ、しかし説明を求めるように上目遣いで大人たちを見上げる。聞きたいことは分かるが、話さない方が彼女のためだろう。茂たちが、困ったように顔を見合わせた。
「松井さん」
下平と僅差で口を開いたのは、佐々木だ。
「怖い目に遭わせてしまってごめんなさい。協力してもらって、とても感謝してるわ。でも……」
痛々しく眉根を寄せた佐々木を見て察したのか、桃子は悲しそうに視線を落とした。
尊たちを襲っただけでなく、こうしてたくさんの大人が動くような事件に関わっている。しかも、目の前で非現実的な光景が繰り広げられた。あれらの理解はできないだろうが、何か大きな事件に関わっていることだけは、分かるだろう。
「待っていてあげて」
不意に、佐々木が言った。桃子がゆらりと顔を上げる。
「彼を、待っていてあげて」
真っ直ぐな眼差しで見据える佐々木を、桃子がじっと見上げた。
この先、どうなるか分からない。桃子の直接の言葉でも、雅臣が戻ってくることはなかった。けれど、確実に迷いは生まれただろう。
まだ、希望はある。
「……はい……」
桃子は、伏せ目がちに小さく頷いた。少しだけ車で待っていてくれる? と言って、佐々木が桃子の背中に優しく手を添えて誘導する。下平は二人の背中を見送り、榎本を振り向いた。
「榎本」
あのやり取りを彼女も見ている。悲しげな目で桃子を見ていた榎本が我に返った。
「中でちょっと待ってろ」
有無を言わさない声色に、榎本は不満そうな顔をした。しかしすぐに、分かりましたと小さく答え、すごすごと車に戻る。入れ替わりに佐々木が戻ってきた。
下平は、改めて茂と華を順に目を止めた。
「時間がありません。自己紹介はまたの機会にしましょう」
「そうですね。じゃあ、柴」
茂は後ろに立っていた柴を振り向いた。
「先に寮へ」
「承知した」
こくりと頷き、柴は身を翻すと大きく跳ねて展望台の方へ飛び、あっという間に姿を消した。熊田と佐々木が「おお」と感嘆を漏らす。