第7話

文字数 2,501文字

 餓虎は両親や仲間の仇だ。一度だけ、自分も戦に加えて欲しいと進言したが、柴にあっさり一蹴された。
「気持ちは分かるが、お前は、まだ弱い。定円や藤が守ろうとした命を、無駄にするつもりか」
 返す言葉もなかった。弱ければ死ぬ。それは、十分身に沁みていた。
 唯一できることといえば、毎日山のように出る汚れた衣の洗濯と、玄慶の嫡男の行毅(ぎょうき)と鍛錬を積むことくらいだった。
 根城へ迎えられたその日、隗が不機嫌な顔でここを訪れる直前に紹介されたのだ。年の頃も近く、鍛錬相手にいいだろうと。気の強そうな吊り目は母親、厳つくて大きな体躯、そして気安い性格は玄慶譲りのようで、すぐに仲良くなった。また寝床も一緒で、何かと世話を焼いてくれる行毅は、まるで兄のようだった。
 そして夜襲から十日後。陽が沈み、世が完全に闇に飲まれた頃。戦の火蓋は切って落とされた。
 柴たちが出陣したあと、根城や里ではますます厳重な警戒態勢が敷かれ、夜通し篝火が焚かれた。また、戦に参加しない女子供や長老たちは、それでも武器を手元に置き、根城の中央にある広場に集められた。微かな物音一つ、風が枝葉を揺らす音でさえも、皆大仰に反応して警戒する。根城全体に漂う異常なほど張り詰めた緊張感は、必要以上に神経を過敏にさせた。
 いつ餓虎や野鬼が襲撃してくるか分からない緊張と不安の中、一睡もできずに一夜を過ごした。
 やがて夜が明け、東の空が明るくなってきた頃。見張り役の一人が、酷く興奮した様子で広場に飛び込んできた。
「ご帰還されたぞ! 我々の勝利だ!」
 突き上げられた拳と宣言に、大気が揺らぐほどの歓声が上がった。
けれどその反面、犠牲も大きかった。
 興奮冷めやらぬ中、湯浴みや食事の支度に取りかかる。長年手を焼いてきた餓虎を壊滅させたのだ。勝利に沸き立ちながらもせわしなくあちこち駆け回り、広場には珍しく大量の食事が並んだ。
「父上!」
「柴主!」
 しばらくして、柴に支えられて帰還した玄慶は、左手を失っていた。決着が付く寸前だったのだろう。傷口を覆った布切れはどす黒く染まり、血が滴り落ちていた。鬼とはいえ、治癒力にも限界がある。全身に傷を負い、さらに深手を負えばそれだけ時間もかかる。ましてや肉体の一部を失ったとなれば、傷口は塞がっても再生することはない。
 青い顔で駆け寄った行毅と紫苑に玄慶は、
「ちょいとしくじった。大事ない、すぐに塞がる。利き腕でないのが幸いだ」
 と言って、何でもないことのように笑った。
 肉体の一部を失ったのは、玄慶だけではない。腕や足、目、鬼の象徴である角。すでに傷口が塞がっている者もいれば、玄慶のようにまだ治癒の途中の者もいる。そして、命を落とした者たち。
 広場に次々と並べられる屍の中に見知った顔を見付け、紫苑は唇を噛んだ。夜襲を受けた日に援軍として来てくれた、暁覚の隊の兵だ。兵としてはまだ若く、けれどとても優秀だと聞いていた。訓練の合間を縫って剣術を教えてくれたり、隊の小話を聞かせてくれたりと、親しみやすい男だった。彼以外にも、根城に来てから色々と気遣ってくれた顔見知りの兵がちらほら見える。
 父親や夫や息子の屍に縋りついてすすり泣く女子供の姿が、あの日の自分と重なった。
 翌日、屍は根城の近くに埋葬された。小ぢんまりとした岩を墓石とした墓が不規則に並んだ、簡素な墓場だった。
 その日から、毎日のようにどこからか人の屍が運び込まれるようになった。川魚や木の実、獣を食すとはいえ、本来鬼の主食は人なのだ。傷を癒すには、やはり人の肉が一番効果がある。そうして傷が癒えると、今度は夜な夜な精気を求めて人里へ下りる。
 一方で柴は、眠ったまま目を覚まさなかった。兵の治癒を優先するようにと事前に伝えていたらしく、おそらく体力を温存しようと本能的に深い眠りについているのだろうと、玄慶は言った。
 玄慶に頼み込んで、世話の手伝いをさせてもらった。体や髪を拭いて衣を換え、布に水を含ませて唇の隙間からほんの少しずつ喉に流す。傷は完治しているのに、まるで屍のように動かない体が、その時だけは小さく喉を鳴らした。生きていると分かっていても、毎度安堵する瞬間だった。
 柴の寝床は、広さのわりに実に簡素だった。中央に炉(囲炉裏)があり、壁際には、地面から高く土が盛られた場所に板が張られ、さらに(むしろ)が敷かれている。薪が積まれ、水瓶の側には同じく莚の上に器や箸が置かれているだけで、綺麗に片付いている分、余計に三鬼神の寝床とは思えないほど殺風景に見える。こんな場所で一人眠りについているのかと思うと、少し寂しい気がした。
 柴の世話をしながら鍛錬に励む中で、餓虎の首領・剛鬼の正体と末路を聞いた。
 名は間違っていなかったらしいが、多少体躯は大きいものの、見てくれはそこらの鬼と大差なかったそうだ。角が三本生えているわけでもなく、ましてや妖術を使うわけでもない。どれだけ野鬼の間では強くても、揃った三鬼神相手に敵うわけがない。最期は隗が首を刎ねて根城に持ち帰り、木のてっぺんに結わえつけ、見せしめとして晒したらしい。陽に照らされて徐々に腐敗し、餌を求めて集まった鳥たちに(ほふ)られ、形を失い、やがて崩れ落ちて土へと還るのだろう。
 塵ほどの情も湧かなかった。
 今回の戦は、三鬼神が餓虎に手を焼いたように、餓虎も長年にわたって縄張りを奪取できないことに痺れを切らしたゆえのものだったのだろう。ただ、何故それが今だったのかという疑問が一瞬頭を掠ったが、すでに餓虎は壊滅している。考えるだけ無駄なことだ。奴らは欲を満たすためだけに父母や仲間を大勢殺した。それだけが、真実だ。
 戦から五日後。やっと、柴の番が回ってきた。
「柴主。お食事を」
 静かに声をかけ、玄慶は眠ったままの柴を抱えて森の中へと消えた。根城で人を食らう時は森の中にある「人間用の埋葬地」で、という決まりがある。血の匂いを嗅ぎつけた獣を侵入させないためだそうだ。
 しばらくして戻ってきた柴は、きちんと自分の足で立っていた。五日間も眠りについていた主の復活に皆安堵の息をつき、そうしてやっと、日常が戻ってきた。
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